2006年07月22日

蘭嶼12 蘭嶼之旅(写真集)

 蘭嶼の写真集。撮影者はキリスト教(天主教)の牧師である。1965年に初めて小舟で島に渡り、以後、撮りためた写真である。
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2006年07月10日

蘭嶼11 風格ある社会

03年4月4日 追記
 3月28日の朝日新聞に、小さな島に「風格ある社会」形成として蘭嶼の記事があった。
 記事によれば、ヤミ族の研究を始めてから一世紀になるという。
…ヤミ族をめぐる学際的な研究フォーラム「YAMl文化研究の1世紀」が横浜市の慶応大日吉校舎であった。人口3千人余の彼らが、なぜ、関心を集めるのか。
 ヤミ族は近年、タオ族とも呼ばれる。台湾の東約70キロにある瀬戸内・小豆島の3分の1弱の広さの蘭嶼島に住み、自給自足の暮らしをしてきた。最初の研究として知られるのは、鳥居龍蔵の『紅頭嶼土俗調査報告』(1902年)。日本の人類学調査の草分けといわれる。

   中略
劉斌雄さんが、ビデオに託した基調講演で、「ヤミ族は敵が存在しない環境の中で、父系の大家族や氏族社会を必要としなかった。家族の原型である核家族に回帰し、「風格ある社会」を形成するようになったと分析。
 ヤミは雅美と書く。
 先日、インターネットを検索したときタオ族という呼び方があるのを知った。達悟族と書く。そして旧名ヤミ族とある。
 ヤミの名は鳥居氏がつけたらしいが、他の民族名がそれぞれの言語で「人」を意味するので、ヤミの「人」を意味する言葉タオをもって民族名とすることになったらしい。
 ある台湾のHPの掲示板で、「タオと名が変わっているのにどうしてここはヤミの名をいまでも使っているのか」とあった。
 ヤミ族には、他の高山族にあった首狩りの習慣がなかった。この島の在り方は、平和共存社会を考えるとき例に出されるようだ。人口は4,009人(1998年内政省統計資料)に増えている。
    ……………………………………………………
03.11.20 追記
YAMI文化研究の一世紀
 研究の回顧と展望、アジア・太平洋の中のYAMI文化 
  台湾YAMI研究フォーラム  2003.3
            yamibunka.jpg
 2003年3月、慶応大学日吉校舎で、「YAMI文化研究の一世紀」という公開フォーラムが開かれた。主催は「台湾YAMI文化研究フォーラム」。
 YAMIとは台湾蘭嶼のヤミ族のことである。
 わたしが知ったのは事後である。余った資料を希望者に分けるというので申し込んでおいた。それが先月届いた。
 内容は、明治時代から現代までのヤミ研究の歴史とその研究内容である。
 基調講演の「平和を指向する文化としてのヤミ学確立へ」(劉斌雄氏)の中に注目すべき面白い話があるので紹介する。
 旧漢字は新漢字になおした。また途中に改行を入れた。
 赤字は原文のまま。
 ……は省略
 常時、私は新しい部落を訪れ系譜を採り終ると、部落の地図を作ることにしておりました。地図から家屋の向きや配置・近隣関係が分かり、系譜情報と相乗してより多くの情報を引き出せるようにしました。
 ヤミ族は1戸の敷地をsakoとよび、中庭のまわりに主屋・仕事場・涼み台が立ち並んでいます。1戸1戸仔細にみると、住居である母屋は入り口の数が1つから5つまで5種顛あり、内部もそれに比例して幅も奥行きも深くなり、大きさに格段の差異がみられます。
 地図には入り口の数を記入し、家格の相違を明確にしました。このように部落地図を幾つか作ったとき、次のような事実に気づいて愕然としたのです。主屋の大小には多少家族の大小が反映されていると思うのが常識でありましょう。だが系譜とひとつ一つ照合していくと,どの家も親と子だけの核家族が居住していて、大家族の存在は何処にも見当りません。家屋の大きさと家族の大きさの間に何らの相関関係も存在しないのです。私の関心事は、この事実が『民族学的に何を意味し、如何なる理論を引き出すことができるか』であり、『考古学者は如何なる理論に基づきこの事実に到達できるか』ということでした。
 ……
 島の規則
 ……
 解決の糸口はある日古生物学の「島の規則」を読んでいる時に突然ひらめきました。
今カルフォルニア沖の島から出土した哺乳類動物の化石を時代順に排列すると、……

 以下「島の規則」を謫仙流に解釈すると、
 生物は生き抜くのに有利なように進化する。
 例えば、肉食動物に襲われないように、ネズミは小さくなり、象は大きくなる。これにはかなりの代償を伴う。
 動物が、生存を続けるには、種としてある程度の数が必要である。そして、肉食動物が生存するためには食糧となる草食動物が、肉食動物の数に応じて必要である。
 その草食動物の数を維持できない小さな島では、肉食動物は存在できない。
 肉食動物のいない島では、草食動物は代償を伴う進化が不要になる。そして代償のいらない適当な大きさに戻っていく。
 ネズミならば兎ほどになり、象ならば豚ほどの大きさになって、安定する。
 ……
 私は長年考えあぐねていた難題を「島の規則」の原型復帰論が見事に解決していることを発見しました。
 動物学ではサイズの大小は個体の上に発生する現象ですが、人類社会ではサイズの大小は個体によって組織された団体の上におきます。
 最も身近な例として家族の形態を挙げることができます。
 家族の原型は一対の夫婦とその子供から構成される核家族とみなすことができます。
 漢民族は過去において父系の大家族をもつ氏族社会を構築したのですが、家族の成員がこの為に払った代償の大きさは、筆舌に尽しがたいものがあります。漢民族に限らず其の他の文化においても、大家族をもつ社会をみることができます。
 ……
部族抗争という険しい環境の下で、一群の人達が独立した生計を営み、その文化を維持していくためには、どれだけの人口と領土を必要とするのでしょうか?
 ……
 台湾の平原に居住する部族社会を例にとれば、私の粗略な推算では,1000から2000の人口を擁し、少なくても15から20km四方の領土を必要とします。これらは不可欠の数字であり、これ以下になると、存亡の危機にたたされます。
 ……
 ここで蘭嶼にもどり、もう一度核家族の問題を「基確人口律」の観点で検討してみましょう。『一群の人が独立生存できるために必要な人口は、2000は安定圏にあることを示めし,これを越せば隆盛に向かい,1000以下になれば衰亡の岐路に立たされる』と見ることが出来ます。
 この仮説が成立するのであれば、ヤミ族の当時の人口1560は一つの部族を維持するのに足る数ではありますが,分裂の許されない数でもあるのです。
 また人口資料が示すように20世紀前半のヤミ族の人口は1200と1600の間を何度も上下していました。ともすれば下降する人口は冥冥裡に住民の心情に一抹の不安を与え,あの生を希求し死を忌避する独特の精神風土を培ったのではないでしょうか?
 たとえ組織の厳密な父系制度をもった一群の人達がこの島に来たとしましても、敵群が存在し得ないという情況の下では、時間が経てば、この制度によって1 つの強大な族群間の団結を維持する必要がなくなるので、戦闘的な環境に適合した社会組織は自然と本来の姿すなわち原型に回帰します。
 家族は核家族を主体とし、リネージ等の単系組織は厳格な外婿制度を執行することから開放されて、自然と双系的な禁婚システムに回帰するのです。
 だが平和は老子が考えたように「無為而治」まるものでしょうか。恣意な行動もまた争端を引き起こすことは自明の理です。酒も過ぎれば性を乱す元になります。
 事実、平和を得るには高い代価を支払わなければなりません。島民はこの為に禁酒を断行し、言霊の幸わう国として、言語による暴力をも追放しているのです。しかし、これだけでは平和は招来できません。
 人類の文化は元々「如何にして部族間の生存競争に勝ち残れるか」を至高の使命とするものです。文化はこの目標を達成するために、刻々変る状況に合わせて絶えず新しい装置を開発していかなければなりません。他群より優れた装置の開発に成功した群れが生々発展し、遅れをとった群れが衰退淘汰されていきます。
 戦争が許されない環境におかれた島民はこれと逆行する文化を創造しなければならないことになります。ヤミ族は如何なる争端をも自動的に排除できるのみでなく,資源の合理的な再分配や村落間の宥和を促進する装置も設計しなければなりません。
 彼らは如何にしてこれらの難題を克服し、従来の戦争を指向する文化から平和を指向する文化に転向することが出来たのでしょうか?
 また平和な社会の構成にかかせない要因とは何であるかという根本命題がヤミ文化を理解する鍵として浮上してきます。平和を希求する人類は歩むべき道をヤミ族の文化創造の中に見出すことができると確信し,平和を構築する文化としててのヤミ学を提唱する次第であります。

その他、衣食住に関する細かい報告がある。
 ここには船大工という専門職はいない。あの見事なタタラ(独特な舟)も自作である。家さえ個人で造る。
 わたし(謫仙)は舟を作っているところを見た。工場のようなところで、一人で作っていたが、あれは素人だったのか。
 威信競争があるが、それを緩和する必要以上に抜きんでることを規制する概念がある。だから、若い人がいきなり格の高い家を造ることはできない。
 衣類も自作である。天井の低い家で坐繰りで布を織る。わたし(謫仙)が見た感じではかなり太い糸を用い、厚い布であった。従前は麻を用いたが、現在は木綿が多くなったという。かなりカラフルであるが伝統的な物であるかどうか。
 この坐繰りについても細かい区別や解説があるが、わたし(謫仙)にはそれを紹介することさえできない。東南アジア一帯に似たような織り方がある。
 村落は過去の記録では八村あったが、現在は六村である。海に面し、近くに川がある。
 前に述べたように、伝統的な家は二村しかないが、あの当時の新しい家も、いまでは古くなって立て替えの時を迎え、新しい設計の家が多くなったようだ。
 食物は芋が多い。前に水芋といったが、葉で判るように里芋の類である。タロイモのようだ。その他はヤムイモ・サツマイモ・アワ・バナナなど。
 家畜は鶏・山羊・豚であるが、わたし(謫仙)はアヒルも見たことがある。
 特筆すべきは飛び魚であろう。あのタタラ(舟)は飛び魚漁のためにあるといっても過言ではない。これにはシーズンがあり、その時に大量に干し魚にして一年を過ごす。
 わたし(謫仙)が見ていた時、開いた飛び魚に切れ目を入れて、そこに石灰を刷り込んでいた。そして庭に洗濯物のように干す。
 さらに資料として、採取した民話や歌も載っている。これも語る歌う専門職はいない。
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蘭嶼10 あとがき、核廃棄物

01年7月1日 記
この太平の島にも核の陰が忍び寄っていた。
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2006年07月09日

蘭嶼9 イモル(紅頭)

 島民が半裸でいるのは暑いからである。深く掘った家に住むのは、暑さしのぎと、台風による被害を最小限にするためである。車が普及していないのは、狭い島なので必要ないからである。
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2006年07月08日

蘭嶼8 ヤユ(椰油)

 イラタイからヤユに向かう。
 飛行場を過ぎると、道は海から隔たる。距離的には遠いわけではないが、荒々しい岩が続き、海に下りることができない。
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2006年07月07日

蘭嶼7 イラタイ(漁人村)

 考えようによっては、この村こそ、蘭嶼の代表かも知れない。
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2006年07月05日

蘭嶼6 イララライ(朗島村)

 イリヌミルクからイララライの途中には、こうした険しい山が海に突き出た所にも道を通してある。道は細いがそれでも、車が通れるほどに広さがある。
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2006年07月02日

蘭嶼5 奇岩

 地図で見ると、イモル−イバリヌの峠越えの道から南は部落がない。イリヌミルクからの帰りは、その南の海岸沿いの道をマイクロバスでイモルまで島を半周する。途中に小さな軍事基地の前を通ってしばらくすると、この島最高の自然の彫刻がある。
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2006年07月01日

蘭嶼4 頭髪舞

 ホテルでの夕食を終え、涼みに外に出ると、庭ではショーを見学するために大勢の人が集まっていた。
 19歳の女の子がわたしを見つけ手招いた。そのとなりに座って見物することにする。
 しばらくは、観光客の歌声が響く。まだカラオケもないときであり、歌声のみであるが、なかなかうまい。
 ショーは島の女たちの歌とダンスである。ダンスは頭髪舞といい、一見の価値がある。日本なら無形文化財に指定されよう。
 頭髪舞以外のダンスは、普通の田舎の踊りと思えばよい。台湾各地に高山族のショーがあり、歌舞演芸場が整備されている。たとえば三地門がそうだ。ウーライにもあり、阿里山にもあった。阿里山は初めて行ったとき見たが、二度目にはなかった。今はどうか。
 それらに比べて、目の前に繰り広げられるヤミの踊りは盆踊りに近い。歌も特に洗練されている様子はない。珍しいので興味を引くのみ。しかし、頭髪舞になると、雰囲気が一変する。プロの踊りなのだ。
     ヤミ族の夢のなごりか頭髪舞
          楽しみながら悲しんで見る    謫仙


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 中休みのハプニング

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 見えないが観光客も混じって簡単なダンスを。

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 真打ちの頭髪舞
 暗くて判りにくいが、長い黒髪を踊らせている。上の写真と比べても全員が見事にそろっているのがお判り頂けよう。

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     踊り手は黒髪長き年月の
          憂い喜び皮膚に刻まる    謫仙

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2006年06月29日

蘭嶼3 イリヌミルク(東清村)

(これは大部分が84年夏の記録)
 イバリヌの後背の高みから左手を見るとイリヌミルクの集落が見える。イバリヌから歩いて40分ほどの距離であった。その右手の岬に情人洞がある。
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2006年06月25日

蘭嶼2 イバリヌ(野銀)

 峠越えで東側の海が見えても、しばらくは視界が狭い。集落の後背の高みで左右を見渡せる。
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2006年06月24日

蘭嶼1 太平洋神秘海島

 この記録は八十年代前半である。蘭嶼島と報道されることもある。嶼とは島の意味であり、蘭嶼は蘭島に等しいが、蘭嶼は固有名詞であり、当時は蘭嶼島という表示が普通であった。
 面積は約46平方キロメートルである。
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posted by たくせん(謫仙) at 09:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 蘭嶼 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする