錦綉未央
日本名 (王女未央BIOU)
2018年01月06日 記
2020年07月23日 改訂
このドラマは武侠ではなく、時代劇である。全54回。
だだし第一回目をはじめ、時々武侠場面がある。空中浮揚あり、空を飛ぶシーンがある。それゆえ武侠に分類する。
中国の南北朝時代の北朝の物語である。北涼(439年に亡国)の王女であった馮心児(ふう・しんじ)が、行き倒れていたところ、李未央(り・びおう)に助けられる。
李未央は同家の李敏峰の放った暗殺者に殺されてしまう。
馮心児は李未央の仇討ちのため、さらに叱雲南(しつうん・なん)に一族を殺された復讐を果たすため、旧敵国の宮廷へ、有力者の李家へ李未央になりすまして入る。
李敏峰を除くことに成功。李家の力が弱まったあたりで、叱雲家(李家当主の妻の実家)の南が登場、これこそ目指す北涼の仇だった。だが南の後ろには真の仇がいた。
第30回あたりで、李未央の正体をかなりの人が知るようになる。
皇帝家拓跋(たくばつ)氏の次代を巡る争い。さらに未央(馮心児)も含む李家の娘たちを巻き込んだ愛憎劇。それらの問題を克服して、馮心児は皇后の座を勝ち取っていく宮廷歴史ドラマ。
北魏は拓跋(たくばつ)氏の国である。名から判るように塞外民族である。
北涼が滅びるところから物語は始まる。
はじめに事故で多くの天灯(灯籠)が浮かび上がってしまうシーンがある。馮心児はそれを捕ろうと二階ほどの高さまで飛び上がり、さらに横に動いたりする。空中浮揚だ。
わたしは「武侠ドラマ」とは、武侠の本来の意味に加えて、時代SFでもあると思っている。エスパーの超能力の戦いだ。だから馮心児は、空中を飛ぶことができるエスパーと思った。こういう設定の武侠物かと思っていたら、後は普通のドラマだった。そんな能力があるなら、いくつかの危機は乗り越えられたはず。
同じように能力者が多く、これはエスパーだという場面も多いが、武闘場面を強調しただけで、話の本筋を変えるほどではない。
さらにいえば、武侠物の戦いのシーンは、迫力があってもあまり興味は無い。なぜ戦いになったのか。避けられなかったのか。結果はどうなったのか。それが後にどんな影響を及ぼすのか。それらのことに関心がある。
特に、能力と行動に矛盾はないか。例えば30メートル跳べる人が、肝心なところで10メートルを跳べない、などということはないか。場面によって設定を変えていないかは気にする。
未央の読みだが、中国語ではwèi yāng (wei4 yang1)しか出てこない。どうして「BIOUびおう」となったのだろう。
「びおうさま」もほとんどは「小姐xiao3 jie3」であり、「未央殿」は「未央姑娘wei4 yang1 gu1 niáng2」であり、biouは出てこない。未を「び」と読む例を探したら未央柳(ビヨウやなぎ、ビオウではなくビヨウ)の例があった。美容柳のこと。(もっとも美容柳は別名で未央柳が本名)未央柳は「柳」までそろってはじめてビヨウと読めるのではないか。
(このことについて下のコメントを見てください。未央をビオウと読む例が古くからありました。昔はそう読んだのか。漢和大字典では例外的に「未央」の場合だけ「ビ」と読む例が例が載っています)
それからいつも桜(のような花)が満開で、銀杏(のような葉が)が紅葉(黄色です)しているのが気に掛かる。
439年に北涼が滅んで、この頃から南北朝時代(439−589)になる。
北朝は鮮卑拓跋部の魏(北魏)が386年−534年。
このドラマの時代は第三代の世祖太武帝(拓跋Z(とう)、在位423−452)の時代である。
太武帝は華北を統一した。北涼が滅んだのもこのとき。
初代太祖道武帝、二代太宗明元帝につづき、三代目になる。
第三代太武帝の孫の拓跋濬(しゅん、第四代文成帝、在位452−465)と未央の出会いから、複雑ないきさつをえて文成帝が即位するまでの物語。(第五代献文帝の即位までもあるが)
未央が「濬」を筆で書くとき、「浚」と書く。これは代用する習慣があったか。ただし勅令などは「濬」を使っている。
歴史では、南安隠王(拓跋余、在位:452)が第4代であるが、在位は1年に満たず、帝号はない。だから、拓跋濬(在位452−465)は第5代であるが第四代文成帝とされる。
創作された物語なので、歴史として引用するときは注意が必要。もっとも歴史も「勝者が自分の思うように書く」ので正しいわけではない。
すでに亡くなっていた濬の父は景穆帝と追号されているが、代数には入らない。
物語の後、文成帝の没後に第五代献文帝が即位し、未央(馮心児ふう・しんじ)は馮太后と呼ばれることになる。
献文帝(在位465−471)は幼帝であったので、母(義母)の馮太后に実権があった。なお、馮太后が献文帝を毒殺したという。
いろいろ調べていると、死の順序や各皇子の性格など、この物語とはかなり様相が異なる。この当時南朝は宋であるが、趙匡胤の宋とは違うので注意。
撮影場所は横店の秦王宮(撮影所)が使われている。
太極殿や、脇の渡り廊下が盛り上がった場所など何度も出てくる。
この物見櫓のような建物も特徴がある。
参考
南北朝時代
posted by たくせん(謫仙) at 10:03|
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