2017年11月20日

追加加筆

峨嵋山武術学校も画像を追加し加筆しました。
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2017年11月16日

追加訂正

11月12日、四川省名山の旅の参加者が集まった。
旅のおもいでを語り、次回旅行の希望などの話をした。
このとき旅の写真を頂いたので、使わして貰った。
旅行記のあちこちに写真を追加したり、文を書き換えたりしたが、大筋には変わりない。

なお、峨嵋山武術学校は未訂正で、おりを見て追加訂正する予定。
posted by たくせん(謫仙) at 12:07| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

医食同源

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 9

 これで今回の旅は終わる。
 8月21日の夕食は薬膳料理だった。

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 欽善齋はかなり有名らしい。欽善哉の文字の左に乾隆御筆とある。偽筆とは思いませんが…。
 このレストランの二階のかなり奥の部屋だった。

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 中庭である。

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 いつも我々12人で1卓である。
 四川省は薬材の宝庫である。盆地の周辺は高山が連なっている。その高山が緑豊かで、動植物の種類が多い。それで薬材が多い。漢方薬といえば四川省というほど。その中でも青城山は高名だ。

 その薬材探しの人が洞窟に入ったらそこはユートピアであり、出てくると数百年も経っていた。という話が多い。逆に神仙が薬売りになって人間世界に来る話もある。四川は古くから中華薬材の集散地としてしられている。
 ただし、全国的に有名になったのは宋代になってかららしい。
 当然毒薬もある。
(最初の岡崎先生の講義の一部)

 武侠では、どんな重傷も薬を付けると一瞬で治ってしまう。着ていた服の穴まで繕われてしまう(^_^)。
 これは神仙の技が人間界に流出してしまったからなのだ。

 ガイドは、次のようなことを言った。
「昔の人は大変な苦労をしただろう。ある植物のある部分がある病に効く。それを見つけ出すために膨大な実験を繰り返しただろう。毒で死んだ人もいると思う。漢方薬はそんな歴史の積み重ねの上に成り立っている」
 薬膳料理はそんな歴史の裏付けのある料理である。
 中国には薬食同源(医食同源)という思想がある。
 少し違うが、日本のドラマ「みをつくし料理帖」でも医師源斉は「食は人の天なり」と、食事は薬より大事だと言う。「おいしい料理を作れる人はそれだけで貴いのですよ」と。(田郁 原作)
 現在中国では中華料理を世界遺産にしようとする運動があるらしい。
 岡崎先生はガイドに、「医食同源の考え方を入れるべきだ、それが思想的裏付けとなる」と言う意味の事を言っていた。

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 さて、料理の実体はどうか。実はわたしにはいつもの料理と区別できない。だから医食同源か。

 ここでもほとんどの料理が辛くて食べらない。こんなに辛くしたら毒ではないか、は冗談としても、いくら種類を並べても食べられなければ意味が無い。薬は毒を薄めたものというのがわたしの思想である。この辛さは毒に近い。みんな平気で食べているのが不思議で仕方ない。
 まあ、わたしが辛さに対して過剰反応しているンだろうな。
 一見無害そうなスープでも、唐辛子とは違う辛さで、むせて吐き出しそうになった。山椒だったらしい。
 そんな中でも、なんとか食べられるものを見つけて、それなりに食べている。

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 たとえばこの銀杏の実は、わたし1人で半分ほど食べてしまった。これだけははっきり憶えている。

 わたしはカレーが好きである。カレーはおいしさのある辛さ。だが四川料理の辛さはおいしさのない辛さ。しかも辛さのレベルが違う。でも四川省の人はおいしいと思っているのだろう。
 中国に唐辛子か入ったのは17世紀の半ばという。以来400年。これだけ期間があるのだから、薬材との適合性は試されているのだろう。
 なお、唐辛子の辛さは舌には痛みと感じられるという。
 中国でも、現在は西方が中心である。西方とは私たちが普通に使っている西洋医学である。漢方薬も日方(日本の漢方薬、とは矛盾する言葉だが)の方が信用があるらしい。こうなると、ますます薬材としてより薬膳の材としての意味が重くなりそう。

 関西の2人は明日の朝別便で発つ。
 今回が皆の集まる最後になる。それで、今回の感想や次回に行きたいところなど、意見を交換した。
 わたし自身のことをいえば、体力の衰えを実感じた。20年前までの山登りの体力は夢である。
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2017年09月17日

青城山

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 8

 午前中に都江堰を見て、午後は、神仙の山青城山に向かう。
 この山は低い山だと思っていたが、意外に高く、青城山の主峰の老霄頂は海抜1,600m。
 ここも広いので、その一部しか見なかった。
 武侠迷には、青城派の本拠地として、おうわさはかねがね……。

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 まずは青城山駐車場で、カートに乗り換える。山門近くまで5分くらい。少し歩いて山門である。

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 山門前

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 道観であろうか。

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 案内図だがかなり見にくい。
 区域が左右に分かれている。右が前山で道観が多い。左は後山で自然が幽玄だという。
 私たちが行ったのは前山である。

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 ここからは有料となる。

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 山門の裏にこんな絵があったが、これではなんだか判らない。
 山門から山登りになる。これは30分もなかった。

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 小さな湖があり、船で対岸へ、5分くらい。

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 湖を渡れば目の前がロープウェイの下駅である。

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 ロープウェイで山頂近くへ、すでに上は雲の中である。

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 またしばらく歩く、雲は薄いとはいえ、遠くは見えない。

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 先の地震で上から転げ落ちた岩。よく見ると本来の道の上にあることが判る。

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 ここまで来れば上清宮は近い。
 道は沖なれどもこれを用うればあるいは盈たず

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 大道無為。道教の祖、老子の言葉の大意だろう。「大道無為」という四文字語は見当たらなかった。

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 最後の登りといえるかな。

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 今回の目的地である上清宮に到着した。標高はこのあたりが一番高いのだろうか。登山用の山岳地図が欲しい。それは峨嵋山でも思った。もっとも日本の登山地図のような丁寧な地図は期待できないか。

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 一番上は目の前だ。

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 一番上の真ん中は、…判らない(^_^)。王重陽かしら。

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 全真七子像
 ン? 6人しか見えないが。

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 堂の前、雲がかかっている。

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 ここを通り下へ。

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 ローブウェイの下の駅はなんとか見えた。
 この山もほとんど雲の中。写真を撮ろうとすると暗いのが判る。
 峨嵋山より楽だったが、展望のきかない道は疲れやすい。久しぶりに疲れるほど歩いた。
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2017年09月14日

都江堰

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 7

 朝食の時、外は雷雨であった。
 七時前、雨の中を出発、2時間ほどで都江堰(とこうえん)につく。曇ってはいたが、雨はやんでいた。

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 薄暗い中で、入場券を買う添乗員とガイド。

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 入る前に、ガイドは入り口の案内図を示して、都江堰のシステムを説明。
 岷江をここで分流し、水不足だった成都周辺を潤した。
 都江堰は秦の始皇帝の時代より少し前に築かれた。始皇帝の巨大建築などは無くなってしまったが、この都江堰は二千三百年後の今でも機能を果たしている。
 この灌漑設備によって、成都平原は「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となった。
 ただし、システムは同じでも始皇帝の時代の都江堰ではない。先端の「魚嘴」が当時はもう2キロほど上流にあったという。

2017.6.3.1.jpg  この図は、入り口にあった案内図ではない。

 中央の中州4が人工の堤防で、先端の魚嘴2で川を左右に分水する。
 左3が岷江本流、右5が灌江。
 図の中で特に重要なのは2の「魚嘴」である。
 灌江を深く、岷江を浅くした。そのため水の少ない時は、灌江6割、岷江4割。
 川幅は、灌江を狭く岷江を広くした。水の多いときは、灌江4割、岷江6割。
 構造によりそのように分かれる。これにより灌江に分流される水量が安定する。それでも多すぎたときは、図の7で本流に戻す。それによって、必要な水量をいつでも灌漑水路に流せる。

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 このように竹籠に石を積めて、堰を作った。

 秦堰楼から、都江堰を眺望する。

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 向こう側が霞んでいるが、上流である。左右中央から右にかけて細長く中州状になっているが、その先端あたりが始皇帝の時代の魚嘴のあったところらしい。

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 この中州が人工の施設。右の先端の低いところが、魚嘴といわれる。
 その向こうの岷江本流側に1974年に閘門が完成した。今はこれで灌江の水量を調節できる。

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 吊り橋である。人が多いとかなり揺れる。

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 下流方向も工夫があって、灌江に取りすぎた水を岷江本流に戻し、水量の調節をしている。

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 二王廟、ここまで下って見学。

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 二王廟
 李冰は秦の昭襄王から銀十万両を与えられ、4年の歳月で完成させた。その後8年で運河を切り開いた。李冰は完成前に亡くなり、息子の李二郎が引き継いで完成させた。
 二王とはこの親子である。

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 2008年の四川大震災の時に一部は壊れたが、3年をかけて復旧した。
 二王廟の本堂。

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 この一階部分が入り口、下から上がってくる。私たちは裏口から入ったようなもの。

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 サルスベリが目を引く。

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 本堂をもう一度見て、階段を下りる。

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 階段の下から見上げる。

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 下まで下りてきた。水の流れはかなり速い。

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「貴君は何本の香を焚くや」
「三本なり」
 この台詞の意味が判る人はお仲間だ。

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 何先徳夫妻
 1804年、何先徳が橋を架ける工事を始めた。事故の責任を取らされ死罪となったが、妻がその意志を継いで吊り橋を完成させた。
吊り橋は夫妻橋ともいわれるとか。

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 安瀾索橋つまり吊り橋の上から。

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 渡り終えて振り返る。

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 魚嘴の上の水が岷江から灌江へ流れ込んでいるのが判る。

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 岷江にはこの水門がある。1974年に完成した。さらに四キロほど上流には大きなダムがある。

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 岷江本流
 先ほどの吊り橋を渡って戻り、出口に向かう。

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 外から。こちらが表門であろう。
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2017年09月11日

武侯祠

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 6

 武侯祠(ぶこうし)は、三国志演義の主役諸葛亮を祀る霊廟であるが、武侯祠と称する地域には、武侯祠の他に主君劉備を祀る漢昭烈廟もある。
 わたしは諸葛亮といえば、文官のイメージが強く、武官としては無能力だったと思っているので、はじめて諡号が忠武侯と知ったときは意外に思った。
 223年つまり劉備の亡くなった年に、劉備の陵墓である恵陵が造営され、劉備の霊廟も造営された。現在のような諸葛亮と劉備を祀る霊廟に整備されたのは明朝の頃であるという。いわゆる完成は清代。

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 駐車場から、武侯祠の前を入り口まで歩く。

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 見にくいが、案内図。

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 入り口は漢昭烈廟の文字がある。劉備は一応漢の皇帝としていたので、国号は漢となる。

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 漢昭烈廟 劉備像、案内図ではオレンジ色の線に囲まれた右端上下中央あたり。

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 漢昭烈廟のすぐ後ろに武侯祠がある。

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 武侯祠 諸葛亮像
 霊廟内には関羽・張飛などの蜀漢の武将の塑像が並ぶ。写真はない。
 諸葛亮や劉備の塑像と同じで、いずれもが後世の製作。『三国志演義』によって形成されたイメージに基づくもの。

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 ここはどこだったか。

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 案内図の武侯祠の左に桂荷楼がある。荷とは蓮のことなのでこの建物と思われる。


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 ここから劉備の墓の方へ行く。

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 武侯祠を代表するような道である。この右側が恵陵で丸い。

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 恵陵つまり劉備の墓の入り口。右側になる。

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 恵陵は案内図では武侯祠左側、円形をしている。

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 恵陵の大きさを感じられるであろう。小さいが、皇帝とはいえ地方政権の長に過ぎないので、相当なものか。
 未発掘であるという。

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 頭でっかちな獅子(?)

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 夕食後に錦江劇場で川劇を見た。

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 なんと一番前の席の真ん中あたり。左右には字幕など出るが、わたしの席からは無理。
 三英戦呂布・梅花奨・変面。以下説明ぬき。

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 注目するのは変面である。武侠ファンには張紀中版「笑傲江湖」でおなじみだが、遙かに鮮やかであった。

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 古い舞台もある。
 好(ハオ)、好(ハオ)、と声が飛び交いそうだが、現在は使われていない。

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 武侠ファンにとって忘れがたいのは、諸葛孔明の八卦陣である。桃花島は八卦陣で作られているため、老頑童は15年も出ることができなかった。
 陸家荘では、穆念慈が楊康を助けようとするが、どうしても近づけない。
 黄蓉も赤ん坊の郭襄を八卦陣の囲いで守ろうとした。李莫愁はその囲いが解けない。
 などあちこちで諸葛孔明の八卦陣が使われている。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(2) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月08日

杜甫草堂博物館

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 5

 8月20日、峨眉山市から成都に戻る。午後から杜甫草堂の見学である。
 あらためていうと、
 杜甫は、中国盛唐の詩人。字は子美。号は少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣。「杜少陵」「杜工部」とも呼ばれる。「詩聖」と評された。
 杜甫は乾元2年(759年)、安史の乱のせいで、成都への流亡を余儀なくされた。そこで親友である厳武の援助を得て、浣花渓の近くに茅葺の小屋を建てた。杜甫はそこで4年間の生活を送った。

 つまりこの草堂には4年間しかいなかった。もちろん当時の建物は残っていない。
 
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 この杜甫草堂は博物館で、これはその博物館の入り口である。

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 照壁
 門の前の目隠し壁であるが、もちろん草堂にはない。博物館の壁である。

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 博物館の説明地図である。
 正門を入って、詩史堂・柴門・工部祠・少陵草堂・茅屋故居と続く。

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 この地図と上の説明図を合わせて見当をつけたが、はっきりしない。
 細かい説明は間違いそうなので省く。

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 見にくいが橋を渡るところ。

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 大廨、廨は初めて見る字だ。役所のこと。

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 入り口から見て建物の左側、両側にこのような回廊がある。

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 詩史堂

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 柴門
 当時この名前の門があったので、柴門としたが、おそらく、名前ばかりの門であっただろう。この門は清の時代の建築。向こうの建物は工部祠。

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 柴門の手前にこの水路(池?)がある。

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 工部祠
 工部は杜甫のこと。「検校工部員外郎」を勤めたゆえ、こう言われたとか。

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 少陵草堂の碑亭
 杜甫草堂のシンボル的存在。清代康煕帝の子、雍正帝の弟果親王である、愛新覚羅允礼の書いたもの。

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 茅屋故居。当時の杜甫の記述に合わせて再現した。庭には松が四本などの記述があって、四本植えたとか。日本人好みの庭である。

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 上の柴門とは、本来こんな門ではなかったか。

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 室内の様子。

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 土間が一列に並んでいた。
 なお、本当の草堂跡はこの裏の方にあたる。

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 見学を終えて門を出る。門前は道の向こうが浣花渓、その向こうは高級住宅地。
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2017年09月04日

