2013年07月17日

李清照 年表(後)

李清照 年表(後)  (誕生から晩年まで)
  
 西暦と年号では一ヶ月以上ずれていている。そのため一年のずれが生じることがある。
西暦、年号 (李清照年齢)
    主な出来事   ☆印は李清照関連   ★印は宋関連
   ……………………………………………………

1084  元豊7(1歳) 司馬光 資治通鑑を著す。
☆李清照生まれる。山東省済南。なお「李清照詞析賞」では元豊6年となっている。
 この表は「政和4年31歳」と「建中靖国元年18歳」を基準にした。年齢は数え年である。
1085  元豊8(2) ★哲宗(在位1085−1100) 3月に即位、10歳。
 ★司馬光 宰相になる。
 この後、哲宗が親政するまでの間、旧法派が権力を得て、王安石の新法を廃す。新法派を弾圧する。国家経営が行き詰まり、新法が始まったのだが、それを元に戻したので、当然ながら行き詰まったままである。
 司馬光は、高官の地位は特権ではなく、努力や能力によって手に入れたのである。と考えていた。このころまでは、新旧の争いは政策論争であったが、この後は党派の争い(権力争い)になる。
☆李清照の父李格非は旧法派に属していた。
1086  元祐1(3)  4月王安石死す。9月司馬光死す。
1087  元祐2(4)  
1088  元祐3(5)  
1089  元祐4(6)  
1090  元祐5(7)  
1091  元祐6(8)  
1092  元祐7(9)  
1093  元祐8(10) ★哲宗親政。太皇太后高氏没す。 新法を復活させる。
1094  紹聖1(11) ★章惇 宰相になる。 章惇は新法派であり、元祐年間に旧法に戻した者たちを元祐姦党として弾圧した。
1095  紹聖2(12)
  
1096  紹聖3(13)  
1097  紹聖4(14)  
1098  元符1(15)  
1099  元符2(16)  
1100  元符3(17) ★徽宗(在位1100−1125) 即位。  章惇をやめさせる。
1101  建中靖国1(18) ★徽宗 親政。
 新帝が即位すると、擁立した旧法派の高官が力をえる。しかし、新帝が権力を手にすると、改革を考え新法になる。この繰り返しにより、宋は力を弱めた。
 唐末期の牛李の争いは、力をえた者が、相手を壊滅させることを繰り返し、人材が払底して、国が滅んだ。宋はマイナスの人材も温存したのが仇となって滅んだといえよう。
☆李清照、嫁ぐ(18歳)。
☆夫の趙明誠は当時太学生であり、すでに金石学で高名であった。
 (余建中辛巳始歸趙氏時、先君作禮部員外郎、丞相時作吏部侍郎、侯年二十一在太学作学生 わたしは、建中靖国元年に趙氏に嫁いだ。そのとき先君(父)は礼部員外郎であった。丞相(趙挺之)は吏部侍郎(次官)であった。侯(趙明誠)は二十一歳で太学生であった。)
☆夫の父の趙挺之は新法派で大臣であった。 正しくは次官であるが大臣がいないため、事実上は大臣である。
1102  崇寧1(19) ★蔡京宰相になる。この蔡京は、水滸伝の悪役である。
 この年、再び新法派が旧法派を弾圧した。司馬光・蘇軾・李格非など120人を元祐姦党とし、名を刻んだ元祐姦党碑を太学の端礼門外に立てた。地方にも立てた。
☆趙挺之は僅かの間だが宰相になった。ただし、実権は蔡京にあった。旧法派の弾圧に力を注いでいる。
☆李清照が宰相に手紙を書いて父の命を救ったという話がある。言論では殺さない国是なので疑わしい。しかもその宰相とは義父である趙挺之。
1103  崇寧2(20) ☆徳父(趙明誠)出仕。科挙に合格した記録は見たことがないので、高官の子弟という特権で出仕したようだ。
1104  崇寧3(21) ☆義父の趙挺之が、この年に亡くなった。その3日後、趙一族は追放され青州に帰る。
☆徳父と郷里に在り(青州)。この後10年間青州にいた。徳父は後年、莱州と青州の郡守となった。 
1105  崇寧4(22)  
1106  崇寧5(23)  
1107  大観1(24)  
1108  大観2(25)  
1109  大観3(26)  
1110  大観4(27)  
1111  政和1(28)  
1112  政和2(29)  
1113  政和3(30)  
1114  政和4(31) ☆絵に徳父が賛を書く(清照31歳)。 政和甲午新秋徳父題於帰来堂
 この記録は貴重である。この記録と嫁いだ時の記録によって、李清照の年齢が決定される。
 政和四年というような年号は、数字を間違えやすい。しかし、干支は間違いが少なく、歴史資料の確定に使われる。政和の甲午は、政和4年(1114)である。
 徳父 ……趙明誠の号。
 帰来堂……趙家の図書館、青州にあった。
1115  政和5(32)  金の建国。
1116  政和6(33)  
1117  政和7(34)  
1118  重和1(35) ★蔡京 太師となる。太師となる前も、実権は握っていた。 
1119  宣和1(36)  
1120  宣和2(37)  方臘の乱
1121  宣和3(38)  
1122  宣和4(39)  
1123  宣和5(40)  
1124  宣和6(41)  西夏、金の属国となる。
1125  宣和7(42) ★欽宗(在位1125−1127) 即位。徽宗は引退したが、宋は滅びる寸前であった。

1126  靖康1(43) 靖康の変。  金は徽宗と欽宗を捕虜とした。靖康の変という。
☆徳父溜川をまもる。

1127  建炎1(44) ★高宗(在位1127−1162) 即位、南宋となる。
★高宗 南京王天府 → 揚州
 金は徽宗と欽宗を北へ連れ去った。ここで北宋は終わった。
 高宗は、徽宗と欽宗の救出に消極的であったという。
☆(3月)徳父の母、死す。
 李清照は趙家の図書館「帰来堂」の文物のうち、良い物だけを選んで船で建康まで運んだ。書だけでも15車という。12月に青州に残した物を全て戦火で焼失した。十余屋。
 この年から記録がゴチャゴチャしてくるが、李清照の流浪の時である。
1128  建炎2(45) ★高宗 → 鎮江 → 杭州
☆徳父、建康(南京)の知となる。
1129  建炎3(46) ★高宗 → 建康 → 鎮江 → 常州 → 杭州→ 越州 → 明州 → 定海 → 温州沿岸
☆建康 → 池陽 → 衛 → 洪州
☆3月 徳父、建康の知を辞す。
☆5月 清照、池陽に行く。徳父、湖州の知となる。
☆7月 徳父、病む。
☆8月18日、徳父死す。葬儀の後、清照病む。
☆このときでも、蔵書は二万巻・金石刻二千巻を持っていた。
☆衛から洪州にいくが、12月にここも金に攻め取られ、蔵書のほとんどを失なってしまう。
☆徳父の死後、玉壺事件が起こっている。
1130  建炎4(47) ★高宗 → 越州
 秦檜が南宋に帰国。
☆現在の浙江省内を転々とする。
1131  紹興1(48) ★秦檜が宰相になる。
☆3月越に戻る
1132  紹興2(49) ★高宗 → 杭州 ここを都とする。
☆再婚した。百日ほどで離婚。九日間の徒刑。
 当時は夫に責任があっても、女が離婚を申し出れば二年の徒刑となった。幸い親戚の高官の計らいで、九日間に減らすことができた。
1133  紹興3(50)  
1134  紹興4(51)  
1135  紹興5(52) ☆8月 金石録後序を撰す。
 この年表の李清照の項は、ほとんどこの金石録後序による。
 鳴呼、余自少陸機作賦之二年、至過蘧瑗知非之両歳三十四年之間、……紹興二年
   陸機作賦……二十歳。
   蘧瑗知非……五十歳。(蘧瑗(キョエン)、蘧伯玉、よく反省する人で、五十歳になって、四十九年間の非を知った)
 ああ、わたしは、陸機が作賦した二十歳より二年若いときから、蘧瑗が非を知った五十歳より二歳過ぎるまで三十四年の間、……紹興二年
 「18歳から52歳まで34年間‥‥‥」の意味である。18歳は嫁いだ歳であり、52歳はこの文を書いた歳であると思える。
 しかし五十二歳は紹興二年ではない。紹興四年の間違いかと言う人もいるがはっきりしない。
1136  紹興6(53)  
1137  紹興7(54)  
1138  紹興8(55)  
1139  紹興9(56)  
1140  紹興10(57)  
1141  紹興11(58)  岳飛獄死。秦檜が主戦派を粛正。
1142  紹興12(59)  
1143  紹興13(60) ☆この年までの生存は確認されている。
1151  紹興21(68) ☆死去説がある。ただしはっきりしない。

1279  南宋が滅び元が全土を支配。

参考
たくせんの中国世界−李清照 −詞后の哀しみ−
雲外の峰−書庫−李清照 その人と文学
雲外の峰−書庫−中国の女詩人
雲外の峰−書庫−新譯漱玉詞
雲外の峰−書庫−李清照後主詞欣賞  中文
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2013年07月11日

李清照 年表(前)

李清照 年表(前)  (唐の滅亡から李清照の誕生まで)

  
 西暦と年号では一ヶ月以上ずれていている。そのため一年のずれが生じることがある。
   参考  たくせんの中国世界−李清照 −詞后の哀しみ−
西暦、年号 (李清照年齢)  
    主な出来事   ☆印は李清照関連   ★印は宋関連
   ……………………………………………………
907  朱全忠、唐を滅ぼす。五代十国の始まり。
916  契丹の耶律阿保機、皇帝を称した。
937  契丹は国号を遼と改めた。タイ族の段氏、雲南に大理国を建国。南唐建国。
958  南唐二代目李m、帝号を去り王となる。皇帝として即位したが王に格下げした。外圧による。

960 ★宋太祖(在位960−976)趙匡胤(ちょうきょういん) 帝位につく。
 この年から宋朝となるが、その国是として、「言論で人を殺さず北周柴氏の祭祀を絶やさず」とした。意見の差によって死刑にされることがなくなり、宋はきわめて言論が自由な国であった。
 この対極にあるのが明である。一言の失言で死刑になるため、重臣たちは毎朝死の準備をして出仕したという。結局ほとんどの建国の重臣は殺されてしまう。
 北周柴氏とは、趙匡胤に国を禅譲した前王朝の主である。従来の王朝では、機会をみてこのような人と一族を殺してしまうのだが、宋は滅びるまで柴氏を厚遇している。
961  建隆1  南唐後主李U、王となる。李Uは後に詞帝と称される。
   参照 たくせんの中国世界−李後主 −詞帝−    
973  開宝6 ★はじめて講武殿にて覆試を行う。殿試はじまる。
 唐代から始まった科挙が定着した。唐代は実質貴族のみであった。実質的な科挙の始まりである。後に弊害が生まれたものの、この制度は他にないすばらしい制度であった。あまりにすばらしすぎたので、弊害が生じても止めることができず、中国近代化の妨げとなってしまった。
975  開宝8  南唐を滅ぼす。南唐後主李Uは、首都汴京(ベンケイ(開封))に囚われの身となった。そこでも数々の優れた詞を作ったが、結局汴京で没した。
976  開宝9 太平興国1 ★太宗(在位976−997) 10月に即位。
 2代太宗は初代太祖の弟である。初代の即位も太宗の辣腕に負うところが多く、太祖の死にも疑わしいところがあるといわれている。
977  太平興国2 
978  太平興国3  南唐後主 李U死す 42歳。一説に毒殺されたという。言論では殺さない宋の例外ともいわれ、はっきりしない。なお中国の高官の死刑は毒死である。江戸時代の切腹に相当するか。
979  太平興国4 ★宋によって中国統一  北漢が滅び十国終わる。
  ★太祖の子 趙徳昭(951−979)自殺。
980  太平興国5
981  太平興国6 ★太祖の子 趙徳芳(959−981)没す。ここに太祖の子は二人とも死んだことになる。かなり問題のある死に方であった。 
997  至道3 ★真宗(在位997−1022)即位 太宗の子。
1001  咸平4 ★天下の冗士19万5千余人を減ぜん。大量の解雇である。役人の数は唐代の倍もいたという。
1004  景徳1 ★澶淵の盟(せんえんの盟)、遼と講和条約を結ぶ。歳費として絹20万匹・銀10万両を、宋から遼に支払うことになった。
1019  天禧3  司馬光 生まれる。旧派の筆頭である。王安石の改革を覆した。しかし、自ら改革案を出せず、宋を亡国に導く。
1021  天禧5  王安石 生まれる。後に国政改革を断行する。
   参考  たくせん中国世界−王安石 −改革半ばにして− 
1022  乾興1 ★仁宗(在位1022−1063)即位。仁宗は即位するまで生母を知らなかった。知ったときは生母はすでに死去していた。
1038  宝元1  李元昊 夏(西夏)を建国、皇帝を称す。
1042  慶暦2 ★遼への歳費が絹30万匹・銀20万両となる。
1044  慶暦4 ★西夏への歳費 絹13万匹・銀5万両・茶2万斤となる。平和も購ったことになるが、遼と西夏への歳費は財政を圧迫した。役人の多いことに加え、租税負担層が薄くなり、税収が減ったことも原因で、亡国の道を歩み始める。
 このころ活字印刷術が発明される。
1060  嘉祐5  王安石「万言書」を奉る(1058年説あり)
1063  嘉祐8 ★英宗(在位1063−1067)即位。
1067  治平4 ★神宗(在位1067−1085)即位。
1069  煕寧2 ★王安石、参知政事となる。
 形式的には副宰相だが、事実上の宰相に相当する。財政危機に当たり、新法を実施した。以後、科挙の上位合格者による特権グループの旧法派と、改革を目指す新法派の間に、新旧の争いが起こり、王安石の改革は覆される。
1074  煕寧7  王安石 下野。
1075  煕寧8  王安石 また宰相になる。
1076  煕寧9  王安石 辞職。
1079  元豊2  蘇軾 左遷される。
1084  元豊7(1歳)  司馬光 資治通鑑を著す。
 ☆李清照生まれる。山東省済南。なお「李清照詞析賞」では元豊6年となっている。
 この表は政和4年31歳を基準にした。年齢は数え年である。
 

      つづく

 HPにあったものをここに移動しました。
 今までは、普通では表現できない漢字が多く、HPではちょっとした一般的でないやり方で、無理に入れていたのですが、今のブログではほとんどの漢字が表現できるようになりましたので、移すことにしました。
 長いので、唐末から李清照出生までを(前)、出生以後を(後)として前後に分けました。
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2013年01月08日

武侠旅行はどうする

武侠旅行はどうする

 いつも武侠旅行「岡崎由美先生と行く中国の旅」を企画していた、株式会社二十一世紀旅行のHPを見ようとしたら見えなくなっていた。しばらくしてからもう一度見ようとしたがない。
 関西の八雲幇主のブログを見たら、株式会社二十一世紀旅行は廃業したという。倒産か解散か転業か判らないが、廃業したのは残念だ。
 原因は当今の中国事情らしい。
 岡崎由美先生と行く中国の旅は5回、わたしは第二回から4回参加している。

桃花島へ行くはずだった旅、
天龍八部の旅、
横店と金庸ゆかりの地を訪ねる旅、
武当山武術発祥の地・「武当山」を訪ねる旅、

 それぞれに苦労があり、思い出がある。いつも独特のコースを開拓するので、先方の旅行社との折衝や現地情報の収集など苦労があったと思う。
 わたしなど、次回は添乗員のTさんの行きたい場所にしましょう、などと言うくらいに、観光地の選定を信頼していた。

 八雲幇主は武侠旅行を諦めてはいないので、またどこかで計画してくれるのではないかと思う。期待している。
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2012年10月25日

第8回 武侠迷大幇会

 十月二十日に年に一度の武侠迷大幇会があった。回を重ねて八回目。
 会場は前回と同じ、新宿の「香港中華 九龍餃子房 新宿別館」。
 集まった人は43名。
 会場に入ると、初めての落ち着いた女性がいらっしゃる。なんとわたしのプログを見てコメントを書いてくれたので、わたしが誘ったところ来てくれたという。(^。^)。
 各自それぞれ席に着いたが、幹事の仕事がなかなか終わらず、流れ開会。これは前回に同じ。しかも肝腎の岡崎先生が遅刻したので、関西幇主の八雲さんが乾杯の音頭をとって開会宣言した。
 もちろん武侠の幇会なので議事次第があるわけでなく、飲んで食べて熱く武侠を語り、夜も更けていく。
 前回と同じ席に座ったので、まわりが半分は同じメンバーになった。

PA205753-2.JPG
 今回も香港漫画店から香港マンガの紹介。また店主が自分で翻訳し印刷製本した小冊子を今年も頂いた。これで4冊目になる。

 料理は前回と似たようなものなので、紹介はパス。
 今回手に入れたもの。

fuuun08.jpg
風雲 第三部 第83期
 B5より少し大きい、200頁のオールカラー劇画。上の写真のような絵で、見ていて疲れる。劇画はモノクロタッチの方が見やすい。

dokuhitou08.jpg
 まだ見ていないがショーブラものらしい。

yari08.jpg
 寒星冷月槍。馬超の武器と言うが、このドラマの設定か。三国志にこの名前が出てきた記憶がない。史実では馬超の武器は槍ではなかったようだ。

 9時頃解散した。二次会に行った人もいるがわたしは今回はパスした。行っても途中で抜け出さないと帰れなくなる。
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2012年09月29日

上海影視楽園

武当山武術発祥の地・世界遺産「武当山」を訪ねる旅 10

5日目
 上海影視楽園に行く。小さいながら、上海にも映画の撮影所がある。渋滞に巻き込まれる前に行きたいというガイドの説明で、朝7時に出発した。慌ただしい。

P8285627.JPG
 8時半の開門前に着いた。しばらく待って入場となる。戦前の上海の一画が、再現されている。

P8285631.JPG
 最初に入ったのは西洋式庭園。
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2012年09月26日

襄陽航空事情

武当山武術発祥の地・世界遺産「武当山」を訪ねる旅 9

4日目
 この日は観光はなく、襄陽に向かう。ガイドは「忘れ物はありませんね」と言うが、判っていたら言われるまでもなく取りに戻る。ここに来てトランクを開けて検査する人はいない。
 わたしはウエストバックを開けてパスポートと財布を確かめる。始めたのが遅かった。
 かなり前の雲南旅行のとき、ガイドはバスに乗る度に「忘れ物はありませんね。パスポート・財布・眼鏡・時計・入れ歯、触るだけでなく実際に目で見て確認してください」と言っていたことを思い出した。実際「入れたはずなのに」と慌てた人がいたのだ。いつもとは違うポケットに入れていた。
 言いわけがましいが「忘れ物はありませんね」だけではあまり意味がない。

 このころは上海に台風の影響があるかどうかが注目の的だった。この日のうちに上海に行けないと翌日の成田便に間に合わないのだ。とにかく襄陽まで行く。
 昼食後、空港の搭乗手続きを済まして空港内に入る。台風は上海をかすめて通り過ぎ、朝鮮半島に近づいていた。一安心。
 予定は13:40発。ところが搭乗口が開かない。かなりたってから、上海便搭乗の指示が出たが、いっこうに乗せる様子はない。
 空港の売店で時間を潰すが、たいしたものがあるわけではない。
 アナウンスがあって、機体に不備を見つけたので整備員が直しています、と言う。
 3時ころになって、直せないので武漢の空港から部品を取り寄せる、それに3時間かかると言う。それから直すわけだ。中国人客が騒ぎ出した。かなり帰った人もいる。
 旅行団では、武漢まで行き、それから特急電車に乗って上海まで行くことも検討された。まとまった切符が取れるかどうか。添乗員は会社と連絡をとって、他の方法も検討したようだが、いずれも困難がある。
 夕刻近く(4時ころかな)なって、市内のホテルで休息してあらためて空港に来ることになった。そこまでバスで40分以上かかる。けっこう遠いのだ。夕食も航空会社が用意した。まあ機内食代わりだな。
 八時半ころだったか、200元を受け取り、ようやく飛行機に乗った。上海のホテルに着いたのは夜中の11時ころ。
 上海のガイドは、3時から空港で待っていたと言う。

P8285623.JPG
 このホテルは夜中に着いて朝早く出発した。

 前に 雲外の峰−大洪水の義捐金 で航空機の問題について、わたしの中国語の先生(大人になってから日本に来た)が言った話の要旨。
 中国は格安旅行はすべきでない。サービスが済むまでお金を払ってはならない。払ってしまえば以後はまじめにサービスしない。
 欧米人の場合は抗議することが判っているため、なにも言わなくても優先的にホテルに送るが、日本人は抗議できないため、安心してサービスに手を抜きごまかす。とにかく苦情を言うこと。中国人客はもともと格安料金なのでサービスは期待していない。
 
 という話を思い出した。実際に経験してみると何か違う。
 日本の場合は遅れることはめったになく非常事態で、そんな時は抗議しても仕方ない。そして客は平等に扱う。だから普通の人は抗議の経験などない。
 遅れることが日常の中国では、抗議しないと放って置かれる。つまりとにかくダメ元で抗議する。逞しいが、そのような生活は疲れるだろうなあ。
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2012年09月24日

武当山 金頂 続き

11月15日 記
 大幇会の次の日に、旅行メンバー有志による写真交換会があった。そこで金頂の写真を手に入れたので、金頂の続きとして載せる。

P1170126.JPG
 ロープウェイで山頂に向かう、高低差七百メートルほどだったか、記憶が不確か。

R0013618.JPG
 山頂駅から階段で上を目指す。
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2012年09月23日

武当山 金頂

武当山武術発祥の地・世界遺産「武当山」を訪ねる旅 8
     butouzanchizu3.jpg
 太子坡からバスに乗り、地図の左側の道を上り金頂地区に行く。中観とあるあたり。途中には人家はほとんどない。ここで昼食だった。

P8265615.JPG
 瓊台中観、ここで昼食。王へん+京は瓊(けい)の簡体字。
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