2022年09月26日

大宋宮詞 〜愛と策謀の宮廷絵巻〜

大宋宮詞

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 チャンネル銀河で「大宋宮詞」が始まった。
 主演は劉涛(劉娥の役)だ。わたしには天龍八部の阿朱で記憶している。その他の役でも何作か。
 −劉娥は後の章献明粛皇后(しょうけんめいしゅくこうごう)真宗の2人目の皇后−
 大宋宮詞の第一回を見た。太宗の三人の皇子から皇太子を選ぶ話から始まる。
 このとき、秦王趙廷美(太宗の弟)の他、
   第一皇子 楚王趙元佐、
   第二皇子 許王趙元僖、
   第三皇子 襄王趙元侃、
 が候補であるが、太宗は皇太后とは秦王趙廷美を候補とすることを約束していた。その約束を破ることになる。
 第三皇子襄王(後の真宗)がふさわしいとなる。北の遼との戦場に行き、現地で地震により亡くなったと連絡が入る。しかし生還した。そのとき劉娥を伴って戻る。そして正妃に男の子が生まれる。
 男の子は暗殺され、劉娥が犯人と思われる。
 なかなかに展開が早く、この後が期待できそう。

第二回
「先帝の嫡子とはいえ徳昭には荷が重いかと…」という台詞がある。
 太宗の在位976−997で趙徳昭の死は979年
 趙元侃は986年に改名した。
で、時は、986年以後と言うことになるが、このときは、すでに趙徳昭はいない。
 趙元侃(後の真宗)の誕生は968年、趙徳昭の死は11年後である。ここでは死ななかったという設定か。
 第三皇子襄王趙元侃の妃に「守宮砂」が出てきた。処女の印だ。してみるとこの物語は武侠か。

 先帝の死後十年目という。そうなると舞台は986年でこの年に趙徳昭が死ぬという設定である。 

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 なお、先に見た「燕雲台」はこの時代の遼の五代景宗の皇后蕭燕燕の物語。紹介しなかったが、これはおもしろかった。

976 開宝9 太平興国1 ★太宗(在位976−997) 10月に即位。
979 太平興国4 ★宋によって中国統一  北漢が滅び十国終わる。
          ★太祖の子 趙徳昭(951−979)自殺。
980 太平興国5
981 太平興国6 ★太祖の子 趙徳芳(959−981)没す。ここに太祖の子は二人とも死んだことになる。かなり問題のある死に方であった。
997 至道3   ★真宗(在位997−1022)即位 太宗の子。

 さらに開封府も少し時代がずれるが、真宗と劉娥の時代から始まる。劉娥の扱いがかなり異なる。
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2022年03月17日

錦綉南歌2

 参考
宋(そう、420年 - 479年)
419年 劉裕は東晋の安帝を殺害し、安帝の弟を恭帝とする。
420年 禅譲を受ける。宋の初代武帝となる。
422年 武帝死去。長男劉義符が二代目となる。
424年 二代目は、臣下に廃位される。少帝
     武帝の三男が文帝となる。この時代が30年間。
453年 皇太子劉劭は文帝を殺害して 四代目となる。(3ヶ月)
454年 弟劉駿が兄四代目を殺して、五代目孝武帝となる。

 なお、武帝の男子は順に
少帝 劉義符 - 母は張夫人。廃位、後に暗殺される。
廬陵王 劉義真 - 母は孫修華。少帝の代に処刑。
文帝 劉義隆 - 母は胡婕、。暗殺される。
彭城王 劉義康 - 母は王美人。文帝の代に処刑。
江夏王 劉義恭 - 母は袁美人。前廃帝の代に処刑。
南郡王 劉義宣 - 母は孫美人。孝武帝の代に処刑。
衡陽王 劉義季 - 母は呂美人。病死。

 この物語は文帝 劉義隆の時代で、文帝は病弱で朝廷に顔を出さず、彭城王 劉義康と竟陵王(史実では南郡王) 劉義宣が登場する。(竟陵王とは三代文帝の子 劉誕である)
 それにしてもまともな死に方をしていない。この皇族同士で殺し合うのが劉宋の特徴で、長続きするはずがない。
 東晋から引き継いだ重臣は、「皇帝家は身分が低い。身分の低い者は政治に口を出すな。政治は身分の高い我々が行う」という、自分たちが国の主のような態度だ。東晋の悪いところも引き継いでいた。
posted by たくせん(謫仙) at 16:32| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月26日

錦綉南歌

錦綉南歌
日本名  驪妃(りひ)

 時代は南朝宋(劉宋)の時代の武侠ドラマ。
 犯罪組織・朱雀盟の刺客として育った驪歌(りか)は彭城(ほうじょう)王・劉義康(りゅうぎこう)を親の仇と信じ、長年彼の暗殺を企てていた。ところが襲撃するも失敗し、そのとき妹分の阿奴(あど)は死に、死に際に腕輪を託される(実は生き延びていた)。
 その腕輪から沈家の娘と誤解され、18年前に行方不明になった、沈嘉寧として沈家に迎え入れられる。そして、身分を隠した彭城王と出会う。お互いの正体を知らない2人は、次第に心を惹かれ合っていく。
「親の仇」説は嘘の予感がするし、全体的に「それならもうちょっと……して」と思うシーンがある。武侠にはよくあることだ。

「王女未央-BIOU-」のスタッフが再集結したという。言われてみると、なんか「王女未央-BIOU-」のプロットに似ている。

 このドラマの登場人物の彭城王・劉義康は宋の初代武帝の第4子であり、3代目文帝劉義隆(劉義康の兄)の時代が舞台と思われる。なにしろ皇帝が出てこないので、史実とは異なる設定かもしれない。
 南朝の宋は、420〜479年と短い。この間に8人の皇帝がいる。史実では皇族の争いで大勢の皇族が亡くなり力を弱めた。
 初代の武帝劉裕がわずか2年で死去、一代の英傑だが、国体を整える前に死んで後世に託す。2代目劉義符も2年。3代目の文帝劉義隆(29年)になって、やっと国家の形を整えた。2代目と3代目は武帝の子である。
 この宋は文盲の初代が武力で得た国だが、形は禅譲である。その影響か、ドラマの宮殿などはかなり豪華である。臣下も含め、かなり前朝(東晋)から引き継いだらしい。横暴な権臣もいて、何かにつけて皇帝家の邪魔をする。

 紹介してないが、小前亮の小説「劉裕」を読んだばかり、ちょうどよいタイミングで見始めた。登場人物の姓など、記憶にある人が多い。
 5回目まで見た。展開が速い。おもしろそうな予感。前のドラマを紹介してから何作かドラマを見たが、紹介したくなったのは久し振り。
 わたしはチャンネル銀河で見ているが、他で見た人は多いだろう。

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追記
 途中で四男の彭城王・劉義康が「兄ふたりを亡くし」と言う。してみると残る一人の兄は三男で現皇帝の文帝であることになる。

 第十五回まで見た。
 陸遠という権力者がいる。簡単に(でもないか)権力を失ってしまう。
 わたしは、陸遠はいつでも皇帝になれるが、臣下として権力を握っている方がいろいろとやりやすいので、臣下のふりをしていると思っていた。朝議の時は臣下の位置にいるが、朝議が終わると、陰で皇帝を顎で使っているのかと。ところがそうでもなかった。
 もちろん、返り咲きを画策しているが、どうなることか。

 終わった。久し振りに最後まで見た。
 陸遠を始末し、次なる高官の害を取り除いたが、その奥に朱雀盟を組織した者がいた。この者は探り出すのが難しいが、探し当てたところで解決。
 しかし、歴史上の皇族同士で相剋するという運命までは変えていなかった。驪歌も皇族になればその運命に従わねばならない。
 終わったが、彭城王も歴史に飲み込まれる。宋という国は、成熟することなく、歴史から忘れられていく。
posted by たくせん(謫仙) at 16:19| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月12日

開封府

2018.2.15記
2021.11.12追記

開封府−北宋を包む青い天−
     2018.2.15.jpg

「包青天」と言われた名裁判官包拯のドラマ。
 日本の「遠山の金さん」や「大岡政談」のモデルと言われている。と言っても内容は似ていない。清廉潔白で公正無私、対象は官界ばかりでなく皇族まで踏み込む。創作された話であるが、その姿勢は庶民に愛されている。
北宋は960−1127
包拯は999−1062
 説明では「北宋時代末期に活躍し、」とあるが中期と言うべきであろう。

 このドラマでは、仁宗が即位(13歳)(在位1022−1063)した頃科挙に合格して、開封で出仕して活躍している。しかし、史実では仁宗の5年に合格し地方官になる。一度致仕しで故郷に帰り、再び仕官したのが1036年。仁宗の27歳ごろ。だから都開封で活躍したのは1036年の後になる。
 ドラマでは開封で重大事件を解決し、皇太后に嫌われ、一度故郷に左遷され県の知となる。そして十年後にまた開封に出てくる。

 仁宗の皇后選びが問題になっている。その中でよく李Uの詞が歌われる。この曲は今に伝わっているのだろうか。それともドラマのために新たに、いやドラマのためででなくてもよいが、新たに作曲されたのだろうか。
 参考 李U
    李後主 −詞帝−
 で紹介した『虞美人』も歌われた。

 有力者ふたりの娘と孫が、美人(後宮の位号)として入宮し、仁宗は母の皇太后にどちらを皇后にするか決めろと迫られる。
 そんなとき、そのふたりが入っているそれぞれの宮殿が同時に火事になる。仁宗もその中にいた。
 その真相を調べるため、皇太后は、故郷に左遷させた包拯を開封に呼ぶことになる。嫌ってはいても、人格と能力は信用しているのだ。

 まだ途中なので、追加があったら書き加える。

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 撮影のやむを得ぬ事情であろうが、天気が気になってしかたない。雨の日が多いが、開封はそんなに雨の多い地域か。
 また、たとえば室内で話をしているとき、外は大雨である。ところが話を終え外へ出ると、道は乾いている。何度もそんなことがあるのだ。
 撮影所の都合か。たとえば雨の日にしか借りられないとか。
 
posted by たくせん(謫仙) at 10:40| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月30日

宮廷の諍い女

 原題 後宮・甄嬛伝 (2012)  全76回
2020.6.17 記
2021.7.30 追記訂正

 いやいやながら後宮に入った甄嬛(シンケイ)の後宮物語。
 原作は架空の時代だが、このドラマでは清の雍正帝の時代としている。
 雍正年間となれば、相当する女性に合わせて、それなりに形式を整えねばならないが、甄嬛(シンケイ)のモデルはいないようだ。これが瓔珞(エイラク)とは異なる。
 雍正帝の父の康煕帝は61年間在位した。そのため息子たちは高齢で、雍正帝の即位は45歳のときである。そのときすでに次の乾隆帝(四阿哥弘暦)は生まれていた。(この弘暦が優れていたたため、父の雍正帝が皇帝になれたとも言われている。このドラマではその話はない)
 雍正帝は勤勉な皇帝として知られている。在位は14年に満たない。そのためか、この物語では、権力の掌握が進まず、功績ある将軍の妹である華妃の横暴を押さえられない。
 そんな時代の、後宮の争いである。瓔珞はやられたら、とっさの機転でやり返すが、その内容はすこぶる危うい。戦術的に強いということか。甄嬛伝はそのスパンが長い。しかも機会は巧みに捉えるが、罠を仕掛けるようなことは少ない。そのため瓔珞と比べれば、初期はだれを感じることもある。しかし、途中から甄嬛(シンケイ)は変わっていく。
 後宮に入るのは、無期限で拘置所に入るようなもの。夫である皇帝も権力者としての魅力しかなく、心から愛しているわけではない。皇帝が通わなくなれば、拘置所と変わらない。
 甄嬛(シンケイ)は莞嬪として住むところは碎玉軒だが、これはどこか不明。一度出家して戻って来たときは、熹妃として永寿宮に住むことになる。そこは養心殿(皇帝の住まい)のすぐ後ろである。ただしこのドラマが各宮の位置関係を反映しているかは不明。

 このドラマでも皇后の権力は弱く、高官の血族の皇妃が、位は低くても事実上の権力を握って横暴を極めている。皇帝は高官の協力を得るために、それを認めざるを得ない。
 高官が権力を失うと、親族の皇妃も力をなくす。瓔珞にも似た話があった。
 ただし甄嬛伝の皇后はかなり悪辣で、皇太后が、皇后によって愛新覚羅(皇帝家)の血統が途絶えてしまうと、嘆く場面があるほど。

 半ばから甄嬛がかなり変わってきた。後宮では耐えているだけでは、生きていけない。積極的に攻勢に出よう。出家して戻るときは、情を捨てることを誓う。その後は全て権力争いに通じる。
 策を巡らすが、それがかなり戦略的だ。目が離せなくなった。初めにだれを感じたのが収束して行くような感じだ。
 単なる後宮の争いではない。エイラクよりも武則天に近いか。なお雍正帝は道教の怪しげな薬(実体は毒薬)に頼り、60歳前に衰えて死ぬことになる。
 雍正帝の最期は悲惨だ。皇族が女官を暴行しようとし、逃げられるが、なんと皇帝は女官を死罪にしてしまう。そのために身の危険を感じた甄嬛は、毒を飲まされた皇帝を見殺しにしてしまう。手を下したと言っても間違いではない。
 最後は甄嬛の美しさに圧力を感じるほどだ。
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 以下は妃嬪の結末である。☆は生涯を全うした者。★途中で不慮の死を遂げた者やそれに近い者。△はどちらとも言えない者。位階は上下に変化するが、その代表的な位階。

   官女子/答応→常在→貴人/→嬪→妃→貴妃→皇貴妃→皇后

☆ 莞嬪(甄嬛) →熹妃→熹貴妃→副皇后→聖母皇太后
★ 恵妃(沈眉荘)靜和公主を産むものの死去。最後まで莞嬪を助ける。
★ 安嬪(安陵容)→鸝妃 監禁の後、自害。
★ 華妃   →年答応→冷宮送りの後死罪。
       こどもに恵まれない。これには理由があった。
★ 皇后   事実上の離別となり、終生景仁宮に監禁。死去。
★ 夏常在  冷宮送り
☆ 欣貴人  欣太嬪となり最終回まで生存、目立たない。
★ 祺貴人  冷宮送り→庶人→撲殺
☆ 端妃   →皇貴妃→皇貴太妃  養子温宜公主(実母は曹貴人)
☆ 敬嬪   →敬妃→敬貴妃→敬貴太妃 養子朧月公主(実母は甄嬛)
★ 斉妃   自害 
★ 曹貴人  毒殺 
★ 余答応  処刑
★ 麗嬪   冷宮送り
★ 富察貴人 恐怖のあまり気が狂い、その後は不明。
△ 芝答応   官女に戻った。その後不明。
★ 淳常在  17歳で殺される。
★ 瑛貴人  死罪
★ 寧貴人  自害
★ 貞嬪   死罪
★ 康常在  死罪
★ 孫答応  死罪

 圧倒的に、まともに人生を送れなかった者が多い。
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 後宮の各宮殿は、一般的に南に門があり、中央は庭で、三方に建物がある。
 嬪以上になると宮殿の主となり北の主殿に住む。東西の脇殿は貴人以下が住み、主殿の主の支配下になる。時には官女子なみに扱われることもある。
 官女子は一応女官のような仕事をしているが、位は妾の最下位である。
 女官はいわゆる下女であり、25歳を過ぎれば退職できる。
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 時々、合歓の花(ネムノハナ)が出てくる。それは構わないが、「ゴウカンノハナ」とカナをふるのが気になる。何度も出てくるので、訳者が知らなかったと思える。ただ漢方薬では、樹皮や葉は生薬の合歓(ゴウカン)合歓皮(ゴウカンヒ)となる。それなので勘違いしているのかもしれない。
posted by たくせん(謫仙) at 10:15| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月07日

楚喬伝

楚喬伝(そきょうでん)〜いばらに咲く花〜
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 これはおもしろかったが、しかし、もう一度見ようという気にはならない。それで消去した。
 原因は何だろうかと考えた。ストーリーが無理気味。武侠に偏るのは構わないが、どこか矛盾を感じさせる。
 訓練場所も、まるで20世紀を思わせるような、からくり仕掛け。
 南北朝時代の北朝、西魏(せいぎ)の時代。この時代にこんなからくりができるのか。
 たとえば、鎌倉時代に鉄砲が出てきても驚かないが、鉄砲鍛冶や弾丸の火薬を作る人も登場しなければならない。
 もちろんSFなので、そう設定するのは問題ないが、その説明が欲しいし、そんな能力者にしては、この結末はむなしすぎないか。
 見終わって虚脱感が漂った。中国では大人気だったという。
 わたし的には趙麗穎(Zhào Lì yǐng)の魅力だけで、最後まで見たドラマだった。趙麗穎は明蘭でも主役を演じた。明蘭はお勧めなので前回紹介している。

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次の2作は大人気だというが、金をかけたというが、わたしは魅力を感じなかった。それで途中まで。

長安二十四時
「長安二十四時」、不思議な題名である。原題は「長安十二時辰」だった。これなら納得出来る。
 数回見て、終わりにした。花がない話だ。

鬼谷子−聖なる謀−
 鬼谷子は伝説の策師。蘇秦(そしん)と張儀(ちょうぎ)の師と言われている。また信憑性は薄いが、孫臏(そんぴん)と龐涓(ほうけん)の師という説もある。
 期待したが、最後まで見ないで放棄した。

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海上牧雲記 〜3つの予言と王朝の謎
 これはおもしろかったが中途半端。
 よくできているが、名前負けしている。人物紹介で、ひとりは未来の皇帝、ひとりは未来の帝王、ひとりは九州を統一とするが、
 一人が皇帝になっただけ。起承転結の起承で終わったようで中途半端。
 あえて言えば、海上牧雲記の地上編。これから海上編になって、残りのふたりが紹介どおりになれば完結といえる。

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2021.7.3追記
ほとんど不要の駄文

 かなり前の話だが、わたしは小説を書いたことがある。勿論習作であり、応募するようなものではない。
 ある人に見てもらった。
「これは小説ではない。意見である」
 厳しい意見であった。しかし意見のない小説なんてあるのか。
 その人の書いた小説を読む機会があった。いい文章ではないか。しかし、プロットが判らない。わたしから見れば、それは文章の練習、つまり作文であった。これだけの優れた文を書けるなら、もう文章の練習はいいから小説を書いたら…、と思ったが、その人はそれを小説と思っているのだった。わたしの力不足なんだろうな。
 ここ何作か、中国の時代SFドラマを見ているのだが、何か気が乗らないのだ。
 一つ一つの場面、つまり街や家の様子などの舞台、道具類、俳優の演技力、アクションなど、びっくりするほどうまい。だが主人公は何のためにそんな行動をするのか、それが判らなくては、肩入れしようがない。
 主人公の成長物語か、昔の街の紹介か、武術の公開か、宮廷生活の紹介か、騙し合いか。
 そこで上の話を思い出したのだった。
 何作か途中で挫折した。紹介していない話もある。
 清朝の宮廷ものは、それがはっきりしているので、おもしろかったのだ。
posted by たくせん(謫仙) at 05:50| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月05日

明蘭〜才媛の春〜 (知否?知否?應是緑肥紅痩)

明蘭
  mei.jpg

 内容は、
 盛家の娘・明蘭は母親の身分が低かったことから、父親から愛情を得られず、盛家の正妻や姉妹たちにも虐げられて育った。
 亡き母の教えを守り、自分の才気を隠して耐え忍び成長した明蘭は、やがて子供の頃に知り合った寧遠候府の御曹司・顧廷Yに見初められて顧家の女主人になり、夫を支え優れた才知を発揮していく。

 宋の仁宗(じんそう)から英宗の時代の物語。
 原題は 知否?知否?應是緑肥紅痩 というのだが、そういう小説があるという。上の説明はその小説の説明らしく、ドラマでは「亡き母の教え」ははっきりしない。

 さて、わたしが原題を一目みて驚いたのは、應是緑肥紅痩は李清照の詞「如夢令」であることだ。だが、内容は李清照の話ではなかった。
参考 李清照

    如夢令   李清照
  昨夜雨疎風驟  昨夜、雨は疎にして風驟く
  濃睡不消残酒  濃い睡りにも残酒は消えず
  試問捲簾人   簾を捲く人に問うてみれば
  却道海棠依舊  却って海棠は舊(きゅう)に依ると道(い)う
  知否      知るや否や
  知否      知るや否や
  應是緑肥紅痩  應に是れ緑肥え紅痩せるべし

 エンデングの歌では、次のように訳している。

  深く睡れど残り酒は消えず
  海棠は咲いたままと言うけれど
  知るや知らずや
  花は散り、残るは茂る葉だけ


 昨晩の雨風で、詞人は庭の海棠の花を心配しているのに、下女は昨日と同じですよと答える。そんなはずはないのに。
 ここは、「花は散り、残るは茂る葉だけ」ではなく、「花は少なくなり、葉がめだつ」と言う意味だろう。

 このドラマは好評のようだ。最近は大勢の美人女優による後宮ものばかり見ていて、いささか飽きてきたが、これもその流れかな。
 周迅が主役の如懿伝でも、李清照の「酔花陰」が出てきた。こう見ると、李清照は現在でも知られた詞人らしい。この主人公は如夢令を思わせるような人生を歩むのだろうか。
 中国では一般に女性を教育することは少ない。その中で李清照は子供のときから文藝に親しんだ。両親もそのように教育した。

 この物語の盛家では娘たちにも教育を施している。他家の男子たちと一緒だ。その結果、明蘭は少女ながら盛一家の管理を任されることになる。
 明蘭は様々な技能を習得しているが、それを知っているのは祖母だけ。なぜ明蘭が盛一家の管理を任されることになったのか、祖母だけが知っている。一時、娘たちの教育係になった女性も明蘭の資質を見抜いていた。

後半は顧家に嫁いだ後の話。本題に入って(?)、おもしろくなってきた。
わたしは別なところに興味を持って見ている。
 宋代は官の給料がもっとも高かった時代。それが元で、国家の財政基盤が危うくなっている。
 夫の顧廷Yは、武官として現皇帝(英宗)を担いだ人物なので、重臣となった。それで広大な庭園付きの邸宅を賜る。周りの官もそれなりに富んでいる。
 夫の本家からは、様々な形で横槍が入る。夫の若いときの財産はほとんど本家や親戚に奪われてしまっていた。しかし、地方には夫の資産が取られず残っていた。
 これらの家産の管理にも盛明蘭は異彩を放つ。
 最後が納得出来るのも良い。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 概略だが、次のような時代である。
1022 仁宗(在位1022−1063)即位。
1044 西夏への歳費 絹13万匹・銀5万両・茶2万斤となる。平和も購ったことになるが、遼と西夏への歳費は財政を圧迫した。役人の多いことに加え、租税負担層が薄くなり、税収が減ったことも原因で、亡国の道を歩み始める。
1060 王安石「万言書」を奉る
1063 英宗(在位1063−1067)即位。
1067 神宗(在位1067−1085)即位。
1069 王安石、参知政事となる。

 最後まで見たが、王安石は出てこない(名前が出たかな)。員外も出てこない。
 この頃を扱った小説では員外という言葉が多く出てくる。金持ちの意味である。
 金持ちは官位を買った。しかし仕事はなく無給である。定員外の官なので員外という。
 なぜ官位を買うのかと言えば、官になると税を免除されるからである。これにより国家の収入は少なくなっている。これも国力を弱める原因であった。
posted by たくせん(謫仙) at 09:51| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月11日

如懿伝

2020.8.5記
2021.4.11追記

如懿伝 (2017)
日本名 如懿伝〜紫禁城に散る宿命の王妃〜

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 瓔珞の嫻妃(継皇后)から見た宮廷物語である。瓔珞でも書いたが、正しくは皇妃。
 主人公の如懿(青桜)役は周迅。あの射G英雄伝(2003)の黄蓉だ。1974年10月18日生まれ、撮影の時は43歳か。これで少女役。
 低くかすれた声(ハスキーボイスという人もいる)は今でも同じだった。
 始めは乾隆帝がまだ宝親王だったときから。宝親王の妻妾選びである。そして乾隆帝となり、紫禁城の後宮に移る。
 後宮内の地理は正確ではない。たとえば皇帝が養心殿から東の延禧宮に行こうとするとき、北の咸福宮の前を通る。かりに咸福宮が延禧宮への途中にあったら、咸福宮の門は左手にあるはず。ところが右手にある。左右が逆であるとか。似たようなことは他でもあった。
 人名も瓔珞とはかなり異なる。こだわっても仕方ないが、つい、この人は瓔珞のあの人に相当などと思ってしまう。
 元々架空の王朝物語を、乾隆帝の時代に設定し直したため、あちこちに無理があるようだ。

 第26回では、葉赫那拉(エホナラ)氏が登場し、李清照の「酔花陰」を歌い舞う場面がある。南宋の詞である。有名な詞であるが、古い曲が残っていたか、後に新たに作曲されたのか気になるところ。
 高晞月の慧貴妃が失脚するところまできた。事実上自分が殺した女の幽霊を見せられる。悪事が重なって露見するところだ。
(ある女に悪事をさせ、ばれたら、「あなたの家族は、私の実家で保護している。あなたの言葉によっては死に絶えるかも」と白状しないように脅す。女は自決する)
 慧貴妃は実家が有力者なため、皇后に次ぐ貴妃となったのだが、みんな貴妃という位と実家の実力に畏まっているのであって、高晞月を敬ってはいない。それを自覚していない事が悲劇を招くことになった。
 ついでに言うと、皇后は地位を守ることに汲々としている。かなり知恵があるが、小心者であるため、バレはしないかと侍婢に相談するほど。そして身を滅ぼすことになる。

 このところ、続けて後宮物を見ている。そこでは大事な秘密の話を、大勢の宮女や宦官に聞こえるところで話す。どうやって○○をはめようとか、いじめようか、どんな毒を盛ろうとか、などという話をするのだ。お約束とはいえ、気になってしまう。おそらく秘密が漏れたら、漏らした人物を消してしまうのだろう。そしておとがめはない。そのことが知れ渡っていて、皆が口を閉ざしていると思われる。しかし、スパイ役もいるのだ。万一の時も口を閉ざしてくれる保証はない。もう少し気を遣えよ、と思うのだ。
 もっとも、そう易々と人を殺すような主の噂は、女官や宦官に知れ渡っているので、仕えるのを嫌がられるのが、ブレーキになっているか。あるいは、善悪にかかわらず、主のことを話すと死ぬことになるとか。
 もっとも、女官や宦官は一緒になって、大声で噂話をしている。このあたりは“お約束”なんだろうな。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 第26回では、葉赫那拉・意歓(エホナラ氏)が登場し、李清照の「酔花陰」を歌う。
 第57回では、葉赫那拉・意歓は、自死する前に酔花陰を歌う。
 
  薄霧濃雲愁永晝   薄い霧 濃い雲 永き昼を愁い
 これを
  薄霧(うすぎり) 濃雲(こぐも) 永き晝(え)を愁(うれ)い
 としている。

 問題は 晝(ひる)と畫(え)を間違えているところ。
 李清照の詞の一部なので、「永き晝(え)」はおかしいと気づきそうなもの。
 晝は「ひる」なのに「え」と読んだため、文字の違いに気づかなかったらしい。
 揚げ足取りをしているようで気が引けるが…


 格格は皇族の姫のことだが、親王の妻妾にも使う。親王の妻妾は
     格格 → 庶福晋 → 側福晋 → 嫡福晋
 格格や福晋は満州語。
 清朝の話は、この満州語があるので気を遣う。たとえば皇帝の姓、愛新覚羅をどう読むか。わたしはアイシンギョロと読む。皇后富察はフチャと読む。これなど知らなければ読めない。
 福晋や側福晋をそのまま使っている。漢語に翻訳はしない。漢語と満州語が混じることになる。

 岡崎由美さんは金庸小説の翻訳で、金の趙王の完顔洪烈に「ワンヤンこうれつ」とかなを振っている。本来ワンヤンだが、完顔の字を当てた。洪烈は漢字で洪烈という名をつけた。だから読みは「こうれつ」と、使い分けている。
 テムジンのちのジンギスカンは、原文は鉄木真と思われるが、カタカナ表記にしている。

 音が先か文字が先か。作家の「田 郁」は「かおる」と読む。「かおる」と読むからと薫などと書いてはいけない。菊池寛は「きくちひろし」だがカンと読まれても問題にしなかった。しかし菊地と書かれたらカンカンに怒ったという。
 もっとも将来はどうなるのだろう。王という人がいるが「おうさん」と呼ぶべきか「ワンさん」とよぶべきか。わたしはかながあればかなに沿って、かながなければ普通の日本語読みにしている。身近な人なら本人に訊くだろうな。
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2020年07月23日

錦綉未央

錦綉未央
日本名 (王女未央BIOU)
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2018年01月06日 記
2020年07月23日 改訂
 
 このドラマは武侠ではなく、時代劇である。全54回。
 だだし第一回目をはじめ、時々武侠場面がある。空中浮揚あり、空を飛ぶシーンがある。それゆえ武侠に分類する。

 中国の南北朝時代の北朝の物語である。北涼(439年に亡国)の王女であった馮心児(ふう・しんじ)が、行き倒れていたところ、李未央(り・びおう)に助けられる。
 李未央は同家の李敏峰の放った暗殺者に殺されてしまう。
 馮心児は李未央の仇討ちのため、さらに叱雲南(しつうん・なん)に一族を殺された復讐を果たすため、旧敵国の宮廷へ、有力者の李家へ李未央になりすまして入る。
 李敏峰を除くことに成功。李家の力が弱まったあたりで、叱雲家(李家当主の妻の実家)の南が登場、これこそ目指す北涼の仇だった。だが南の後ろには真の仇がいた。
 第30回あたりで、李未央の正体をかなりの人が知るようになる。
 皇帝家拓跋(たくばつ)氏の次代を巡る争い。さらに未央(馮心児)も含む李家の娘たちを巻き込んだ愛憎劇。それらの問題を克服して、馮心児は皇后の座を勝ち取っていく宮廷歴史ドラマ。
 北魏は拓跋(たくばつ)氏の国である。名から判るように塞外民族である。

 北涼が滅びるところから物語は始まる。
 はじめに事故で多くの天灯(灯籠)が浮かび上がってしまうシーンがある。馮心児はそれを捕ろうと二階ほどの高さまで飛び上がり、さらに横に動いたりする。空中浮揚だ。
 わたしは「武侠ドラマ」とは、武侠の本来の意味に加えて、時代SFでもあると思っている。エスパーの超能力の戦いだ。だから馮心児は、空中を飛ぶことができるエスパーと思った。こういう設定の武侠物かと思っていたら、後は普通のドラマだった。そんな能力があるなら、いくつかの危機は乗り越えられたはず。
同じように能力者が多く、これはエスパーだという場面も多いが、武闘場面を強調しただけで、話の本筋を変えるほどではない。
 さらにいえば、武侠物の戦いのシーンは、迫力があってもあまり興味は無い。なぜ戦いになったのか。避けられなかったのか。結果はどうなったのか。それが後にどんな影響を及ぼすのか。それらのことに関心がある。
 特に、能力と行動に矛盾はないか。例えば30メートル跳べる人が、肝心なところで10メートルを跳べない、などということはないか。場面によって設定を変えていないかは気にする。

 未央の読みだが、中国語ではwèi yāng (wei4 yang1)しか出てこない。どうして「BIOUびおう」となったのだろう。
 「びおうさま」もほとんどは「小姐xiao3 jie3」であり、「未央殿」は「未央姑娘wei4 yang1 gu1 niáng2」であり、biouは出てこない。未を「び」と読む例を探したら未央柳(ビヨウやなぎ、ビオウではなくビヨウ)の例があった。美容柳のこと。(もっとも美容柳は別名で未央柳が本名)未央柳は「柳」までそろってはじめてビヨウと読めるのではないか。
(このことについて下のコメントを見てください。未央をビオウと読む例が古くからありました。昔はそう読んだのか。漢和大字典では例外的に「未央」の場合だけ「ビ」と読む例が例が載っています)
 それからいつも桜(のような花)が満開で、銀杏(のような葉が)が紅葉(黄色です)しているのが気に掛かる。

 439年に北涼が滅んで、この頃から南北朝時代(439−589)になる。
 北朝は鮮卑拓跋部の魏(北魏)が386年−534年。
 このドラマの時代は第三代の世祖太武帝(拓跋Z(とう)、在位423−452)の時代である。
 太武帝は華北を統一した。北涼が滅んだのもこのとき。
 初代太祖道武帝、二代太宗明元帝につづき、三代目になる。
 第三代太武帝の孫の拓跋濬(しゅん、第四代文成帝、在位452−465)と未央の出会いから、複雑ないきさつをえて文成帝が即位するまでの物語。(第五代献文帝の即位までもあるが)
 未央が「濬」を筆で書くとき、「浚」と書く。これは代用する習慣があったか。ただし勅令などは「濬」を使っている。

 歴史では、南安隠王(拓跋余、在位:452)が第4代であるが、在位は1年に満たず、帝号はない。だから、拓跋濬(在位452−465)は第5代であるが第四代文成帝とされる。

 創作された物語なので、歴史として引用するときは注意が必要。もっとも歴史も「勝者が自分の思うように書く」ので正しいわけではない。
 すでに亡くなっていた濬の父は景穆帝と追号されているが、代数には入らない。
 物語の後、文成帝の没後に第五代献文帝が即位し、未央(馮心児ふう・しんじ)は馮太后と呼ばれることになる。
 献文帝(在位465−471)は幼帝であったので、母(義母)の馮太后に実権があった。なお、馮太后が献文帝を毒殺したという。
 いろいろ調べていると、死の順序や各皇子の性格など、この物語とはかなり様相が異なる。この当時南朝は宋であるが、趙匡胤の宋とは違うので注意。
 撮影場所は横店の秦王宮(撮影所)が使われている。

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 太極殿や、脇の渡り廊下が盛り上がった場所など何度も出てくる。

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 この物見櫓のような建物も特徴がある。

参考 南北朝時代
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2020年05月30日

瓔珞(エイラク)

瓔珞(エイラク)〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜
原題 延禧攻略  全70話(2018)

2020.3.2 記
2020.5.30 加筆

   2020.2.21.1.jpg

 清朝乾隆帝の時代。後宮では陰謀が渦巻いていた。ほとんどの話は創作と思われるが、どこまで本当か気になってしまう。なお王妃ではなく皇妃である。

 皇后は富察(フチャ)氏であるが、子を亡くして失意の底にあり、高貴妃(こうきひ)が寵愛されていた。寵愛を受けると、事実上の権力も移る。問題は女官の生殺与奪の権力まであることだ。理由は適当でよい。まるで戦国時代だ。
 ここに新米の女官として魏瓔珞(ぎえいらく)が入ってくる。亡くなった姉の死の原因を探る。その間にいろいろといじめを受けるが、常にそれを上回る知略で、相手を追い詰めていく逆転劇が痛快である。
 倍返しだとは言わないが、女性版“半沢直樹”だ。
 高貴妃や皇后など、高位の女性が次々と陰謀で死んでいく。多くの女官や宦官の死はペットの死と同じで、問題にもならない。清の最盛期の乾隆帝の時代なのに、後宮はけっこうお粗末。
 魏瓔珞のモデルは魏佳氏の令皇貴妃で、名は不明。没後、子の永琰が皇太子に立てられたことで孝儀(純)皇后と追贈された。四子二女とこどもに恵まれる。
   貴人→嬪→妃→貴妃→皇貴妃
 皇后富察(フチャ)氏の女官になる。魏佳氏が貴人→嬪になってから皇后富察氏は亡くなるが、この物語では富察氏の死後に嬪になる。

 悪辣な継皇后ホイファナラ氏(輝発那拉氏)をどう追い詰めるか、が後半の興味の中心になっている。史実では継皇后ホイファナラ氏は後に廃される。原因は不詳。
 物語では、ホイファナラ氏はまともで従順だったが、間接的に高貴妃によって、両親と兄が死ぬことになり、いつか心を鬼にする。

 一時、順嬪が登場して、問題を起こし、それを継皇后が利用するが、苦心の末解決する。そして瓔珞は身ごもる。そして継皇后と休戦協定を結ぶ。
 継皇后は人を巧みにそそのかすが、決して自らは手を下さないため、10年以上にわたって後宮は平和を維持することになる。
 十五男:永琰(嘉慶帝)も生まれ、この頃が「還珠格格」の物語の時代に重なる。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 乾隆帝の出自は海寧の銭家であるという、そんな俗説がある。金庸小説では、海寧の陳家としている。
  参考 塩官と陳家

 この乾隆帝は一応名君と言われている。しかしこの話の後宮といい、失敗を重ねた遠征も成功と宣伝したり(十全武功)、また、和珅(わこんヘシェン)という貪官を重用したり、けっこう問題も多い。
 嘉慶帝が後を継ぐと和珅の罪を追及した。没収した財産は国家の歳入の十年分以上だったという。これだけ賄賂をむさぼる役人は空前絶後であろう。乾隆帝の時代はそんな問題の多い時代である。
 乾隆帝の浪費がたたって(?)、清は衰退に向かう。

 続いて、後宮の地図を載せたが、この様子が判らないと、物語の意味が判りにくいから。AからBに行くとき、途中で寄り道してCに行くことがある。寄り道できる場所なのか気になることがある。
    紫禁城 後宮見取り図

   魏佳氏(ウェイギャ氏) 略歴
雍正 5年(1727)魏佳氏出生、乾隆帝16歳。
乾隆10年(1745)正月23日魏貴人となる。11月17日令嬪となる。
  乾隆13年 3月11日、富察皇后死去。
乾隆13年(1748)5月、令妃となる。
乾隆22年(1757)正月、南巡に同行。
乾隆24年(1759)11月20日、令貴妃となる。
乾隆25年(1760)10月6日、令貴妃は皇十五子の永琰(えいえん)出生。後の嘉慶帝である。
乾隆27年(1762)正月、南巡に同行。
乾隆30年(1765)正月15日,南巡に同行。5月10日,皇貴妃となる。
  乾隆30年 継皇后ホイファナラ氏(輝発那拉氏)江南で皇帝の怒りを買う。
  乾隆31年 継皇后 死去。
乾隆36年(1771)2月、泰山及曲阜に同行。
乾隆38年(1773)冬至,13歳の永琰が皇太子になる。ただし清朝では発表しない。
乾隆40年(1775)正月29日、死去、49歳。10月26日,金棺奉安裕陵。
乾隆60年(1795)9月3日、永琰を皇太子とし(発表か)、母の魏佳氏は孝儀純皇后に追封される。

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このドラマに対する、びっくりするほどの細かい考察を見た。
宣和堂遺事
延禧攻略の小ネタ(宮訓圖十二幀と遮陰侯)https://sengna.com/2020/05/03/yanxi1/
延禧攻略の小ネタ2(オシャン収賄事件)https://sengna.com/2020/05/10/yanxi2/
延禧攻略の小ネタ3(茘枝、清朝と犬)https://sengna.com/2020/05/16/yanxi3/
延禧攻略の小ネタ4 吃肉分福と怡僖親王・弘暁 https://sengna.com/2020/05/24/yanxi4/

 宣和堂遺事は目次がないため、いままでどんなことを書いていたか判らないが、中国史の細かいことを知ろうとすると検索に出てくるので、注目しているブログだ。
posted by たくせん(謫仙) at 09:49| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月24日

紫禁城 後宮見取り図

瓔珞(エイラク)のための紫禁城の後宮見取り図

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1 養心殿 乾隆帝
2 慈寧宮 裕太妃 耿氏
9 寿康宮 皇太后
3 長春宮 孝賢純皇后 富察氏(フチャ)
4 延禧宮 令皇貴妃 魏佳氏(ウェイギャ)(ドラマでは瓔珞(エイラク))
5 儲秀宮 慧賢皇貴妃 高佳氏(ガオギャ)(ドラマでは高貴妃)
6 承乾宮 嫻妃→継皇后 輝発那拉氏(ホイファナラ)
7 永和宮 怡嬪 自害(第2回)
      愉貴妃 珂里葉特氏(ケリェテ)
8 鐘粋宮 純恵皇貴妃 蘇氏
10 麗景軒 順嬪 今は亡き高貴妃の儲秀宮のうしろ

5と8の上にも細かく建物があるが、省略している。
11 還珠格格の漱芳斎はこのあたり。別な話だが参考のため。
posted by たくせん(謫仙) at 16:22| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月31日

唐磚

唐磚(とうせん)
日本名 大唐見聞録 −皇国への使者−

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 タイムスリップもの。
 発掘調査に救護班として参加していた雲不器が穴に落ちて、その先は唐の時代だった。
 背中のリュックは救急セットが入っている。リュックは墓標の側に埋めて砂漠の中を歩き出す。

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 砂の砂漠の中の一軒家って、そんなところに家があるのか。庭には大木が一本。砂漠に育つか。ともかくそこに入って二人の男に襲われたのを、若い女、李安瀾に助けられる。この娘は太宗の知られていない長女だった。お定まりで恋仲になる。そこには水や燃料がある。どこから持ってきたのだ。
 そこに、唐太宗の太子たちの軍が入ってきた。
 製塩して喜ばれ、点滴の要領で輸血して太子を助ける。救護班だから注射器など持っていたのだろう。一応血液型チエックなどはする。
 雲不器はすんなり唐太宗の時代に溶け込んで、太宗に重用される。

 バッタの害に、バッタを食用にすることで対処する。わずかを食用にしたくらいで、どうにもなるものでもないのに。
 食糧不足の軍にインスタントラーメンを提供する。何らかの方法で現代と交易ができたのかと思ったら、そうではない。では、そんなに大量のインスタントラーメンをどうやって作ったのか、その材料はどこから? 食料が不足して困っているのだ。材料の小麦粉があれば、食糧不足にはならない。
 そんな風にあちこちに矛盾がある。舞台設定のタイムスリップや言葉が通じるのは仕方ないとして、それ以外の普通の部分は矛盾してはいけない。トンデモ化してしまうではないか。ところがこのドラマではそこがおもしろい。
 コミック化しているが、このドラマの底には玄武門の変がある。太宗が兄と弟を殺し、父の初代皇帝を隠居させたクーデター事件だ。それを知っている太子も同じことを考える。そして失敗する。だから結構重さがある。影がある。
 李安瀾は玄武門の変で母親を殺された。殺したのは誰か。これがこの物語の中心となる謎だ。
 最後は重臣の侯君集が太子を担いでクーデターをおこす。それを雲不器の奇策で防ぐ。そして雲不器は死んだと思われる。ところがはじめの、あの現代の穴の底に、無傷で帰っていた。夢を見ていたような形だ。周りの古物には唐代に自分で使用した想い出の品がある。

 問題点が多く、タイムスリップの諸問題を克服したとはいえない。だからコミックになってしまう。インフラの不備・言葉・文字(篆書体)・衣食住の貧しさなど、タイムスリップものは、それらの問題の解決がついてまわるのだ。
posted by たくせん(謫仙) at 08:08| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月24日

蘭陵王妃

ドラマ 蘭陵王妃
日本名 王と皇帝に愛された女

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 あの有名な北斉の蘭陵王の妃だが、これは実話か。つまりモデルがいたのか。

 北斉の端木怜(たんもく・れい)は、始皇帝の時代に“天羅地宮(てんらちきゅう)”を建立した端木吉(たんもく・きつ)の血を継ぐ末裔。始皇帝による天下統一の秘密が隠されたこの建物への入宮には、三種の神器の1つ“鎮魂珠(ちんこんじゅ)”が必要だった。
 これを探りに北周の宇文邕(うぶん・よう)に嫁ぐが、事故で記憶を失ってしまう。
 この俳優は演技はうまいとはいえない。舞は本格的だった。調べたら歌手だった。物語もあり得ない設定が多い。端木怜が北周の都から北斉へ行こうとするが、荷物もなく、ひらひらの衣装で、ひとりで山道を歩いている。いったい何日かかると思っているのだろう。
 かというと、戦いの場面はけっこう迫力がある。
 初めの数回をみて、おもしろくないなと、最後を見たら意外な展開なので、中も見ることにした。
 わたしが注目したのは、宇文護が明帝を殺すがどうやったのか。宇文護はどうして自分が皇帝にならず宇文邕を武帝にしたのか。武帝は12年間耐えて、宇文護を誅殺するがそのいきさつはどうだったのか。

 念のため、北周の年代を書いておく。
556年−557年 孝閔帝 1年
557年−560年 明帝 3年
560年−578年 武帝 18年
572年       宇文護 誅殺

 573年 蘭陵王死す
 577年 北斉滅ぶ
578年−579年 宣帝 1年
579年−581年 静帝 2年


 ところが、なんと武帝が即位してまもなくの宴会をきっかけに、武帝宇文邕と宇文護が争い、宇文護が死ぬことになる。この戦いは、双方が準備して仕掛けた。12年間をパスしたのだ。ここは時間経過が曖昧。皇帝に擁立してくれた礼を改めて12年後に行った。という解釈もできる。この場合は端木怜の年齢が問題になりそうだ。

 天羅地宮の設定などおもしろいアイディアと思ったが、肩すかしをくらう。天羅地宮のからくり仕掛けはびっくりするが、中身はくだらない。「始皇帝による天下統一の秘密」などという大げさなものではない。
posted by たくせん(謫仙) at 16:39| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月04日

大玉児伝奇

大玉児伝奇 邦題/皇后の記

    download.jpg
 大清建国の物語である。そして中心となるのは摂政王ドルゴンである。
 ドルゴンは初代ヌルハチの息子であった。
 ドルゴンは恋人玉児との仲を裂かれ、玉児はホンタイジに嫁す。ホンタイジの死後、ドルゴンは、ホンタイジと玉児の息子フリンの後見として、一生を玉児のために捧げてしまう。それでも晩年(三十代後半)は暴君に近い。
 仲を裂かれたとき、ドルゴン数え十四歳、玉児は数え十三歳。現実感が薄い。その前に数え十四歳のドルゴンが、現代なら小学生か中学生かという歳で、戦場で兄を助けて大活躍。否定できる材料は持っていないが、これも伝奇かな。

 ヌルハチ、ホンタイジ、ドルゴンと優れた人材がいたが、多くの人は他民族統治の意味が理解出来ない。ドルゴンの兄弟たちは、草原でトップを争った意識を、北京まで持ってきていて、隙あらばクーデターを起こしてドルゴンを皇帝にしようとする。そうしてあちこちでドルゴンの足を引っ張る。
 また、本来なら皇太子ような位置にいるはずのホーゲさえ、漢土への進出を、盗賊が荒らしに来た程度にしか考えていない。民家に優れた物があれば、当然のごとく没収する。そのために漢土を征服したと思っている。
 いくら玉児やドルゴンたちが、国家経営の構想を描いても、実力者が国家家経営の意味を理解出来ず、略奪を繰り返す。それが自分の権利だと思っているのだ。それが統治の足を引っ張る。
 そんななかで、なんとか建国し、ドルゴンは死に、三代皇帝フリンに引き継ぐ。全50回のドラマで、ここまで46回。
 それから康煕帝の成長までが、玉児(孝荘文皇后)の出番なのだが、皇帝フリンの成長まで3回。最後の1回はフリンの出家と康煕帝即位で終わる。
 ちょっと物足りない。

 ところで玉児の名だが、どうもしっくりしない。漢語で玉児の読みがyùér (ユアル)なのだ。名はブムブタイ(布木布泰)。玉児の名はどこから?
 ヌルハチ(努爾哈赤)、ホンタイジ(皇太極)、フリン(福臨)、ドルゴン(多爾袞)など、みな清建国前の満州語なのだ。
 玉児の名に限らず、多くのことが、史実から外れているように思える。創作部分が多いと思える。
 フリンの董鄂妃は江南地方育ちである。弟の嫁を奪った。そのため弟は自殺してしまう。この辺りは、きれい事で済ますことはしていない。
 前に紹介した 多情江山 とはあまりに違いすぎる。
 多情江山よりはかなり史実に近そうだ。そうはいっても、これは大玉児伝奇の題の通り、伝奇として見るべきだろう。

 玉児役の俳優「景甜」は、中国一の美人だという。個人的な感想だが、あまりに顎が細く、人形のようだ。
 かなり前、数代先の人相として、柔らかいものばかり食べているので、顎の発達がなく、細くなるというSF的な予想があった。その見本の顔がすでに実現していた。
 また玉児をはじめ一部の女性たちの顔は、白塗りで血色が全く無く、不気味である。そんな化粧が当時の化粧法だったのだろうか。あるいは撮影当時のはやりの化粧法だったのか。白塗りは全編ではなく、一部分では少し血色があるにしても。
 
   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

孝荘文皇后
年号と西暦では一ヶ月以上のずれがあるので、差が生じることがある。年齢は数え年てある。
1613年     出生
1625年13歳 ホンタイジの側室となる。
1638年26歳 フリン(順治帝)を出産
1643年31歳 ホンタイジ死去
          順治帝即位6歳 ドルゴン摂政
1650年38歳 ドルゴン39歳死去
1651年    順治帝13歳 親政
1656年     順治帝18歳 最愛の満州族の董鄂氏入宮。
         董鄂氏はドラマでは漢族 江南の人
1660年    董鄂氏第四皇子出産、第四皇子と董鄂氏死去
1661年49歳 順治帝24歳死去
 (ドラマでは第四皇子出産、続いて第四皇子と董鄂氏死去、順治帝出家)
         康煕帝即位
1688年75歳 死去
posted by たくせん(謫仙) at 11:53| Comment(4) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月28日

木府風雲

木府風雲
   絢爛たる一族 〜華と乱〜

 面白いドラマだった。武侠ではないがこちらにする。2012年作。
 武侠ではないとは、たとえば定番の空中浮揚が出てこないなど。

 世界遺産となった雲南の麗江を舞台にした物語である。木府はその地の支配者の住む、そして政治の中心となる所だ。現在そこに木府が再建され、わたしは旅行で行ったことがある。
 金庸小説では「沐府」の名で出てくる。

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 わたしは初め風伝(ふうでん)と読んでしまった。(^_^)
 安倍首相が、云々(うんぬん)を「でんでん」と読んだのを嗤えません。

 時代は明代末期。
 主人公の阿勒邱(あろくきゅう)は、滅ぼされた一族の復讐のため、叔父と言う西和によって、幼いとき木府に送り込まれ、侍女として住み着く。西和の目的は木府を滅ぼすことだが、しかし、阿勒邱は善良で賢く、木府を滅ぼそうとは思っていない。西和の陰謀に巻き込まれただけだ。
 少し猫背のせいか、常に頭を低くして畏まっているイメージだ。歩くときも前屈み。そして権力者に囲まれて、怯えたように緊張している。この微妙な表情がうまい。もちろん緊張が解けた時は表情が違う。
 大勢のエキストラは、地元の人たちのいつもの生活をそのまま利用しているようで、(四方街の)ダンスのシーンなど、麗江のいつものシーンそのままだ。服装は今も着ている民族衣装だ。そのままではなく昔風に変えていると思うが。
 そして麗江は水の都。至る所にきれいな水が流れていて、そのまま上水として使えるほど。わたしは食器を洗っているのを見たことがある。撮影された橋や建物など、わたしも見たことのある場所が多い。
 清潔感のある、美しい石畳の町並みと玉龍雪山などの景色。
 山に囲まれているため、通る道は限られているので、城壁のいらない城市、それでも城門はある。
 洪武帝に木氏が土司に任じられて以来、木府も少しづつ充実してきたが、このドラマの時代の明朝末期の建物は、再建された今の建物とはかなり違っていた。
 現在の木府などは再建と新建築によって、映画撮影所のようになっている。特に漢族文化を強調するあまり、あちこちを資料を無視して、漢族風建物に作っている。

 さて第4回、阿雄将軍の台詞
「土司こそ大活躍 先陣を切って多数の敵を葬りました」
おそらく「 屠りました」であろう。言葉は聞き取れないが、字幕なので「葬りました」が浮いてしまう。訳した人が言葉を間違えたのか、字幕を作った人のミスか。
 ナシ語で阿雄将軍が「葬りました」と言ったとは考えにくい。この翻訳の微妙な差は他にもある。
 ドラマの原文は漢語だが、本来「ナシ語」であるから、ナシ語を漢語に訳した形をとるだろう。そこには多少ナシ族の言葉の習慣が入るかもしれない。それを日本語に訳す。
「土司」という言葉。聞いていると「土司大人」と言っている。土司は漢人が地方に根付いた「司」を言った言葉。対する言葉は任地が転々と変わる「流官」(ウィキによる)。
 目下が「土司」と呼ぶのは違和感がある。「土司大人」なら違和感はない。だがナシ語ではどうか。
 門には「木王府」とある。明がこの文字を許したならば、木王様と呼ばなかったのだろうか。
 また「大明麗江府」という文字が途中で出てくる。大明麗江府が明の正式な名だったのか。

 ナシ族の婚姻は通い婚。すべて女性が取り仕切り、男では借金もできない女性社会。家の出入り口の近くの部屋は、若い女性の部屋なのだ。
 ドラマで町の商人を集めたとき、来たのは男性ばかりで、なんかすっきりしない。男性社会だ。こんな所にも漢族文化の地であったことを強調しているようだ。
 また、正妻と妾の関係など、漢族ならまだしも、ナシ族では信じがたい。
 名目最高権力者は土司だが、事実上は土司夫人が権力者だ。これはこのときの土司夫人が優れた人物だからであって、女性社会だからではないだろう。

 なんて細かいところを取り上げたが、話の展開はスピーディー。飽きさせない。いつも、どうなるのか、どう切り抜けるかと、はらはらのし通し。思わず阿勒邱(あろくきゅう)を応援してしまう。善良で賢いのだが、肝心なときに簡単にだまされる。だまされたふりをする策略と思っていると、だまされただけだった、なんてこともある。
 土司夫婦、その二人の息子夫婦、そのそれそれの息子(土司夫婦の孫、木増・木坤)に阿勒邱が混じる愛憎劇だが、木府の存続を賭けたスケールだ。
 木府は金鉱が主要な産業だが、金鉱を欲しがる山砦の主に、木増は交易権を与え、
「金鉱は枯れるが、交易は永遠につきぬ財源となる」と説く。
 第37回、さらに、木増に漢人(徐弘祖)がさとす。
 金鉱はいつかは必ず枯渇する。永遠に枯れないものとして、文化による繁栄こそ麗江を永遠に支える。
 そして木増の時代に、麗江は最も繁栄をした。
 土司夫妻とその幼い子供が、庶民と一緒に四方街で踊る姿は感動する。

♪ 伝説中有一片浄土  それは遙か昔の物語
  住着古老的民族   楽園に住む人々がいた
  毎箇人都能歌善舞  歌と踊りをこよなく愛し
  他們従来孤独    仲良く暮らしていた
  オーアイヨー アイヨー アイエー 

参考 雲南憧憬 9 麗江
   天龍八部の旅13 麗江古城
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2018年09月18日

今年のドラマは(秀麗江山、武媚娘傳奇、那年花開月正円)

 今頃、「岡崎由美先生と行く中国の旅」の一行は、少林寺で練功をしているだろうか。それとも開封府で、包青天を偲んでいるだろうか。
 わたしは残念ながら、今年の「岡崎由美先生と行く中国の旅」は断念した。去年の秋から急に足の力が衰えたのである。とても歩けそうにない。
 もっとも先日の会津若松では、旧白河街道の滝沢本陣から金堀までの山道を、一時間四十分で歩いたのだから、全く歩けないというわけではない。

 「多情江山」以来、いままでに見た(見ている)武侠的ドラマがある。

「秀麗江山」(日本名は秀麗伝)というドラマがある。後漢の光武帝と陰麗華の愛の物語であるが、半武侠といえよう。
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 陰麗華役の俳優が「還珠格格」で夏紫薇を演じた林心如である。

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 還珠格格より
 左から、小燕子:趙薇、夏紫薇:林心如、金鎖:范冰冰。
 この頃はまだ少女なので、三人とも「かわいい」が先に立つ。
 いまは林心如も大人になったとはいえ、「かわいい」ころの表情が各所に出てくる。

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 もう見終わってしまったが「武媚娘傳奇」(武則天)では范冰冰が主役の武媚であった。「還珠格格」では夏紫薇の侍女役であった。今では中国一の美人女優になった。年収四十億円を超えるという。金鎖のころの表情はほとんどなく、いわれないと判らないほど変貌している。
 これは武侠的部分は少ない時代劇。もちろん創作が多く、歴史としてみてはいけない。
(10/7追記:先日のニュースでは、行方不明だったが、四ヶ月ぶりに登場し、脱税の疑いで146億円の税や罰金が科せられたという)

 もう一つ「那年花開月正円(月に咲く花の如く)」。これは清朝時代の商人の物語だ。
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 清朝末期に実在し、中国の近代化に貢献した女性豪商・周瑩(しゅうえい)の愛と成功を描いた歴史ドラマ。これはおもしろい。
 主役の周瑩を演じるのは孫儷(スン・リー)。わたしはこのドラマで初めて見た、知った。范冰冰に次ぐ美人女優という。
 わたしは芸能界情報にはほとんど興味がないので、これらの女優たちが今どうなのか、過去どうだったのか、ほとんど知らない。
 この三作のドラマは、侠とはいえないがお勧めである。
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2018年02月22日

多情江山

2月22日記
3月16日追記

多情江山  日本名 皇貴妃の宮廷
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 清朝の第3代皇帝順治帝(じゅんちてい)(在位1643−1661)名はアイシンギョロ・フリンの宮廷ドラマ。
 清が北京に入城したとき皇帝フリンはまだ数え6歳であった。摂政王ドルゴンが権力を握っていた。フリン13歳のとき、ドルゴンの死後に親政を始める。しかし、数え24歳で没した。(北京入城と没年だけは数え年であることを確認した。他も同じだろう)
 あまりに若い逝去なので、俗伝では五台山清涼寺で出家したという。鹿鼎記はこの説を採用している。鹿鼎記によって、このドラマの顛末はある程度察することができる。
 その第3代皇帝順治帝の22歳から亡くなる24歳までの話。治政は短いものの一応名君と言われている。
 康煕帝は8歳で即位したので、順治帝16歳のころの子で第三子。このドラマの初めのころは康煕帝は6歳くらいだが、城外で育てられた。その他にも大勢の子がいるが、順治帝の子に対する情は薄かったようだ。子ばかりでなく、皇貴妃たちに対する情も、董鄂妃以外は薄かったらしい。
 その董鄂妃とのラブストーリーだ。

 ドラマでは董鄂妃は江南地方(?)の歌姫である。史実は弟の嫁を奪った。
 ドンゴ氏(董鄂氏)は死後に孝献皇后となる。子の第四子栄親王は三ヶ月(?)で夭逝している。
 順治帝は漢文化を尊重した。そして名品の献上をやめさせたり、官職の合理化を図ったり、質の悪い官僚を追放したりした。庶民の負担の軽減をはかっている。それで名君といわれる。
 わたしは鹿鼎記の前章のような感覚で見ている。見始めたばかり、何かあったら加筆訂正をする。

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3月16日追記
 この中で孝庄太后(順治帝の母)役の袁詠儀が名演といえよう。動きはほとんどなく、席に座っての発言ばかりだが、このときの顔の表情が素晴らしいのだ。喜んでいるときや悲しんでいるときは誰でもできる。しかし、心では喜んで表情は厳しくとか、知らぬふりをするとか、建前と本音が違うときの複雑な表情が見事に演じ分けられている。
 董鄂妃を受け入れながら、臣下の前や後宮では厳しいことを言う。そして双方を納得させる。このあたりの複雑な表情を演じながら、威厳を保っている。
 建国の厳しさを知っている故に、特権に溺れる臣下や後宮を常に引き締めているので、董鄂妃に厳しくとも、その行動に頷いてしまう。
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2017年12月20日

鹿鼎記 韓棟版

鹿鼎記 韓棟版
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 今年見た武侠ドラマは琅琊榜(ろうやぼう)に、この韓棟版鹿鼎記であった。孫子大伝も見たが、それは武侠ではない。
 この鹿鼎記、これが意外に面白かったんだな。主役の韋小宝は韓棟。少年時代は無理だが、大人になってからははまっている。
 武侠ものは数回分見てがっかりして終わり、ということが多いのだが、これは50回の最終回まで見てしまった。
 もっとも終わる場所は常春の雲南でも揚州でもなく、極寒の鹿鼎山で、この土地で牧歌的に隠棲というのは腑に落ちない。これでは揚州などの後日談が成り立たない。だから後日談がない。母親は揚州に置き去り状態。
 韓棟版の特徴は、台湾編とロシア編と雲南からの往復の旅編がないことか。その辻褄を合わせるため、ストーリーはそれなりにいじっている。
 それから7人の妻や九難や陳円円など女優たちが、みな若く同年配に見えるのが可笑しかった。陳円円と阿珂は賈青の二役なので、どちらが母か娘か判らないほど。そして他の女性たちと比べても特に美人ということはない。
 三藩の乱のころ、九難は45歳ほどだが、年を感じさせないって、まるで弟子たちと同じ年代のようだ。
 偽皇太后も若いとなれば、女性たちの年齢を考慮していないように思える。
 また、康煕帝と韋小宝をはじめ男たちの頭は、ほとんどが、いつでもたった今剃り上げたばかりと言う状態。かすかに黒みが見える程度。康煕帝と韋小宝の顔は、まるで女優のようにつやつや。こんなことは黄暁明版では感じたことがなかった。今回はそれが目立つということかな。
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2017年09月20日

医食同源

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 9

 これで今回の旅は終わる。
 8月21日の夕食は薬膳料理だった。

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 欽善齋はかなり有名らしい。欽善哉の文字の左に乾隆御筆とある。偽筆とは思いませんが…。
 このレストランの二階のかなり奥の部屋だった。

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 中庭である。

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 いつも我々12人で1卓である。
 四川省は薬材の宝庫である。盆地の周辺は高山が連なっている。その高山が緑豊かで、動植物の種類が多い。それで薬材が多い。漢方薬といえば四川省というほど。その中でも青城山は高名だ。

 その薬材探しの人が洞窟に入ったらそこはユートピアであり、出てくると数百年も経っていた。という話が多い。逆に神仙が薬売りになって人間世界に来る話もある。四川は古くから中華薬材の集散地としてしられている。
 ただし、全国的に有名になったのは宋代になってかららしい。
 当然毒薬もある。
(最初の岡崎先生の講義の一部)

 武侠では、どんな重傷も薬を付けると一瞬で治ってしまう。着ていた服の穴まで繕われてしまう(^_^)。
 これは神仙の技が人間界に流出してしまったからなのだ。

 ガイドは、次のようなことを言った。
「昔の人は大変な苦労をしただろう。ある植物のある部分がある病に効く。それを見つけ出すために膨大な実験を繰り返しただろう。毒で死んだ人もいると思う。漢方薬はそんな歴史の積み重ねの上に成り立っている」
 薬膳料理はそんな歴史の裏付けのある料理である。
 中国には薬食同源(医食同源)という思想がある。
 少し違うが、日本のドラマ「みをつくし料理帖」でも医師源斉は「食は人の天なり」と、食事は薬より大事だと言う。「おいしい料理を作れる人はそれだけで貴いのですよ」と。(田郁 原作)
 現在中国では中華料理を世界遺産にしようとする運動があるらしい。
 岡崎先生はガイドに、「医食同源の考え方を入れるべきだ、それが思想的裏付けとなる」と言う意味の事を言っていた。

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 さて、料理の実体はどうか。実はわたしにはいつもの料理と区別できない。だから医食同源か。

 ここでもほとんどの料理が辛くて食べらない。こんなに辛くしたら毒ではないか、は冗談としても、いくら種類を並べても食べられなければ意味が無い。薬は毒を薄めたものというのがわたしの思想である。この辛さは毒に近い。みんな平気で食べているのが不思議で仕方ない。
 まあ、わたしが辛さに対して過剰反応しているンだろうな。
 一見無害そうなスープでも、唐辛子とは違う辛さで、むせて吐き出しそうになった。山椒だったらしい。
 そんな中でも、なんとか食べられるものを見つけて、それなりに食べている。

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 たとえばこの銀杏の実は、わたし1人で半分ほど食べてしまった。これだけははっきり憶えている。

 わたしはカレーが好きである。カレーはおいしさのある辛さ。だが四川料理の辛さはおいしさのない辛さ。しかも辛さのレベルが違う。でも四川省の人はおいしいと思っているのだろう。
 中国に唐辛子か入ったのは17世紀の半ばという。以来400年。これだけ期間があるのだから、薬材との適合性は試されているのだろう。
 なお、唐辛子の辛さは舌には痛みと感じられるという。
 中国でも、現在は西方が中心である。西方とは私たちが普通に使っている西洋医学である。漢方薬も日方(日本の漢方薬、とは矛盾する言葉だが)の方が信用があるらしい。こうなると、ますます薬材としてより薬膳の材としての意味が重くなりそう。

 関西の2人は明日の朝別便で発つ。
 今回が皆の集まる最後になる。それで、今回の感想や次回に行きたいところなど、意見を交換した。
 わたし自身のことをいえば、体力の衰えを実感じた。20年前までの山登りの体力は夢である。
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2017年09月17日

青城山

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 8

 午前中に都江堰を見て、午後は、神仙の山青城山に向かう。
 この山は低い山だと思っていたが、意外に高く、青城山の主峰の老霄頂は海抜1,600m。
 ここも広いので、その一部しか見なかった。
 武侠迷には、青城派の本拠地として、おうわさはかねがね……。

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 まずは青城山駐車場で、カートに乗り換える。山門近くまで5分くらい。少し歩いて山門である。

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 山門前

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 道観であろうか。

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 案内図だがかなり見にくい。
 区域が左右に分かれている。右が前山で道観が多い。左は後山で自然が幽玄だという。
 私たちが行ったのは前山である。

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 ここからは有料となる。

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 山門の裏にこんな絵があったが、これではなんだか判らない。
 山門から山登りになる。これは30分もなかった。

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 小さな湖があり、船で対岸へ、5分くらい。

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 湖を渡れば目の前がロープウェイの下駅である。

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 ロープウェイで山頂近くへ、すでに上は雲の中である。

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 またしばらく歩く、雲は薄いとはいえ、遠くは見えない。

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 先の地震で上から転げ落ちた岩。よく見ると本来の道の上にあることが判る。

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 ここまで来れば上清宮は近い。
 道は沖なれどもこれを用うればあるいは盈たず

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 大道無為。道教の祖、老子の言葉の大意だろう。「大道無為」という四文字語は見当たらなかった。

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 最後の登りといえるかな。

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 今回の目的地である上清宮に到着した。標高はこのあたりが一番高いのだろうか。登山用の山岳地図が欲しい。それは峨嵋山でも思った。もっとも日本の登山地図のような丁寧な地図は期待できないか。

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 一番上は目の前だ。

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 一番上の真ん中は、…判らない(^_^)。王重陽かしら。

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 全真七子像
 ン? 6人しか見えないが。

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 堂の前、雲がかかっている。

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 ここを通り下へ。

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 ローブウェイの下の駅はなんとか見えた。
 この山もほとんど雲の中。写真を撮ろうとすると暗いのが判る。
 峨嵋山より楽だったが、展望のきかない道は疲れやすい。久しぶりに疲れるほど歩いた。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(2) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする