2009年05月29日

憶江南10 黄山4

江南を憶う 黄山4

 光明頂の山頂は広く眺望はよい。いろいろな建物が建っている。高さは黄山第二というが、まわりを見渡すと、向こうの方が高い感じがする。
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 光明頂付近からの景色
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2009年05月27日

憶江南9 黄山3

江南を憶う 黄山3
               huanshan.chizu.jpg
 ホテルに入って昼食をとる。

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 獅林飯店には小さい小さいスーパーマーケットがある。日本人客が多いのか、カタカナの表記まである。少し怪しい(^_^)。
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2009年05月22日

憶江南8 黄山2

江南を憶う 黄山2

 黄山1と同じ観光ポイントから他の峰を見てみる。この尾根は結構長い。道は整備されていて、観光ポイント以外は急なところは少ないので、運動靴でも充分。
 ケーブルに乗らず歩いて登ってくる人も大勢いた。ケーブルの下の位置が海抜900mほど。午後に行く予定の一番高いところでも1860m。わたしでも登れる高さだ。
 尾根の途中の柵に、びっしりと錠が取り付けられている。恋人同士の愛の誓いだという。

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 名の知れぬ尾根も侮れない。これだけでも名所になりそうな雰囲気。
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2009年05月20日

憶江南7 黄山1

江南を憶う 黄山1 (カテゴリーは黄山にしました)
            huanshan.chizu.jpg 地図クリック
02年1月1日
 大きな荷物は屯渓(黄山市)のホテルに預け、手荷物だけで黄山に向かう。途中で小型バスに乗り換える。大型バスは黄山には入れない。乗り換えのとき、土産物屋に入って休み、お茶を飲む。
 売店の若い女の人と中国語と日本語を交えて話をした。彼女たちは店に入ってから日本語を覚えたといっていた。売店全体で一緒に日本語を学んでいるのだ。
 その人が行ってしまったとき、旅行団の女の人がわたしに言った。
「請坐(おかけなさい)」
 仕事で一年間北京に行って、そこで中国語を覚えたという。
 いよいよ黄山に入る。バスの運転手と車掌(?)が大声で話をしているが、沈さんにもさっぱり意味が判らないと言った。
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2009年05月15日

憶江南6 屯渓

江南を憶う 屯渓

 バスで屯渓に向かう。景徳鎮を出て間もなくム(務の力の部分が女)原県で昼食をとる。景徳鎮の食事の評判が悪いので、新たに探したところという。なかなかご飯が出なかった。この地方では、酒を飲んでいる時はご飯を出さないのが習慣で、出しそびれたらしい。
 沈さんは言った。
「野菜中心ですが、これは日本人向けです。もし中国人にこのような料理を出すと、どうして豚肉を出さないと、文句を言われます」
 心配する料理人を説得したらしい。

 屯渓までバスで約五時間である。この間の山の斜面には茶畑が多い。民家は所々に集中している。まわりは白く塗ってあり、全体的にきれいな印象を受けた。
 このひとつの集落は、大概一村一氏である。その氏をとって〇家村(〇氏村かな)という。
 この地方の男はよく商売で外に出た。そうして成功して帰って来るとうだつの上がった家を建てる。逆に言えば村は女所帯になりやすい。そこで家を守るため、一族で集まって、全体で一軒のような家を建て、白くする。中は迷路のようになっているらしい。また、この地方はうだつを上げる習慣の発生の地だという。
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2009年05月10日

憶江南5 景徳鎮

江南を憶う 景徳鎮
 蘇州で昼食後、夜行列車十四時間の旅のため、駅に向かう。景徳鎮方面行きの寝台車に、ともかく乗り込む。予約をしてあっても、席がないこともあり、あっても席番号が違うことがある。
 乗ってみて、席を確かめ、それから席を割り振る。これが一騒動であった。ようやく静まり、わたしたちは男四人で酒盛りを始めた。Kさんは瓶入りの大吟醸を持ってきていた。たちまちなくなってしまう。
 添乗員が様子を見に来る。沈さんが来たとき、「一緒にお話ししませんか」と声をかけたが、「あとで」と行ってしまった。
 乗車の直前に夕食の弁当を渡されたが、適当にホテルの残り物を入れたような感じである。中国では弁当の習慣がないと聞いていたが、この弁当を広げて唖然となった。饅頭一個・ソウセージ一本・スーパーで売っているような密封ポリ袋入り漬け物、あとは忘れたが、スナック菓子のような物があったような気がする。
「寝台車で寝ているとき窓を開けていると、駅で泊まったとき荷物を紛失する可能性がある。窓を閉めておくように」、といわれた。
 途中で「南京」のアナウンスがあった。窓のカーテンを開けると南京駅である。聞き間違いではなかった。旅程表に書かれた路線図とは線路が違う。景徳鎮に着いたのは午前四時半ごろである。
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2009年05月05日

憶江南4 運河

江南を憶う 蘇州 運河

 蘇州の街は縦横に運河が走っている。その運河に密着して両側に家が建ち並んでいたが、現在はこれらの家を取り壊し、そこを路にしている。それはまだ終わっていないので、船に乗って古い運河を見学することにした。時間は四十分程度である。これは予定外。
 それは蘇州の裏側を見るようだった。下水が流れ込み、川はどぶ川に近く、夏には悪臭を発しそうだ。昔の隅田川を思う。おそらく、道頓堀よりはきれいだろう。
 (この文を書いてから七年ほどたつ。現在はどうだろうか)

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 虎丘雲岩寺の門の前の水路も観光の舟が集まっている。
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2009年04月29日

憶江南3 虎丘

江南を憶う 蘇州 虎丘
 虎丘斜塔の虎丘に行く。丘の高さは海抜三十四メートル。
 虎丘は春秋時代の呉王闔閭(こうりょ)を葬った陵墓と伝わる。葬ったのは臥薪嘗胆の故事で知られる息子の呉王夫差(ふさ)。
 雲岩寺がある。いろいろ伝説があるようだ。
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 雲岩寺の門、ここから見ると塔はあまり傾いてはいない。
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2009年04月25日

憶江南2 寒山寺

江南を憶う 蘇州 寒山寺
 鐘の寒山寺である。最近建てた日本で見るような五重の塔がきれいであるが、中国でこのような形の塔は初めて見た。日本人観光客向けの観光施設かも知れない。寒山寺は結構広く、わたしたちが見たのはその一部であろう。
     2001.12.1.15.jpg
     塔
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2009年04月22日

憶江南1 留園

   江南を憶う 蘇州 留園
 少し前の記録である。HPからブログに移すとき、他のことがあって、なかなか移せなかったものを、ようやくブログに載せることにした。

 01年12月29日〜02年1月4日
 正月に二十九人の団体で江南の旅をした。
 上海〜蘇州   1時間半 バス
 蘇州〜景徳鎮  14時間  夜行列車
 景徳鎮〜屯渓  5時間  バス
 屯渓〜黄山   2時間  バス
 屯渓〜杭州   6時間  バス
 杭州〜上海   2時間  特急列車

 29日に成田から上海まで飛び、バスで蘇州に到る。
 添乗員から、現在の中国は景気の減退傾向にあり、犯罪が増加している、くれぐれも注意をと、くどいほどに念を押された。特に地方から出てきた人で、正月に家に帰れない人による、ひったくりなどが増加しているらしい。
 中国側の添乗員は沈さんという若い女性である。日本側の若い男性の添乗員は、一応中国語が話せるが、基本的に沈さんに任せている。旅行社による契約(実際は観光客を受け入れる条件として決まっているようだ)で、任せなければならないようになっている。
 例えば、毎日一回は土産物屋に寄らなければならない等々。さらに各地のガイドがつく。
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2007年11月26日

杭州 13 余り

 今回が最後です。
 まとまりのない写真ですが、参考までに。なお、十一月三日に旅行者の懇親会が開かれて、そこで写真を頂きました。なんとCDに四枚。この中の写真も使ってよいとの許可が出ましたので、何枚か紹介したいと思いますが、それはまた別にします。
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2007年11月22日

杭州 12 岳王廟(岳飛)

 岳王廟は西湖の北岸に建つ。曲院風荷の近くである。
 岳王廟の前は道路を隔てて碧血丹心坊。
 坊は地域。碧血丹心は、このうえない真心の意。また、このうえない忠誠心のこと。
 碧血とは、「義に殉じて流した武人の血は三年経つと碧色になる」という中国の故事に基づく。
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 下の方に「一九九五年十月」という文字がある。

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 岳王廟の門は立派、ここから入る。二十五元。今は廟というより観光地の性格が強い。

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 岳王廟、この中に岳飛の像がある。
 なお、廟とは拝殿のようなもので、墓ではない。墓は別なところにある。巨大な仏壇と思えばよいだろう。
 岳王廟の現在の基礎は1918年(民国七年)にできたが、文革期に徹底的に破壊された。現在の岳王廟は、1979年に建設されたもので、比較的新しい建築が多い。

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 岳飛像。上の文字は「山河我◯」であろうか。これ以外は右から読んでいるのに、これだけ左から? 「◯我河山」では意味が??
 この件について、若い女性の中国人に尋ねた。写真を見て、当然右から読むという。ただし、最初の字は判らない。「◯我河山」である、という。
 河山は河と山で、転じて国土を意味する。
追記:“還我河山”と教えてくれた方がいました。「還」は帰る。いろいろの意味が考えられるが、「還れ我国土」がまともかな。

 岳飛(1103〜1141)は南宋の武将。字は鵬挙。
 紹興年間に秦檜(しんかい1090〜1155)に謀殺されており、しばらくは罪人として扱われた。一人の獄卒が、岳飛の遺体を密かに運び出して埋めたという。その後二十余年を経て孝宗の代になって、ようやく生前の爵位に戻された。その後1204年に鄂王とされた。そして岳王廟が建てられた。
現代でも中国の歴史上の英雄と言えば、まず岳飛の名前が挙がるほどである。
 二十一歳の時に義勇軍に参加している。1134年(三十三歳?)のときに節度使となった。南宋の中心的軍閥である。
 ここで問題なのは岳飛軍の性格である。これは国軍ではない。岳飛の私軍であった。
 岳飛にはそれだけの兵力を保持する財力があった。
(この問題はいつの時代にもある。最近でも、中国軍とは国軍ではなく共産党軍であった)

 1130年に南宋に戻った秦檜は、高宗のもと、和平工作を続けていた。江南は豊かとはいえ、1127年に北半分を失って国を再興したばかり。都を杭州としたのも1132年である。それまでは金軍に追われて、高宗も流浪の生活をしていたのだ。全土を制圧されて、海上に逃げたこともある。
 金と全面戦争になれば、亡国は避けられない。その南宋にとって、抗戦を叫ぶ軍閥は困りものであった。しかも国軍より強力な地方軍閥である。
 秦檜は1138年に宰相になる。
 結局岳飛は1141年に、秦檜によって無実(?)の罪で獄死する。これが秦檜悪役を決定づけた。

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 廟から少し離れたところにある岳飛の墓。岳鄂王となっている。隣は岳雲、岳飛の養子であった。

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 墓の前には両側に三人づつ六人の石像、この人たちは誰だろう。

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 秦檜とその妻王氏
 上に「痰を吐かないで下さい」。今でもそのような扱いである。
 ただし、この像は誤解で、秦檜は亡くなるまで宰相であった。このような姿になったことはない。
 秦檜は北宋が滅びるとき(1126または1127)、金の捕虜となったが、1130年に逃げてきた。ここで金との密約説が噂される。
 その後軍閥の力を削ぎ、岳飛を謀殺し、和平に反対するする主戦派を弾圧し、強権政治を貫いた。
 南宋が形だけでも国家となれたのは秦檜の力が大きい。
 妻の王氏の名は、王家から嫁いできたという意味。「氏」という名ではない。李清照のいとこであるという(李清照の母は王氏)。岳飛を殺すことを躊躇した秦檜に、殺すことを進言したといわれている。

 岳飛は現在では民族英雄として有名であるが、このイメージの形成には、小説や講談や演劇の影響が大きいだろう。「忠臣岳飛」対「悪宰相秦檜」だが、わたしは、軍閥と軍閥の暴走を抑えようとする政府の対立とみた。秦檜の強権も高宗の支持がなければできなかったのだ。

参考
岳飛伝
臨安水滸伝
李清照年表
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2007年11月20日

杭州 11 茅家埠

 花港観魚を出て楊公堤を北上する。道半ばにして、左側に湖水が広がる。地図がないのでグーグルアースの写真で説明する。

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2007年11月18日

杭州 10 花港観魚

 蘇堤の南の端の西側は花港観魚と言われる。
 このあたりは、公園と高級ホテルの私園といった趣。
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2007年11月16日

杭州 9 蘇堤

 曲院風荷
 十五日は蘇堤を目指す。蘇堤の北の端に曲院風荷といわれる地域がある。荷は蓮のこと。
 このあたり島と池が入り乱れている感じだ。
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2007年11月14日

杭州 8 雷峰塔

 十四日は午前中に杭州動物園に行った。十五元。これは最後に。
 午後は雷峰塔。
 雷峰塔(72メートル)は西湖の南岸、夕照山上にある。夕照山は雷峰とも言われる。
 この雷峰塔、実は1924年に崩壊してしまい、現在ある雷峰塔は2002年に建てられた。古い写真を見ると全然形が違う。各層にある庇(ひさし)がなく、丸く見える。復元ではなく、観光用に新しく建てたというべきであろう。
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2007年11月12日

杭州 7 城隍閣

 杭州市の繁華街延安路は、北の端は武林広場、南の端は呉山広場にぶつかる。
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2007年11月10日

杭州 6 白堤

 十三日にはようやく歩けるようになった。
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(地図はクリックして下さい。大きくなります)

 朝食が済んで、外に出る。白堤まで約一キロあまりをタクシーでいく。百五十円なので…。
 西湖は元は海であった。それが鹹水湖となり、現在の淡水湖となった。わずか五千年ほど前である。埋め立て地と同じで、このあたりは良質な水の確保に苦労した。
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2007年11月08日

杭州 5 六和塔

 宋城からバスに乗り六和塔(りくわとう)まで戻る。
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2007年11月06日

杭州 4 宋城

 11日、「Y5」の巴士(バス)に乗る。西湖の西岸をとおり、動物園・六和塔を通って、郊外の宋城まで、3元。
 宋城はテーマパークだ。名前の通り宋の時代を再現する。北宋が亡んで、この地に南宋が建国された。北は金に占領され、国土は半分になった。経済力は落ちてはいないのであるが、軍事力では押されている。
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