四川峨眉山文武学校

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 4

 峨嵋派武術は少林寺武術や武当山武術と並び三大武術といわれるが、峨嵋派としてまとまっているわけではない。
 春秋時代に司徒玄空という最初の武術家が現れた。猿の動きから、「峨嵋通臂拳」を編み出したと伝わる。その後も多くの武術家が独自の武術を編み出した。その中には女性もいる。それが金庸小説で郭襄(小東邪)を峨嵋派の開祖扱いしたもとらしい。四姉妹が蛾眉の四山に姿を変えたという伝説もある。
 現在四川には、67派あり、四川省由来が28派である。(以上、八雲さんの解説による)

 ガイドの李さんが言った。
「20年ガイドをしてきて、多くのツアーを案内してきましたが、武侠のツアーは初めてです」
 そこで、岡崎先生の事を調べたら、大変なひとで驚いたとか。
 四川峨眉山文武学校の見学を申し込んだとき、団体名を聞かれたという。
 岡崎先生は、「授業の邪魔にならないよう、授業の様子など見学させて頂きたいと思っていたのですが」
 この学校では武術ばかりでなく、ふつうに学問も学ぶ。現在は武術だけで生活するのは難しい。現代の学問も修得せねばならない。そんなわけで、文武両道の学校となった。
 峨嵋山を下りて、4時ころに四川峨眉山文武学校に着いた。

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 門には大きな横断幕。これには驚いた。
 門柱には峨嵋派とある。一門派にとらわれず、広く峨嵋山地域の武術を学ぶとみた。

  歓迎、日本の中国武術ファンの友人たち

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 そして生徒たちが整列して出迎え。左でカメラを構えている人は学校の職員である。
 案内してくれたのは校長先生。向こうの低く横に長い建物が校舎である。体育館は左奥になる。
 わずか12人の武侠迷は恐縮してしまうではないか。

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 武術ばかりでなく普通のスポーツもする。

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 体育館に行く途中にあった武術家の像、背中の槍は短くしたが、峨嵋槍は長槍である。

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 体育館に案内される。


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 体育館で演武を見せてくれた。
 私たちの両側には生徒の父母らしい人たちがいた。

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 演武の後ろには、門で見たと同じ横断幕。

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 刀術
 中国では剣術と刀術は異なる。動きは円を描き、休み無く動く。わたしには相手に背中を見せるのが気になる。その一瞬に勝負が決しないか。
 日本では刀を使いながら、剣道・剣術という。細身なので中国の剣に近い。

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 武術の中心となる張氏、峨嵋派僧門第十四代傳人。教師ではなく仏教僧侶。
 手足以外はぴくりとも動かない。その後の目にも留まらぬ早業。動画を数回見て、動きを確認した。

 八卦掌、八卦刀、虎拳法、猴棍、羅漢拳、峨嵋刺など30分ほど演武を見せていただいた。

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 変面も披露。

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 記念撮影

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 初歩の構えを指導。

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 こうして構えを教えながら、その意味も説明する。

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 校舎

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 南宋建炎年間に白雲禅師が、峨嵋十二〔木+庄〕功という練功法を創作する。という話もある。

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 門脇に四川峨眉山文武学校とある。猿の絵は司徒玄空の故事由来であろう。
 四川省の山々は神仙伝説が多く、司徒玄空や白雲禅師をはじめ武侠の先達たちも神仙伝説に彩られている。四川省は中原とは違った古い文明の発祥した地域なのであった。
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2017年09月01日

峨嵋山(峨眉山市)

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 3

 19日は楽山市から峨眉山市へ向かう。地名などは「峨眉」だが、小説やドラマでは「峨嵋」が多い。区別はないようだ。(8時発)

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 峨眉山市で登山用の景区エコカーに乗り換える。(9時15分)

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 券売所のテレビ画面、金頂か?

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 途中休憩の売店。(10時)

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 2時間ほどで峨嵋山の中腹、雷洞坪まで行く。(11時5分)
 ここから山歩きが始まる。ロープウェイの乗り場まで山道を登る。

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 一般の人のエコカー乗り降りはこちら。

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 霧が濃く、霊場らしい雰囲気だが、景色は見えない。
 低い階段が多く、歩きやすいとはいえ、30分の登りはきつかった。(11時40分着)
 ロープウェイで金頂へ。雲が多く展望は開けない。
 ロープウェイを下りて、少し歩けば山頂である。

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昼食にする(12時15分)。
 周りは雲であり、見晴らしはよくないが、山頂部分だけははっきり見えた。

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 晴れていれば、こんな山並みが見えるはず。

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 強力(ごうりき)がこうして資材を運んでいた。人も運ぶ。

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 金頂(3077)には巨大なクレーンが動いていた。堂の工事中であった。

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 金ピカの巨大な普賢菩薩、象は普賢菩薩の乗り物である。
 峨眉山は中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)の一つといわれている。
 ウィキでは、
 26の寺院を有し、普賢菩薩の霊場とされる。一番高い峰が万仏頂(標高3,098メートル)で、頂まで32の名刹が続いている。
 とある。名刹数が寺院数より多いことはない。どっちの数字が正しいのか。もちろん昔はもっと多かった。
 このような霊峰なので、
自然が護られ、約3,000種の植物と、絶滅危惧種を含む約2,000種の動物の宝庫でもある。1996年12月6日には文化面、環境面両方が考慮され、楽山大仏と共に「峨眉山と楽山大仏」としてユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録された。

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 記念撮影。それにしても三千メートルの山頂に、こんな巨大な像をよく建てたものだ。

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 展望台(?)にあがる。周りは雲の中。不思議に頂上部だけ雲がなかった。

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 堂も金ピカ。寺号は華蔵寺である。金頂には臥雲庵という別な寺もあるはずだが、どこなのか。

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 普賢菩薩像を横からみる。こう見る方が大きさを実感する。

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 もう一つの堂の新築・改築中である。

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 こちらの堂はかなり金メッキがはげている。

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 こちらの建物は何か。
 寺院の説明はほとんど無い。まあ宗教的な意味合いでお参りしているのではないので、かまわないのであるが、インターネットでもはっきりしない。
 気温は高かった。海抜3千メートルの山頂で、半袖姿が目立つ。本来寒いくらいの方が、歩いているとちょうどよい。

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 下山途中に見えた。雲の中である。
 登山の注意として猿に用心といわれたが、一度も見なかった。凶悪らしく、油断していると持ち物を取られる。猿は猛獣なのだ。よく見られるのはニホンザルと同系統の猿である。
 今回は金頂のみだったが、他にも峰があり寺院がある。見えなかったのは残念。大雨の予報が傘を使わずに済んだことでよしとしよう。それにもう一カ所行く予定があるのだった。
 14時20分エコカーに乗り景区出口に向かう。
 15時35分到着した。
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2017年08月28日

楽山大仏

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 2

 18日、楽山磨崖仏に向かったが、寄り道した。眉山市彭山区で最近発見された江口沉銀遺跡の、今年の1月から始まった発掘現場を、対岸から見ることになった。

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 岷江、見にくいが真ん中あたりの川の合流地点が発掘現場である。この右の対岸まで行く。

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 こんな塀が続く。

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 江口崖墓という、ローカルな遺跡もある。

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 ようやくこれだけ見えた。

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 畑を囲っているのか、それとも遺跡を守っているのか。

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 この地域の中心の通り。真ん中あたりの家は商店である。

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商品、紙など。

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 場違いな感じがする建物。女性の足の長さに見とれて建物は見なかった。

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 不思議そうにこちらを見つめている。
 またバスに乗り楽山市に行く。

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 ここから船に乗る。楽山磨崖仏は川に面していて、その川は広いので船でないと近くでみることができない。

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 この先端あたりに楽山磨崖仏がある。

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 岷江と大渡河の合流地点なので、水の色がはっきり分かれている。

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 磨崖仏を陸から見るにはこのコースを登っていく。

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 楽山大仏は世界最大である。高さは71メートル。東大寺の大仏の5倍ほど。
 像高(像本体の長さ) 59.98mと言うので、71mは台座部分も入っているのか。
 なお近年さらに大きい仏像(観音像を含む)が立てられている。
 ちなみに魯山大仏128メートル、日本では牛久大仏110メートル。

 陸からの見学は、上から見るか、あるいは、左の階段をおりて足下から見上げる。そして右手に抜けて階段を登ることになる。

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 正面から。見上げるために、顔を大きくして見た目のバランスを整えている。

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 この階段を下りる。

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 大仏の左右に脇侍がいる。左は形が崩れている。この写真は右側だが、どんな菩薩だろうか。

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 トンネルを抜け、右に行き、登ることになる。

 船からの仏像を堪能したので、一度上陸し、上から大仏を見ることにする。

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 川沿いの道を歩き、登山口に至る。ここから333段を上り、大仏の頭部に至る。大仏の背後は凌雲寺という寺である。寺域はどれほど広いのか。
 この登山道は先ほど川から見た。

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 最後の33段は一気に上る。途中で休まない。

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 ここから凌雲寺に入るのだが、それは後からで、まず仏頭を見る。
 ここからは自由に観光となる。

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 大勢の人が並んでいる。ここから大仏の脇を下まで下りるのだ。私たちは上からの見学だけで済ます。

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 絶壁の階段を下りていく人々。

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 楽山市は中心市街は超高層ビルの並ぶ都会であった。市域などは何度も変更されているので、具体的な数字はわからない。

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 海通禅師、大仏建立のための基金集めをした。嘉州郡守が寄付を拒絶し「目を差し出すなら」と無理を言うと、その場で目を抉り出したという。そうまでして資金を集めたのだ。

 そのまま山の上に行くと、苑などがあるが、その一画に蘇東坡をたたえる(?)建物があった。

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 東坡楼
 蘇軾は北宋最高の詩人といわれる。東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれる。眉州眉山(眉山市)の出身である。今ではとなりの市である。

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 建物の中には蘇東坡像がある。

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 集合時間になったので、元の場所に戻り凌雲寺に入る。

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 凌雲寺は混んではいなかったが、この寺の説明は忘れてしまった。

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 何の像だったか。

 凌雲寺を出ると駐車場まで15分という。もちろん歩くことにする。

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 ホテルに着いてから散歩に出た。すぐ前は大渡河で雨の後のせいか濁流である。

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 泳いでいる人がいる。水流が速いので、流されているように見える。

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 遠くに大仏が見える。

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 乗り捨て自由のレンタル自転車。ケータイで手続きして使用料を払う。外国人はその支払いシステムへの加入が難しい。

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 夕食後、スーパーマーケットに行った。
 ばら売りの米の値段だが、500グラム単位、これは1斤相当の量である。
普通の粳米    3元
香米       3元 ジャポニカ米だが南方系。
インディカ米 2.5元
上質な米袋入り  4元
 おおよそこの程度、思っていたより高かった。
posted by たくせん(謫仙) at 05:31| Comment(1) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月24日

成都

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 1

 8月17日、朝7時に成田集合。関西の2人もここで集合した。添乗員と岡崎先生を入れて、総勢12名である。
 成田発08:50、成都到着は13:20(現地時間)、5時間半の直行便である。
 成都に着いてから空港を出るまで1時間以上。専用のバスに乗り込む。
 ホテルの近くでまず書店に入る。わたしは「李清照」「李U」「余秋雨散文」を入手した。これは辞書のようになにかの折に参考にしたいのであって、すぐ読みたいわけではない。それからホテルに着いてすぐに夕食の店に向かう。

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 5時40分に「陳麻婆豆腐」に到着したが、ここで最初のトラブル。なんと予約しておいたのに部屋がない。食事前の一時間ほど、岡崎先生の解説などを予定していたのだが、どうやら勘違いがあった模様。しばらく待つことになった。個室の用意ができ、岡崎先生の四川省の解説と、八雲関西幇主の峨嵋派武術の解説を聞く。
 小説やドラマなどで峨嵋派がよく出てくるが、実はいろいろな武術派があって、峨嵋派という名で括ることは出来ない。知らないわたしにはびっくりする話ばかり。(^_^)
 夕食は中国らしい料理が並ぶが、ほとんどが唐辛子の辛い料理。わたしは苦手なのだ。今回は最後までこれがついて回った。

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 料理の一例、見ただけで手が出ない。

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 四川ダック、これさえ唐辛子味。

 看板の麻婆豆腐は言わずもがな。写真を撮る気にもならなかった。それで今回は料理の写真は原則としてなし。

 さて、四川省といえば何を思い浮かぶか。まず「三国志の蜀漢」と「パンダ」であろうか。
 ガイドに問われて、わたしは「曇り空」をあげた。「蜀犬日に吠ゆ」といいう有名な言葉がある。
 口にはしなかったが「巴山夜雨」もある。今回の現地の天気予報は大雨ばかり。夜中から朝にかけて雷雨になったりする。それがなんと傘を一度も使わずに済んだ。
 四川省の省都は成都である。重慶市は1997年に直轄市になったので、四川省の範囲ではなくなった。そうは言っても四川盆地にあり、直轄市になる前は四川省なので、間違えてしまう。成都市の人口は1400万人、市部は600万人。
 今でも中国を共産主義の国と思っている人は少ないと思う。現地の人の感覚でも完全な資本主義である。事前の情報では20世紀の国である日本、21世紀の国である中国という対比があった。都市部では現金やカードは不要で、ケータイで全部済ますとか。
 成都での実感は、21世紀と20世紀半ばが混じり合っている印象だった。

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 ホテルの窓辺、横顔に見えたのは偶然らしい。

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 ホテルのロビーは諸葛孔明が目立つ。

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 中国は固定電話が十分に普及しないうちに、携帯電話の時代に入ってしまった。一週遅れだったのがその一週をパスしたようなものだ。
 ケータイで全ての支払いを済ます。
 考えてみると、私生活は全て公開されているに等しくなる。プライバシーの保護はどうなっているのだろう。インターネットには、堂々と「監視されています」とでてくる。
 このままの形で発展できるのだろうか。
posted by たくせん(謫仙) at 15:23| Comment(2) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月26日

孫子大伝

孫子《兵法》大伝
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 2010年の中国のテレビドラマである。全35話。
 孫子の兵法と言えば作者は孫武と孫臏(ピン)の両名がいる。一般的には孫武を指す。孫臏は“孫臏兵法”と言うことが多い。また孫臏は孫武の子孫と言われている。
 このドラマは孫武の人生を描いた歴史大河ドラマである。
 呉王・僚の暗殺(紀元前515年)から呉国滅亡(紀元前473年)までをえがく。
 孫武については疑問が多く、実在は疑わしい。
 海音寺潮五郎の小説「孫子」は、孫武の材料が少なすぎて書きようがなく、ほとんど創作である。そして「うまく当てはまらないので困った」と言っている。

 兵とは国の大事なり 死生の地 存亡の道 察せざるべからざるなり

 戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり

 斉国の孫武は裏切り者から迫害を受けたため、家族を連れて呉の国をめざして逃亡する。
 季札とともに呉に向かう途中で、呉では王弟闔閭(こうりょ)のクーデターがあった。闔閭の使いが季札を次の呉王にと迎えに来る。必ず辞退すると判っていての、闔閭の腹芸であった。
 季札は辞退し、闔閭が呉王となり、孫武は市井の人となる。
 伍子胥が孫武を見いだし呉王闔閭に推薦する。そして試しに女官たちを軍事教練してみることになる。第4回でここまで。

 この女官たちの軍事教練の話は有名であり、孫武の話には必ず出てくるが、これもかなり怪しい話だ。そしてこれ以外の話はほとんどないのが現状である。
 一応孫武は、紀元前535年?〜没年不詳 と言われている。
前535年 誕生
前515年 斉国を出たのが20歳?。
前506年 楚と呉の戦争は29歳?。(柏挙の戦い)
以後の資料は少ない。
前496年 越王允常が亡くなり、勾践(こうせん)が即位。
 この年、呉越の戦いがある。このドラマでは、孫武はこの呉越の戦いに参戦していない。
同年  戦いの傷で闔閭が死去。孫武は39歳?。
同年  夫差(ふさ)が即位。
 以後「臥薪嘗胆」の故事となる呉越の戦いの時代になる。
 ドラマでは即位の5年後、夫差が越を制圧(史実は前494年)。
 勾践を奴隷とする。ここまで32話。
 二年余りで勾践を放免する。
前484年 伍子胥(ごししょ)死去。
前473年 勾践が呉を滅ぼす。夫差は自害。呉が滅ぶ。
 最後に孫武が、孔子と老子に会う。同時代の人だったのだ。

 この物語でも、孫子が指揮したのは、柏挙の戦いのみで、6万で20万の軍を破った。
 孫子の兵法を理解しない夫差を拒否し、呉越の戦いは参加しない。
 時々、琴を演奏するシーンがある。手の動きと音が一致しているので、安心して見ていられる。
 漪羅(いら、孫武の若夫人)役の景甜が、射G英雄伝の黄蓉役の周迅のイメージに似ていたので、思い入れをもって見てしまった(^_^)。
posted by たくせん(謫仙) at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月09日

四川省名山の旅

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて

2017年8月17日(木)〜8月22日(火) 5泊6日
旅行代金:198,000円
 (別料金:一人部屋差額28,000円、燃油サーチャージ約3,000円)
申込締切:6月15日(木)
募集人数:15名(最少催行人数10名)
旅行企画:(株)キャラバンツアー 担当・増山

何度も行っている「岡崎先生と行く中国の旅」の案内が届いた。
いままでは5日間だが、今回は6日間である。
今回の目玉は峨嵋派と青城派の根拠地である。峨嵋派の「峨嵋山」は仏教の聖地、青城派の「青城山」は道教の聖地。
有名な「楽山大仏」も遊覧船で見学する。さらに成都の「武侯祠」「杜甫草堂」「川劇鑑賞」なども予定。

ツアー日程
8/17 成田08:50〜 成都13:20 成都市内へ
   成都銀河王朝大酒店にて宿泊
8/18 専用バスで楽山へ
   世界遺産 磨崖仏楽山大仏を見学(遊覧船+凌雲寺)
   楽山嘉州賓館にて宿泊
8/19 午前、専用バスで峨嵋山へ
   世界遺産「峨嵋山」見学
   ロープウェイで金頂へ(八雲さん情報では海抜3千m以上)
   ロープウェイで下山
   峨嵋山華生酒店にて宿泊
8/20 午前、専用バスで成都へ
   午後、「武侯祠」「杜甫草堂」見学
   夕食後、川劇鑑賞
   成都銀河王朝大酒店にて宿泊
8/21 「都江堰」と「青城山」見学
   成都銀河王朝大酒店にて宿泊
8/22 午後、成都12:20〜 上海浦東15:20 
   乗り継ぎ17.20〜 成田20:40

※利用予定航空会社 中国国際航空
※利用予定ホテルは別の同等クラスになることがあります。

今回は関空利用が難しい。往路は到着が22時になる。

問い合わせ先は(株)キャラバンツアー 東京支店。
FAX 03−5295−1702
「岡崎先生と行く中国の旅」増山さん宛にお願いします。
posted by たくせん(謫仙) at 08:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月13日

琅琊榜(ろうやぼう)

琅琊榜(ろうやぼう・láng yá bǎng)
麒麟の才子、風雲起こす
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 評判の琅琊榜をやっと見た。
 金庸以外の武侠の特徴である架空王朝だが、モデルは南北朝時代の南朝だ。国号は梁、都は金陵。金陵は南京市の古名である。史実では梁の時代は“建康”であった。
 まず、梁国の赤焔軍七万が味方の手で殲滅される。
 赤焔軍の将は林燮(しょう)で、この息子の林殊がこの物語の主人公。
 12年後、林殊は病弱の身の変わり果てた姿で、復讐ないし名誉回復をしようと、変名で金陵に戻って来た。その変名は梅長蘇または蘇哲だ。ここから物語が始まる。

 あらすじなど、あちこちで書かれているので、ここでは書かない。
 琅琊閣の琅琊榜とは天下の才人や武人などの番付で、これによると梅長蘇は天下第一の麒麟才子。
 いったい皇帝にもできないようなこんなリストがなぜできるか。閣主の藺晨(りん しん)の特殊能力か。もちろん大勢の情報員を抱えてはいるが。
 皇太子の蕭景宣(しょう けいせん)と第五皇子である誉王・蕭景恒(しょう けいかん)が後継者の地位を争っていて、“麒麟の才子を得た者が天下を得る”との情報を得る。
 二人とも、江湖の江左盟の宗主・梅長蘇が“麒麟の才子”と知り、招こうとする。ところが、梅長蘇は“第七皇子靖王”を支持している。
 皇帝は、雲南郡主の穆霓凰(ぼく げいおう、林殊の許嫁だった)の武力を削ぎたく、霓凰を嫁に出そうとする。
 こんな風に朝廷内部の勢力争いが大きい。
 時々思い出話などが絡むが、本筋を助けて邪魔をしない。これはすばらしい。
 そして、梅長蘇は事を起こすかなり前から、入念な準備をしている。それがピタリピタリと当たるのだ。まさかあれがこの準備だったのかと驚く。

 第二回で、梅長蘇が太皇太后の所へ挨拶に行く。高齢の太皇太后は昨日あった人のことも憶えていないような状態なのに、“小殊”(林殊の愛称)と呼ぶので、穆霓凰が梅長蘇に疑いを持つ。このように自然に流れている。
 梁の建国の設定はいつなんだろう。現皇帝は少なくとも三代目。
 史実の梁は(502〜557)ほぼ一代で終わった。
 おもしろいのは、三人の皇子の出来が、その母の出来具合と比例している事だ。
 第五皇子である誉王(母は義母・皇后)などかなりの出来だが、今一歩足りない。それで墓穴を掘ってしまう。特に参謀役の秦般弱が梅長蘇と比べて格落ちなのだ。
 話にスピード感があり、夢中になって、なんと2話90分のDVDを5枚借りて一日で見てしまった。全部で27枚54話。
 ここまで夢中になって見たのは初めてかもしれない。
 ドラマの出来がいい。香港の武侠など足下にも及ばず、おもしろいが矛盾の多い張紀中の金庸物よりはるかに整合性がある。まるで“校閲ガール”がいるようだ。
 戦いのシーンも、なぜここで戦わなければならないのか、理由をきちんと説明している。それでいて無駄がない。

 出てくる人物が誰が誰だか判らないので、下のリストを時々見ながら書きながら、ドラマを見ている。
林殊  梅長蘇(ばい ちょうそ) 蘇哲
林燮(しょう、林殊の父、故人)
 飛流  林殊の護衛(少年)
 黎綱(れい こう) 林殊の護衛
 十三先生
 宮羽
 童路  野菜売り連絡係
藺晨(りん しん) 琅琊閣 閣主  

蕭選(しょう せん) 皇帝
蕭景宣(けいせん) 皇太子
越貴妃 皇太子の母 罪を得て貴妃から嬪になる。
 謝玉(寧国侯) 皇太子の味方の有力者
 謝弼(寧国侯の世継ぎ)
 莅陽(りよう)長公主  謝玉の妻、景睿の母
  卓鼎風(天泉山荘 荘主) 江湖者 謝玉に仕える。
  卓青遥  鼎風の息子
蕭景睿(けいえい) 寧国侯府長子(訳あって謝・卓2家の子とされる)
言闕(けつ)  言侯 豫津の父 言皇后の兄
言皇后
言豫津(よしん) 景睿と仲が良い。

蕭景恒(けいかん) 誉王 第五皇子、言皇后の義子
 秦般弱(しん はんじゃく) 誉王の参謀役、若い女性でわけあり。
 慶国公

蕭景琰(けいえん)靖王 第七皇子
靖王妃
静嬪  靖王の母親、女医 嬪から妃となる。
穆霓凰(ぼく げいおう) 雲南郡主 もと林殊の婚約者。
穆青  雲南王 霓凰の弟
紀王  皇帝の弟

蒙摯(もう し) 禁軍大統領 林殊と親しい。
高湛  常に皇帝のそばにいる宦官。
夏江  懸鏡使(皇帝の密偵役)の長
夏冬  懸鏡使 若い女性、霓凰と親しい。
聶鋒(じょう ほう) 夏冬の夫、林燮の武将だった。

第一皇子 祁王 故人
第三皇子 患っている。
第四皇子 皇太子(第二?かな)
第五皇子 誉王
第六皇子 大志なし。
第七皇子 靖王
第九皇子 幼い。

 副題の「麒麟の才子、風雲起こす」は日本語として不安定。
「麒麟才子、風雲起こす」か「麒麟の才子、風雲を起こす」か、どちらかにして欲しい(^_^)。
posted by たくせん(謫仙) at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月15日

第12回武侠迷大幇会

第12回武侠迷大幇会
 11月12日、日本棋院での碁会を早退して田町に行く。年一回の武侠迷大幇会があった。
 一応30分前から開場なのだが、その5分過ぎくらいに行くと、三分の一ほどの席が埋まっていた。みんな早い。
 まず、目に入ったのは、いつものごとく香港漫画店のMさん。香港漫画を、広げて見せて説明している。表紙ばかりでなく漫画も総カラーページの迫力はすごい。
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 香港漫画店のHPはこちら http://www.hongkongmanga.com/
 Mさんはある武侠小説の翻訳もしている。その第6回の手製の小冊子をいただいた。わたしたちは、完訳した暁には…という夢もあるが、本人は「周りの状況が難しい」と言っていた。

 紹介したい本がある。わたしはまだ読んでいないが、今回は来なかったいつものメンバーの佐藤信弥さんによる本である。
 周−理想化された古代王朝 中公新書
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 わたしも紹介されて知ったばかり。

 今回の参加者は49名。これ以上参加者が増えると、ここでは入りきれない。超満員で通路を歩くのも自由にならないほど。
 となりに座った旅行社の女性添乗員とは「いつか桃花島旅行を…」という話をした。わたしはもう一度行きたいのだ。しかし、あまり先になると、わたしの方が行けなくなってしまうか。
 さていつものごとく抽選がある。抽選券は、お蓉ちゃんの三だった。
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 2013年于正版のドラマ「笑傲江湖」を手に入れた。主人公の名をとって霍建華版と言った方が判りやすいか。わたしはどちらでも不案内だ。

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 メンバーに迷子さんがいる。迷子さんのブログでこのドラマを詳しく説明している。それを読んでいると、ドラマをみるのが恐ろしくなってくる(^_^)。原作無視の名前だけ借りたようなストーリーらしい。所々に原作が入るとか。どうせならこのストーリーで題名などを別にすればいいのにと。

この日の料理を。
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おいしくいただきました。
posted by たくせん(謫仙) at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月25日

青島

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 11
青島

 今回が最終回になる。
 8月22日の午後8時頃、青島(チンタオ)に着いた。これも15分くらい遅れた。
 夕食は海鮮料理である。これが最後の宴になる。
 ガイドの王さんから、かめに入った紹興酒「女児紅」の差し入れがあった。そして「わたしの方が岡崎さんにガイドされました」と挨拶。

 翌朝、23日(火)はからりと晴れていた。

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 朝食前に散歩に出た。まだ日も差さないうちに海に入っている人が多い。その向こうが小魚山公園だ。今日の観光予定。

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 右の最上階が丸く回転する建物が泊まったホテルだ。

 朝食のため、ホテルに戻り最上階の回転レストランに行こうとしたら、エレベーターが途中で止まってしまう。まだ時間前だった。

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 これは最上階より。
 朝食後に小魚山公園にむかう。昔の町並みなので道がわかりにくい。しかも途中から大型車が入れなくなっていて、歩くことになる。

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 青島は昔ドイツの領土だったことがある。そのときの町並みが今も保存されている。ドイツが引き上げても、次に建築する人たちはドイツの町並みをまねた。

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 この道もドイツ的。

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小魚山公園は有料である。

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 手前はドイツふうの町並み。向こうは高層ビルが建ち並ぶ。

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 日本が占領したとき、水族館を造ったという。半分隠れてそっと顔を出しているのが日本的(^_^)。

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 けさ散歩した海岸。

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 信号山公園。詳しいことは忘れてしまったが、歴史がある。

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 小魚山公園を下ると、道路工事をしていた。その発電機。重慶の会社が製作したようだが。

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 海岸に出て大桟橋を見る。バスは込んでいて入れず、少し離れたところで降りて歩く。

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 青島を占領しようとする軍は必ずこの桟橋から上陸するとか。

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 青島の名前のもとになったという青い島。本当かどうかは……。
 写真を撮っただけで終わってしまった。バスに戻り、これから青島ビール工場へ。
 途中で大渋滞に巻き込まれた。交差点で身動きがとれなくなってしまったのだ。駐車している車があって車線が狭くなっているのに、あとから来た自動車がなんと反対車線に入り込む。あちこちの車の運転手が出てきて、交通整理に当たる。パズルを解くような車の移動だった。

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 有名な青島ビールの工場見学。
 王さん曰く、
「水がうまくないと、ビールもうまくない。今は雨期なのでここの水が一番うまいとき。この工場以外で造られた青島ビールは、名前は青島ビールでもうまくない」
 青島では、一年の降雨量の半分はこの2ヶ月に降る。

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 庭の様子

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 博物館に入る。昔の工場設備の見学である。

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 世界中のビールだ。

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 文字通りの生ビール。

 さてビール工場をあとにして、空港に向かおうとしたら、ここでもまた渋滞、道路に駐車しているバスがあって…、とにかく反対車線に入ってくる車は困りもの。運転手も焦っているようだった。
 空港に着いたときの余裕は約1時間。ぎりぎりセーフといったところ。旅行社から事情を連絡してくれていたので、到着と同時に私たちのためにカウンターを開いた。
 成田行きは30分ほど遅れた。その分空港内で余裕が出来た。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月22日

岱廟(たいびょう)

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 10
岱廟(たいびょう)

 8月22日(月)の午後は、泰山の南の泰安市にある岱廟(たいびょう)見学である。
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 泰山を祀る廟である。泰山の別名を岱山といったので岱廟となった。
 中国の三大宮殿の一つといわれる。あらためて言うと、北京の紫禁城と至聖廟と岱廟である。
 前回にも書いたようにカメラの電池が切れたので、自分の写真はない。写真がないと思い出せないものだ。他の人の写真が手に入ったので、紹介する。

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 何陽街を城壁に沿って正陽門に向かって歩く。

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 岱廟の城壁の高さは10メートルほど。

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 正陽門の前には岱廟坊がある。

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 正陽門から入る。

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 最初に見える建物は配天門。

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 宣和重修泰岳廟記碑
 宣和年間の岱廟の修復作業の様子が記されている。

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 漢柏
 説明に、別名「連理柏」と言い、「水経注」に「漢武帝が定植したものなり」と記載されており、2100年以上の樹齢があると言われています。
 とある。

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 これも乾隆帝が書いた漢柏に関する石碑。

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 北宋時代の書道家米芾の石碑「第一山」

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 多くの碑文がある。
 李斯の碑文があるのにびっくりした。ただし残っているのは10文字だけ。始皇帝の時代である。
 本来は泰山山頂にあったものを移した。

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 東御座
 岱廟は歴代の皇帝が、泰山を訪問した折に立ち寄る、行宮としても使われた。
 乾隆帝も泰山に登るときはいつも、岱廟にお参りして、数日泊まっていく。泰山に登ること6回、東御座は8回使用した。

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 中心となる天貺殿は工事中。中には入れた。

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 銅亭
 全体が銅でできている。1615年に鋳造された。

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 後ろの門。「厚載門」のはずだが上の地図では「后宰門」と読める。
 この門を出ると、まっすぐ泰山の登り口に至る。

 岱廟は、南北約520メートル、東西約230メートル、至聖廟より少し小さい。
 ある場所でガイドの王さんが、「これも……あの人が…、」これだけで笑い声が上がる。
「皇帝をあの人なんて言ってはいけませんね」
 つまり乾隆帝が…である。結局、乾隆帝の足跡をたどる旅になってしまった。
 王さんは説明するとき、キシュウとかゲンシュウとかいう。とっさに誰だか判らなかった。
 岱廟をダイビョウと言ったとき、岡崎先生が注意というか、訂正を言った。
「岱廟は日本ではふつうタイビョウといいます。ダイビョウでは判りません」
 又、
「キシュウやゲンシュウもシュウではなくてソウと読みます。だからキソウ・ゲンソウといいます」
 徽宗・玄宗のことである。岡崎先生はこういう意味のことを言ったのだ。それでわたしはその前の説明の意味が通じた。

 この名の読み方は微妙な問題がある。日本語ではどう読むかは習慣に近いだろう。中国語でも現代語と、当時の読み方とでは違う。また地方によっても違うだろう。
 隋に煬帝という皇帝がいた。普通に読めばヨウテイであるが習慣的にヨウダイと読む。ダイと読まれるのはこの皇帝一人だけだ。辞書もそうしているが、ある研究者が「日本だけの習慣で何の根拠もない。ヨウテイでよい」と書いていた。

「7 水滸影視城」のところで、「済水(せいすい)」と書いたが、ウィキでは「さいすい」と仮名を振っている。「さいすい」という読み方は初めて見た。
 天龍八部の第一巻P92に、段誉が、「字は和誉」と言うが、「かよ」と仮名を振っている。これは小説の主人公なのでどうでもいいが、いつも「わよ」と読んでしまう。
 その他でも仮名を振るのが少し怖くなる。

 一時間ほどで見学を終えて、バスで高速鉄道の駅まで行く。

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 まるで在来線のような雰囲気の泰安駅ホーム。

 泰安発 16:35
 青島についたのは19:55
 15分ほど遅れている。窓外の景色は田園地帯が続く。見渡す限りハウス栽培の所もあった。はじめに書いたように、この辺りは華北の食料庫だ。7月8月しか雨が降らないので(たとえば青島では、一年の雨量の半分がこの二ヶ月に降る)、みな雨の降ることを願っている。私たちの行く先々が晴れていたのは例外的で、前後で豪雨のニュースがあった。
 そのことが判ってみると、黄河の水が途中で少なくなり、海まで達しないことがあっても納得できる。
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2016年09月20日

泰山

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 9
泰山

8月22日(月)
 世界遺産の東岳・泰山といえば名前は有名だが、案外どこにあるか知られていない。
 意外に低く、海抜1545メートル。単独の山ではなく山塊である。
 歴代の皇帝が、封禅の儀式を行ったことで有名な山である。
 ネットで地図など参照しているのだが、どこからどう行ったのか、なかなか判らない。
 アースでは、日本では歩道を歩いている人さえ特定できるほどなのに、中国では道さえはっきりしないのだ。
 その麓の町泰安市からバスで出発する。
 
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 ホテルから見える泰山。

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 バスは左に回り、桃花源つまり裏側から登る形。

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 50分で泰山桃花峪游人中心につき、そこでシャトルバスに乗り換え。

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 桃花源に行き、さらにロープウェイに乗る。
 荷物専用のロープウェイもあった。

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 10時頃に山頂駅に着く。
 そこから少し歩くと南天門だ。

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 南天門、泰山の写真では、下からこの門までの長い階段がよく使われている。
 私たちは中から外へ出て、また中に入る。

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 この上は商店街となっている。天街という。

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 天街は結構広い。それだけ大勢の観光客が訪れることを示す。

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 上の地図でも判るように、泰山は3路線のロープウェイがある。私たちは桃花源の路線を利用した。これは南からの路線。

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 天池
 幅1メートル長さ10メートルほどの小さな池、水は涸れていた。昔は広かっただろう。ここで発見されたという金色の魚(赤鱗魚か)がいた。高地でしか生られない。もちろん今では養殖している。

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 昨日の夕食で、唐揚げを食べた。 

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 五嶽の説明。

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 いよいよ最後の急登

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 登って内側から門を見る。これも身過ぎ世過ぎのため。

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 碧霞祠
 ここは碧霞元君などを祀っているが、乾隆帝の命により、取り壊して新たな祠にすることになった。ところが惜しむ声があり、乾隆帝はその声を受け入れて、祠を幕で覆い、この祠の前に新たな祠を建てて済ますことになった。二重に祠がある。

 また少し登る。

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 紀泰山銘碑
 碧霞祠の斜め後ろにある。いろいろな時代の書である。
 右端の金色の字は、玄宗皇帝の字である。玄宗皇帝は以前に書かれていた字を消して、自書を彫らせた。よく見ると古い文字が薄く見える。貴重な資料だったのに。

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 玉皇頂に着いた。

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 廟の建設前はこの無字碑が山頂より高かった。

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 玉皇廟、玉皇大帝の像が奉られている。

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 あちこちで見る愛の誓い。重さで崩れても有効なんだろうか?

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 仏教の尼さんらしき団体も来ている。未成年者と思える人も。昨晩は私たちと同じホテルに泊まった人たちだ。食事の仕方が仏教徒らしいと思った。
 ここは道教の聖地だが、近辺には仏教寺院もある。

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 となりの峰。東からのロープウェイがこの先ではないか。

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 下界の人家や道路が見える。

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 紅墻内を一週する。ガイドの王さんが、これだけ天気のよいのは珍しい、と言っていた。
 雲の様子から数時間で雨になるだろうと。

 ここでカメラの電池が切れてしまった。
 ここからは下山である。登りの逆コースだ。ロープウェイがなぜか遅い。登りと下りでは速さが違うのだ。
 どんな仕組みなんだろう。ガイドの王さんもはじめはびっくりして、ロープウェイの会社に確認したところ、本当に下りは遅かったと言う。
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2016年09月15日

水泊梁山

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 8
水泊梁山

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8月21日(日)
 水滸影視城を見学して昼食後、水滸影視城に戻らず、別な撮影所である水泊梁山に行くことになった。直線距離で二十キロほど。一時間以上かかって、水泊梁山に到着。
 ここも古い水滸伝のドラマ撮影所であった。ただしそのドラマは不評であったという。
 この梁山は梁山泊のあったところとされている。旅行当初は予定になかったが、時間が余ったので行くことになった。

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 梁山塞門
 ここは撮影所というより撮影場所といった方が判りやすい。
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 水滸伝の作者施耐庵像だが、羅貫中説もあり、作者は特定できない。

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わかりにくいが参考図
左下の梁山塞門から、右上の赤い丸印まで往復した。

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 いきなり階段登り。

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 ここで一息。せっかくの遺跡をこうして汚して、いや飾ってしまうのが中国流。ここでも乾隆帝のなんとか。

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 断金亭、屋根のある四阿である。そこには講釈士がいた。まるっきり無視した母子。
 演目は判らない。断金亭は、林冲が晁蓋とあって、好漢の仲間入りをしたところ。

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 向かいの山も険しそう。

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 ここで一休み。店には入らず。

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 道は整備されている。ここを登れば最初の頂上。

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 黒旋風の李逵(りき)、何をしているのか。居るだけでいいのかな(^_^)。

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 琴を奏でる風流人も。

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 ようやく忠義堂に到着、標高200メートル差の山登りだが、一時間近くかかった。

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 忠義堂の中。英雄女侠の椅子がずらりと並んでいる。

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 以下、忠義堂のうしろの高みから。

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 梁山の南にある池、グー地図にないがアースでははっきり見える。
 横1.5キロほど

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 忠義堂の前でショーをやっていたが、おもしろみに欠ける。

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 ここに老婆が来て、椅子を持ってきた男が声をかけると、前の男たちが場所を空けた。この日、一番感動したシーンだった。
 大理では一番前の人たちが日傘を広げてうしろの人の目を塞いだものだ。

 17:15 泰安に向かって出発した。予定していた道が工事中で迂回することになった。運転手もスマホをナビにして道を探す。2時間くらいの予定が、3時間半かかった。

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 途中にあった仏教寺院。かなり格のある寺らしい。
 午後9時近くホテル到着。
 慌ただしかったので、カメラの充電を忘れてしまった。
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2016年09月12日

水滸影視城

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 7
水滸影視城

 8月21日(日)バスで水滸伝の撮影所、東平に向かう。
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 バスの窓外は、このような景色がいつまでも続く。一時間半ほどで、水滸影視城につく。
 10時頃から水滸影視城を見学する。

 大河ドラマを作ろうとすると、こうして撮影所づくりから始める。ここで作られたドラマが、2011年作成の 水滸伝 だ。
     兄弟無数
   ♪兄弟壹貳参肆伍
   ♪兄弟個拾百千万
   ♪兄弟が出会えば三椀の酒
   ♪兄弟と語れば二杯の茶


 その後は他のドラマでも使われているはずだが、全体の熱気はいまひとつかな。まあ暑い盛りでもある。

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 この門から入ってガイドを待つ。
 水滸は水のほとりの意味、そこは鉅野沢(きょやたく)といい、湿地帯であったはず。周囲八百里といわれている。約400キロだ。細長い琵琶湖が約240キロ、面積では琵琶湖の10倍はありそうだ。
 1128年に黄河は山東半島の南側に流れを変えた。そのため、鉅野沢はほとんど干上がってしまった。
 1855年に黄河の河道が山東半島の北側に変わり、この近くを流れるようになった。現在は少し恢復した。
 済水(せいすい)は独自の大河であったが、1855年に黄河の下流になった。だから現在の地図にはない。

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 正門の入り口。左に万寿門がありそこが出口になる。

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 右上が出入り口、左の外側が東平湖。水滸影視城はかなり広いが、中央の大通りの下側が主な観光地。
 見たのは(見るところは)全体の4分の一くらいか。
 ガイドの王さんが訊いた。「一番の人気者は誰だと思いますか」
 2番目くらいに「武松」の名が上がった。
「武松です。そのためここでは武松の一画が一番広くて充実しています」
 逆に不人気なのは、呉用だという、「呉用(wu yong)は無用(wu yong)だ」と言われていると。

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 当時の図。左下の鄆城(うんじょう)が宋江のいたところ。

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 門を入ると両側は広場で道にはマニアックな武器が並ぶ。

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 この辺りは東平府といった。

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 立派な門だが、中には入らない。広い撮影所だが、こうして誰も見学していないところが多く、見学する所は狭い。

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 宋代の戦車、中に人が入って押した。使い勝手はどうだろう。

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 これは自然の岩。

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 文明鎮に入る。
 この二階の真ん中の部屋で、武松が西門慶と潘金蓮を殺し、兄武大郎の仇を討った。
 潘金蓮は前回紹介した「女子読み水滸伝」の語り手。

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 武大郎(武松の兄)の家。潘金蓮と暮らしていた。そこに武松が同居することになった。

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 武大郎の家の一階、虎は武松が殺したが、皮は持ってこなかったはず(^_^)。
 二階は別料金だったので上がらなかった。

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 この二階の小道側の出窓から、潘金蓮が顔を出したところを西門慶に見られたのが、不倫のきっかけ。

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 王婆茶館から大通りの斜め向かいに武大郎の家があった。
 王婆茶館に金持ちの西門慶が来て、王婆が潘金蓮を呼び出す。名目は仕立てだった。
 王婆にとっても、滅多にない金儲けの機会だっただろう。

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 王婆茶館で茶を飲みながら講釈を聞く。語っているのは宋江の閻婆惜(えんばしゃく)殺しらしい。
 両手に鳴り物を持っている。

 出口方向へ向かうと小さな人だかり。

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 武大郎の炊餅売り。餅ではなく、小麦粉(あるいは米粉)を薄く引いて焼いたものらしい。

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 状元糕の作成現場。糯米に落花生を混ぜて搗いている。

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 宋代にもうこんな大砲があった。

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 土産物屋である。一階を見て二階に上がろうとしたら、向こうで撮影中だという。

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 撮影現場に遭遇。古衣装の女が歩くところを数回繰り返していた。
 一シーンが終わって、土産物屋の二階に行って二階の窓から見たら、次のシーンの準備中だった。
 これもアトラクションの一部ではなかろうか、という意見も。

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 雰囲気のある建物だが、見学者はいない。

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 まもなくここでショーが行われる。

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 ぼてふり(棒手振り)武大郎がここに荷物を置いて、ひとしきり商売をしてから、いなくなる。

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 李員外招親
 ショーの名前。員外とは金持ちに等しい。本来の意味は定員外の役人だが、無役なので給与はない。それなのに金持ちはこの地位を買った。理由は、役人になると税金を払わなくてよいからである。故に金持ちの意味で使われることがほとんど。
 招親はここでは婿選び。お嬢さんが鞠を投げ、それを受け取った者が婿になる。

 このお嬢さんはぽんと鞠を投げてしまった。味も素っ気もない。
 大理では何度か投げるふりをして、客がどよめいたものだが。宋城では婿入りで、漫才をやり大勢の観客が笑い転げていた。
 ここでは観客の数も少ないが盛り上がりがない。熱気がいまひとつとは、こんな場面に思う。
 武大郎が左の端でショーの太鼓を叩いていた。

 青石巷から高みに上がり、東平湖を見る予定であったが、土手の上の民族園は入れなかった。

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 湖を見ようと西の端の城壁に登る。階段はかなり崩れていて、やや危険状態。

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 城壁の内側では何かのショーを行うようだが、今は誰もいない。

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 周囲八百里(約400キロ)といわれた鉅野沢(きょやたく)も、黄河の流れが変わり干上がってしまった。ようやくここまで恢復した。現在は直角三角形に近く、高さ17キロ、底辺が12キロ。長辺が20キロくらいか。
 この地方は7月8月しか雨が降らないため、水不足は深刻である。

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 昼食時なので、大通りはほとんど人がいない。

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 最後に道観を見る。少し遅いが昼食の時間だ。万寿門から出た。
posted by たくせん(謫仙) at 08:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする