2020年03月02日

瓔珞(エイラク)

瓔珞(エイラク)〜紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃〜
原題 延禧攻略  全70話(2018)

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 清朝乾隆帝の時代。後宮では陰謀が渦巻いていた。ほとんどの話は創作と思われるが、どこまで本当か気になってしまう。なお王妃ではなく皇妃である。

 皇后は富察(フチャ)氏であるが、子を亡くして失意の底にあり、高貴妃(こうきひ)が寵愛されていた。寵愛を受けると、事実上の権力も移る。問題は女官の生殺与奪の権力まであることだ。理由は適当でよい。まるで戦国時代だ。
 ここに新米の女官として魏瓔珞(ぎえいらく)が入ってくる。亡くなった姉の死の原因を探る。その間にいろいろといじめを受けるが、常にそれを上回る知略で、相手を追い詰めていく逆転劇が痛快である。
 倍返しだとは言わないが、女性版“半沢直樹”だ。
 高貴妃や皇后など、高位の女性が次々と陰謀で死んでいく。多くの女官の死はペットの死と同じで、問題にもならない。清の最盛期の乾隆帝の時代なのに、後宮はけっこうお粗末。
 魏瓔珞のモデルは魏佳氏の令皇貴妃で、名は不明。没後、子の永琰が皇太子に立てられたことで孝儀(純)皇后と追贈された。四子二女とこどもに恵まれる。
   貴人→嬪→妃→貴妃→皇貴妃
 皇后富察(フチャ)氏の女官になる。魏佳氏が貴人→嬪になってから皇后富察氏は亡くなるが、この物語では富察氏の死後に嬪になる。

 悪辣な継皇后ホイファナラ氏(輝発那拉氏)をどう追い詰めるか、が興味の中心になっている。史実では継皇后ホイファナラ氏は後に廃される。原因は不詳。

 一時、順嬪が登場して、問題を起こし、それを皇后が利用するが、苦心の末解決する。そして自身は身ごもる。そして皇后と休戦協定を結ぶ。
 皇后は人を巧みにそそのかすが、決して自らは手を下さないため、10年以上にわたって後宮は平和を維持することになる。
 十五男:永琰(嘉慶帝)も生まれ、この頃が「還珠格格」の物語の時代に重なる。

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 乾隆帝の出自は海寧の銭家であるという、そんな俗説がある。金庸小説では、海寧の陳家としている。
  参考 塩官と陳家

 この乾隆帝は一応名君と言われている。しかしこの話の後宮といい、失敗を重ねた遠征も成功と宣伝したり(十全武功)、また、和珅(わこんヘシェン)という貪官を重用したり、けっこう問題も多い。
 嘉慶帝が後を継ぐと和珅の罪を追及した。没収した財産は国家の歳入の十年分以上だったという。これだけ賄賂をむさぼる役人は空前絶後であろう。乾隆帝の時代はそんな問題の多い時代である。
 乾隆帝の浪費がたたって(?)、清は衰退に向かう。

   魏佳氏(ウェイギャ氏) 略歴
雍正 5年(1727)魏佳氏出生、乾隆帝16歳。
乾隆10年(1745)正月23日魏貴人となる。11月17日令嬪となる。
  乾隆13年 3月11日、富察皇后死去。
乾隆13年(1748)5月、令妃となる。
乾隆22年(1757)正月、南巡に同行。
乾隆24年(1759)11月20日、令貴妃となる。
乾隆25年(1760)10月6日、令貴妃は皇十五子の永琰(えいえん)出生。後の嘉慶帝である。
乾隆27年(1762)正月、南巡に同行。
乾隆30年(1765)正月15日,南巡に同行。5月10日,皇貴妃となる。
  乾隆30年 継皇后ホイファナラ氏(輝発那拉氏)江南で皇帝の怒りを買う。
  乾隆31年 継皇后 死去。
乾隆36年(1771)2月、泰山及曲阜に同行。
乾隆38年(1773)冬至,13歳の永琰が皇太子になる。ただし清朝では発表しない。
乾隆40年(1775)正月29日、死去、49歳。10月26日,金棺奉安裕陵。
乾隆60年(1795)9月3日、永琰を皇太子とし(発表か)、母の魏佳氏は孝儀純皇后に追封される。
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2020年02月24日

紫禁城 後宮見取り図

瓔珞(エイラク)のための紫禁城の後宮見取り図

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1 養心殿 乾隆帝
2 慈寧宮 (康煕帝時代の皇太后宮)
9 寿康宮 皇太后
3 長春宮 孝賢純皇后 富察氏(フチャ)
4 延禧宮 令皇貴妃 魏佳氏(ウェイギャ)(ドラマでは瓔珞(エイラク))
5 儲秀宮 慧賢皇貴妃 高佳氏(ガオギャ)(ドラマでは高貴妃)
6 承乾宮 嫻妃→継皇后 輝発那拉氏(ホイファナラ)
7 永和宮 怡嬪 自害(第2回)
      愉貴妃 珂里葉特氏(ケリェテ)
8 鐘粋宮 純恵皇貴妃 蘇氏
10 麗景軒 順嬪 今は亡き高貴妃の儲秀宮のうしろ

5と8の上にも細かく建物があるが、省略している。
11 還珠格格の漱芳斎はこのあたり。別な話だが参考のため。
posted by たくせん(謫仙) at 16:22| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月31日

唐磚

唐磚(とうせん)
日本名 大唐見聞録 −皇国への使者−

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 タイムスリップもの。
 発掘調査に救護班として参加していた雲不器が穴に落ちて、その先は唐の時代だった。
 背中のリュックは救急セットが入っている。リュックは墓標の側に埋めて砂漠の中を歩き出す。

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 砂の砂漠の中の一軒家って、そんなところに家があるのか。庭には大木が一本。砂漠に育つか。ともかくそこに入って二人の男に襲われたのを、若い女、李安瀾に助けられる。この娘は太宗の知られていない長女だった。お定まりで恋仲になる。そこには水や燃料がある。どこから持ってきたのだ。
 そこに、唐太宗の太子たちの軍が入ってきた。
 製塩して喜ばれ、点滴の要領で輸血して太子を助ける。救護班だから注射器など持っていたのだろう。一応血液型チエックなどはする。
 雲不器はすんなり唐太宗の時代に溶け込んで、太宗に重用される。

 バッタの害に、バッタを食用にすることで対処する。わずかを食用にしたくらいで、どうにもなるものでもないのに。
 食糧不足の軍にインスタントラーメンを提供する。何らかの方法で現代と交易ができたのかと思ったら、そうではない。では、そんなに大量のインスタントラーメンをどうやって作ったのか、その材料はどこから? 食料が不足して困っているのだ。材料の小麦粉があれば、食糧不足にはならない。
 そんな風にあちこちに矛盾がある。舞台設定のタイムスリップや言葉が通じるのは仕方ないとして、それ以外の普通の部分は矛盾してはいけない。トンデモ化してしまうではないか。ところがこのドラマではそこがおもしろい。
 コミック化しているが、このドラマの底には玄武門の変がある。太宗が兄と弟を殺し、父の初代皇帝を隠居させたクーデター事件だ。それを知っている太子も同じことを考える。そして失敗する。だから結構重さがある。影がある。
 李安瀾は玄武門の変で母親を殺された。殺したのは誰か。これがこの物語の中心となる謎だ。
 最後は重臣の侯君集が太子を担いでクーデターをおこす。それを雲不器の奇策で防ぐ。そして雲不器は死んだと思われる。ところがはじめの、あの現代の穴の底に、無傷で帰っていた。夢を見ていたような形だ。周りの古物には唐代に自分で使用した想い出の品がある。

 問題点が多く、タイムスリップの諸問題を克服したとはいえない。だからコミックになってしまう。インフラの不備・言葉・文字(篆書体)・衣食住の貧しさなど、タイムスリップものは、それらの問題の解決がついてまわるのだ。
posted by たくせん(謫仙) at 08:08| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月24日

蘭陵王妃

ドラマ 蘭陵王妃
日本名 王と皇帝に愛された女

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 あの有名な北斉の蘭陵王の妃だが、これは実話か。つまりモデルがいたのか。

 北斉の端木怜(たんもく・れい)は、始皇帝の時代に“天羅地宮(てんらちきゅう)”を建立した端木吉(たんもく・きつ)の血を継ぐ末裔。始皇帝による天下統一の秘密が隠されたこの建物への入宮には、三種の神器の1つ“鎮魂珠(ちんこんじゅ)”が必要だった。
 これを探りに北周の宇文邕(うぶん・よう)に嫁ぐが、事故で記憶を失ってしまう。
 この俳優は演技はうまいとはいえない。舞は本格的だった。調べたら歌手だった。物語もあり得ない設定が多い。端木怜が北周の都から北斉へ行こうとするが、荷物もなく、ひらひらの衣装で、ひとりで山道を歩いている。いったい何日かかると思っているのだろう。
 かというと、戦いの場面はけっこう迫力がある。
 初めの数回をみて、おもしろくないなと、最後を見たら意外な展開なので、中も見ることにした。
 わたしが注目したのは、宇文護が明帝を殺すがどうやったのか。宇文護はどうして自分が皇帝にならず宇文邕を武帝にしたのか。武帝は12年間耐えて、宇文護を誅殺するがそのいきさつはどうだったのか。

 念のため、北周の年代を書いておく。
556年−557年 孝閔帝 1年
557年−560年 明帝 3年
560年−578年 武帝 18年
572年       宇文護 誅殺

 573年 蘭陵王死す
 577年 北斉滅ぶ
578年−579年 宣帝 1年
579年−581年 静帝 2年


 ところが、なんと武帝が即位してまもなくの宴会をきっかけに、武帝宇文邕と宇文護が争い、宇文護が死ぬことになる。この戦いは、双方が準備して仕掛けた。12年間をパスしたのだ。ここは時間経過が曖昧。皇帝に擁立してくれた礼を改めて12年後に行った。という解釈もできる。この場合は端木怜の年齢が問題になりそうだ。

 天羅地宮の設定などおもしろいアイディアと思ったが、肩すかしをくらう。天羅地宮のからくり仕掛けはびっくりするが、中身はくだらない。「始皇帝による天下統一の秘密」などという大げさなものではない。
posted by たくせん(謫仙) at 16:39| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月04日

大玉児伝奇

大玉児伝奇 邦題/皇后の記

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 大清建国の物語である。そして中心となるのは摂政王ドルゴンである。
 ドルゴンは初代ヌルハチの息子であった。
 ドルゴンは恋人玉児との仲を裂かれ、玉児はホンタイジに嫁す。ホンタイジの死後、ドルゴンは、ホンタイジと玉児の息子フリンの後見として、一生を玉児のために捧げてしまう。それでも晩年(三十代後半)は暴君に近い。
 仲を裂かれたとき、ドルゴン数え十四歳、玉児は数え十三歳。現実感が薄い。その前に数え十四歳のドルゴンが、現代なら小学生か中学生かという歳で、戦場で兄を助けて大活躍。否定できる材料は持っていないが、これも伝奇かな。

 ヌルハチ、ホンタイジ、ドルゴンと優れた人材がいたが、多くの人は他民族統治の意味が理解出来ない。ドルゴンの兄弟たちは、草原でトップを争った意識を、北京まで持ってきていて、隙あらばクーデターを起こしてドルゴンを皇帝にしようとする。そうしてあちこちでドルゴンの足を引っ張る。
 また、本来なら皇太子ような位置にいるはずのホーゲさえ、漢土への進出を、盗賊が荒らしに来た程度にしか考えていない。民家に優れた物があれば、当然のごとく没収する。そのために漢土を征服したと思っている。
 いくら玉児やドルゴンたちが、国家経営の構想を描いても、実力者が国家家経営の意味を理解出来ず、略奪を繰り返す。それが自分の権利だと思っているのだ。それが統治の足を引っ張る。
 そんななかで、なんとか建国し、ドルゴンは死に、三代皇帝フリンに引き継ぐ。全50回のドラマで、ここまで46回。
 それから康煕帝の成長までが、玉児(孝荘文皇后)の出番なのだが、皇帝フリンの成長まで3回。最後の1回はフリンの出家と康煕帝即位で終わる。
 ちょっと物足りない。

 ところで玉児の名だが、どうもしっくりしない。漢語で玉児の読みがyùér (ユアル)なのだ。名はブムブタイ(布木布泰)。玉児の名はどこから?
 ヌルハチ(努爾哈赤)、ホンタイジ(皇太極)、フリン(福臨)、ドルゴン(多爾袞)など、みな清建国前の満州語なのだ。
 玉児の名に限らず、多くのことが、史実から外れているように思える。創作部分が多いと思える。
 フリンの董鄂妃は江南地方育ちである。弟の嫁を奪った。そのため弟は自殺してしまう。この辺りは、きれい事で済ますことはしていない。
 前に紹介した 多情江山 とはあまりに違いすぎる。
 多情江山よりはかなり史実に近そうだ。そうはいっても、これは大玉児伝奇の題の通り、伝奇として見るべきだろう。

 玉児役の俳優「景甜」は、中国一の美人だという。個人的な感想だが、あまりに顎が細く、人形のようだ。
 かなり前、数代先の人相として、柔らかいものばかり食べているので、顎の発達がなく、細くなるというSF的な予想があった。その見本の顔がすでに実現していた。
 また玉児をはじめ一部の女性たちの顔は、白塗りで血色が全く無く、不気味である。そんな化粧が当時の化粧法だったのだろうか。あるいは撮影当時のはやりの化粧法だったのか。白塗りは全編ではなく、一部分では少し血色があるにしても。
 
   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

孝荘文皇后
年号と西暦では一ヶ月以上のずれがあるので、差が生じることがある。年齢は数え年てある。
1613年     出生
1625年13歳 ホンタイジの側室となる。
1638年26歳 フリン(順治帝)を出産
1643年31歳 ホンタイジ死去
          順治帝即位6歳 ドルゴン摂政
1650年38歳 ドルゴン39歳死去
1651年    順治帝13歳 親政
1656年     順治帝18歳 最愛の満州族の董鄂氏入宮。
         董鄂氏はドラマでは漢族 江南の人
1660年    董鄂氏第四皇子出産、第四皇子と董鄂氏死去
1661年49歳 順治帝24歳死去
 (ドラマでは第四皇子出産、続いて第四皇子と董鄂氏死去、順治帝出家)
         康煕帝即位
1688年75歳 死去
posted by たくせん(謫仙) at 11:53| Comment(4) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年07月28日

木府風雲

木府風雲
   絢爛たる一族 〜華と乱〜

 面白いドラマだった。武侠ではないがこちらにする。2012年作。
 武侠ではないとは、たとえば定番の空中浮揚が出てこないなど。

 世界遺産となった雲南の麗江を舞台にした物語である。木府はその地の支配者の住む、そして政治の中心となる所だ。現在そこに木府が再建され、わたしは旅行で行ったことがある。
 金庸小説では「沐府」の名で出てくる。

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 わたしは初め風伝(ふうでん)と読んでしまった。(^_^)
 安倍首相が、云々(うんぬん)を「でんでん」と読んだのを嗤えません。

 時代は明代末期。
 主人公の阿勒邱(あろくきゅう)は、滅ぼされた一族の復讐のため、叔父と言う西和によって、幼いとき木府に送り込まれ、侍女として住み着く。西和の目的は木府を滅ぼすことだが、しかし、阿勒邱は善良で賢く、木府を滅ぼそうとは思っていない。西和の陰謀に巻き込まれただけだ。
 少し猫背のせいか、常に頭を低くして畏まっているイメージだ。歩くときも前屈み。そして権力者に囲まれて、怯えたように緊張している。この微妙な表情がうまい。もちろん緊張が解けた時は表情が違う。
 大勢のエキストラは、地元の人たちのいつもの生活をそのまま利用しているようで、(四方街の)ダンスのシーンなど、麗江のいつものシーンそのままだ。服装は今も着ている民族衣装だ。そのままではなく昔風に変えていると思うが。
 そして麗江は水の都。至る所にきれいな水が流れていて、そのまま上水として使えるほど。わたしは食器を洗っているのを見たことがある。撮影された橋や建物など、わたしも見たことのある場所が多い。
 清潔感のある、美しい石畳の町並みと玉龍雪山などの景色。
 山に囲まれているため、通る道は限られているので、城壁のいらない城市、それでも城門はある。
 洪武帝に木氏が土司に任じられて以来、木府も少しづつ充実してきたが、このドラマの時代の明朝末期の建物は、再建された今の建物とはかなり違っていた。
 現在の木府などは再建と新建築によって、映画撮影所のようになっている。特に漢族文化を強調するあまり、あちこちを資料を無視して、漢族風建物に作っている。

 さて第4回、阿雄将軍の台詞
「土司こそ大活躍 先陣を切って多数の敵を葬りました」
おそらく「 屠りました」であろう。言葉は聞き取れないが、字幕なので「葬りました」が浮いてしまう。訳した人が言葉を間違えたのか、字幕を作った人のミスか。
 ナシ語で阿雄将軍が「葬りました」と言ったとは考えにくい。この翻訳の微妙な差は他にもある。
 ドラマの原文は漢語だが、本来「ナシ語」であるから、ナシ語を漢語に訳した形をとるだろう。そこには多少ナシ族の言葉の習慣が入るかもしれない。それを日本語に訳す。
「土司」という言葉。聞いていると「土司大人」と言っている。土司は漢人が地方に根付いた「司」を言った言葉。対する言葉は任地が転々と変わる「流官」(ウィキによる)。
 目下が「土司」と呼ぶのは違和感がある。「土司大人」なら違和感はない。だがナシ語ではどうか。
 門には「木王府」とある。明がこの文字を許したならば、木王様と呼ばなかったのだろうか。
 また「大明麗江府」という文字が途中で出てくる。大明麗江府が明の正式な名だったのか。

 ナシ族の婚姻は通い婚。すべて女性が取り仕切り、男では借金もできない女性社会。家の出入り口の近くの部屋は、若い女性の部屋なのだ。
 ドラマで町の商人を集めたとき、来たのは男性ばかりで、なんかすっきりしない。男性社会だ。こんな所にも漢族文化の地であったことを強調しているようだ。
 また、正妻と妾の関係など、漢族ならまだしも、ナシ族では信じがたい。
 名目最高権力者は土司だが、事実上は土司夫人が権力者だ。これはこのときの土司夫人が優れた人物だからであって、女性社会だからではないだろう。

 なんて細かいところを取り上げたが、話の展開はスピーディー。飽きさせない。いつも、どうなるのか、どう切り抜けるかと、はらはらのし通し。思わず阿勒邱(あろくきゅう)を応援してしまう。善良で賢いのだが、肝心なときに簡単にだまされる。だまされたふりをする策略と思っていると、だまされただけだった、なんてこともある。
 土司夫婦、その二人の息子夫婦、そのそれそれの息子(土司夫婦の孫、木増・木坤)に阿勒邱が混じる愛憎劇だが、木府の存続を賭けたスケールだ。
 木府は金鉱が主要な産業だが、金鉱を欲しがる山砦の主に、木増は交易権を与え、
「金鉱は枯れるが、交易は永遠につきぬ財源となる」と説く。
 第37回、さらに、木増に漢人(徐弘祖)がさとす。
 金鉱はいつかは必ず枯渇する。永遠に枯れないものとして、文化による繁栄こそ麗江を永遠に支える。
 そして木増の時代に、麗江は最も繁栄をした。
 土司夫妻とその幼い子供が、庶民と一緒に四方街で踊る姿は感動する。

♪ 伝説中有一片浄土  それは遙か昔の物語
  住着古老的民族   楽園に住む人々がいた
  毎箇人都能歌善舞  歌と踊りをこよなく愛し
  他們従来孤独    仲良く暮らしていた
  オーアイヨー アイヨー アイエー 

参考 雲南憧憬 9 麗江
   天龍八部の旅13 麗江古城
posted by たくせん(謫仙) at 17:51| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月27日

錦綉未央

錦綉未央
日本名 (王女未央BIOU)
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2018年01月06日 記
2018年12月27日 改訂
 
 このドラマは武侠ではなく、時代劇である。全54回。


 中国の南北朝時代の北朝の物語である。北涼(439年に亡国)の王女であった馮心児(ふう・しんじ)が、行き倒れていたところ、李未央(り・びおう)に助けられる。
 李未央は同家の李敏峰の放った暗殺者に殺されてしまう。
 馮心児は李未央の仇討ちのため、さらに叱雲南(しつうん・なん)に一族を殺された復讐を果たすため、旧敵国の宮廷へ、有力者の李家へ李未央になりすまして入る。
 李敏峰を除くことに成功。李家の力が弱まったあたりで、叱雲家(李家当主の妻の実家)の南が登場、これこそ目指す北涼の仇だった。だが南の後ろには真の仇がいた。
 第30回あたりで、李未央の正体をかなりの人が知るようになる。
 皇帝家拓跋(たくばつ)氏の次代を巡る争い。さらに未央(馮心児)も含む李家の娘たちを巻き込んだ愛憎劇。それらの問題を克服して、馮心児は皇后の座を勝ち取っていく宮廷歴史ドラマ。
 北魏は拓跋(たくばつ)氏の国である。名から判るように塞外民族である。

 北涼が滅びるところから物語は始まる。
 はじめに事故で多くの天灯(灯籠)が浮かび上がってしまうシーンがある。馮心児はそれを捕ろうと二階ほどの高さまで飛び上がり、さらに横に動いたりする。空中浮揚だ。
 わたしは「武侠ドラマ」とは、武侠小説の本来の意味に加えて、時代SFでもあると思っている。エスパーの超能力の戦いだ。だから馮心児は、空中を飛ぶことができるエスパーと思った。こういう設定の武侠物かと思っていたら、後は普通のドラマだった。同じように能力者が多く、これはエスパーだという場面も多いが、武闘場面を強調しただけで、話の本筋を変えるほどではない。
 さらにいえば、武侠物の戦いのシーンは、迫力があってもあまり興味は無い。なぜ戦いになったのか。避けられなかったのか。結果はどうなったのか。それが後にどんな影響を及ぼすのか。それらのことに関心がある。
 特に、能力と行動に矛盾はないか。例えば30メートル跳べる人が、肝心なところで10メートルを跳べない、などということはないか。場面によって設定を変えていないかは気にする。

 未央の読みだが、中国語ではwèi yāng (wei4 yang1)しか出てこない。どうして「BIOUびおう」となったのだろう。
 「びおうさま」もほとんどは「小姐xiao3 jie3」であり、「未央殿」は「未央姑娘wei4 yang1 gu1 niáng2」であり、biouは出てこない。未を「び」と読む例を探したら未央柳(ビヨウやなぎ、ビオウではなくビヨウ)の例があった。美容柳のこと。(もっとも美容柳は別名で未央柳が本名)未央柳は「柳」までそろってはじめてビヨウと読めるのではないか。
(このことについて下のコメントを見てください。未央をビオウと読む例が古くからありました。昔はそう読んだのか。漢和大字典では例外的に「未央」の場合だけ「ビ」と読む例が例が載っています)
 それからいつも桜(のような花)が満開で、銀杏(のような葉が)が紅葉(黄色です)しているのが気に掛かる。

 439年に北涼が滅んで、この頃から南北朝時代(439−589)になる。
 北朝は鮮卑拓跋部の魏(北魏)が386年−534年。
 このドラマの時代は第三代の世祖太武帝(拓跋Z(とう)、在位423−452)の時代である。
 太武帝は華北を統一した。北涼が滅んだのもこのとき。
 初代太祖道武帝、二代太宗明元帝につづき、三代目になる。
 第三代太武帝の孫の拓跋濬(しゅん、第四代文成帝、在位452−465)と未央の出会いから、複雑ないきさつをえて文成帝が即位するまでの物語。(第五代献文帝の即位までもあるが)
 未央が「濬」を筆で書くとき、「浚」と書く。これは代用する習慣があったか。ただし勅令などは「濬」を使っている。

 創作された物語なので、歴史として引用するときは注意が必要。もっとも歴史も「勝者が自分の思うように書く」ので正しいわけではない。
 すでに亡くなっていた濬の父は景穆帝と追号されているが、代数には入らない。
 物語の後、文成帝の没後に第五代献文帝が即位し、未央(馮心児ふう・しんじ)は馮太后と呼ばれることになる。
 献文帝(在位465−471)は幼帝であったので、母(義母)の馮太后に実権があった。なお、馮太后が献文帝を毒殺したという。
 いろいろ調べていると、この物語とはかなり様相が異なる。この当時南朝は宋であるが、趙匡胤の宋とは違うので注意。
 撮影場所は横店の秦王宮(撮影所)が使われている。

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 太極殿や、脇の渡り廊下が盛り上がった場所など何度も出てくる。

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 この物見櫓のような建物も特徴がある。

参考 南北朝時代
posted by たくせん(謫仙) at 10:03| Comment(2) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月18日

今年のドラマは(秀麗江山、武媚娘傳奇、那年花開月正円)

 今頃、「岡崎由美先生と行く中国の旅」の一行は、少林寺で練功をしているだろうか。それとも開封府で、包青天を偲んでいるだろうか。
 わたしは残念ながら、今年の「岡崎由美先生と行く中国の旅」は断念した。去年の秋から急に足の力が衰えたのである。とても歩けそうにない。
 もっとも先日の会津若松では、旧白河街道の滝沢本陣から金堀までの山道を、一時間四十分で歩いたのだから、全く歩けないというわけではない。

 「多情江山」以来、いままでに見た(見ている)武侠的ドラマがある。

「秀麗江山」(日本名は秀麗伝)というドラマがある。後漢の光武帝と陰麗華の愛の物語であるが、半武侠といえよう。
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 陰麗華役の俳優が「還珠格格」で夏紫薇を演じた林心如である。

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 還珠格格より
 左から、小燕子:趙薇、夏紫薇:林心如、金鎖:范冰冰。
 この頃はまだ少女なので、三人とも「かわいい」が先に立つ。
 いまは林心如も大人になったとはいえ、「かわいい」ころの表情が各所に出てくる。

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 もう見終わってしまったが「武媚娘傳奇」(武則天)では范冰冰が主役の武媚であった。「還珠格格」では夏紫薇の侍女役であった。今では中国一の美人女優になった。年収四十億円を超えるという。金鎖のころの表情はほとんどなく、いわれないと判らないほど変貌している。
 これは武侠的部分は少ない時代劇。もちろん創作が多く、歴史としてみてはいけない。
(10/7追記:先日のニュースでは、行方不明だったが、四ヶ月ぶりに登場し、脱税の疑いで146億円の税や罰金が科せられたという)

 もう一つ「那年花開月正円(月に咲く花の如く)」。これは清朝時代の商人の物語だ。
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 清朝末期に実在し、中国の近代化に貢献した女性豪商・周瑩(しゅうえい)の愛と成功を描いた歴史ドラマ。これはおもしろい。
 主役の周瑩を演じるのは孫儷(スン・リー)。わたしはこのドラマで初めて見た、知った。范冰冰に次ぐ美人女優という。
 わたしは芸能界情報にはほとんど興味がないので、これらの女優たちが今どうなのか、過去どうだったのか、ほとんど知らない。
 この三作のドラマは、侠とはいえないがお勧めである。
posted by たくせん(謫仙) at 06:46| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月22日

多情江山

2月22日記
3月16日追記

多情江山  日本名 皇貴妃の宮廷
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 清朝の第3代皇帝順治帝(じゅんちてい)(在位1643−1661)名はアイシンギョロ・フリンの宮廷ドラマ。
 清が北京に入城したとき皇帝フリンはまだ数え6歳であった。摂政王ドルゴンが権力を握っていた。フリン13歳のとき、ドルゴンの死後に親政を始める。しかし、数え24歳で没した。(北京入城と没年だけは数え年であることを確認した。他も同じだろう)
 あまりに若い逝去なので、俗伝では五台山清涼寺で出家したという。鹿鼎記はこの説を採用している。鹿鼎記によって、このドラマの顛末はある程度察することができる。
 その第3代皇帝順治帝の22歳から亡くなる24歳までの話。治政は短いものの一応名君と言われている。
 康煕帝は8歳で即位したので、順治帝16歳のころの子で第三子。このドラマの初めのころは康煕帝は6歳くらいだが、城外で育てられた。その他にも大勢の子がいるが、順治帝の子に対する情は薄かったようだ。子ばかりでなく、皇貴妃たちに対する情も、董鄂妃以外は薄かったらしい。
 その董鄂妃とのラブストーリーだ。

 ドラマでは董鄂妃は江南地方(?)の歌姫である。史実は弟の嫁を奪った。
 ドンゴ氏(董鄂氏)は死後に孝献皇后となる。子の第四子栄親王は三ヶ月(?)で夭逝している。
 順治帝は漢文化を尊重した。そして名品の献上をやめさせたり、官職の合理化を図ったり、質の悪い官僚を追放したりした。庶民の負担の軽減をはかっている。それで名君といわれる。
 わたしは鹿鼎記の前章のような感覚で見ている。見始めたばかり、何かあったら加筆訂正をする。

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
3月16日追記
 この中で孝庄太后(順治帝の母)役の袁詠儀が名演といえよう。動きはほとんどなく、席に座っての発言ばかりだが、このときの顔の表情が素晴らしいのだ。喜んでいるときや悲しんでいるときは誰でもできる。しかし、心では喜んで表情は厳しくとか、知らぬふりをするとか、建前と本音が違うときの複雑な表情が見事に演じ分けられている。
 董鄂妃を受け入れながら、臣下の前や後宮では厳しいことを言う。そして双方を納得させる。このあたりの複雑な表情を演じながら、威厳を保っている。
 建国の厳しさを知っている故に、特権に溺れる臣下や後宮を常に引き締めているので、董鄂妃に厳しくとも、その行動に頷いてしまう。
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2018年02月15日

開封府

開封府−北宋を包む青い天−
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「包青天」と言われた名裁判官包拯のドラマ。
 日本の「遠山の金さん」や「大岡政談」のモデルと言われている。清廉潔白で公正無私、対象は官界ばかりでなく皇族まで踏み込む。創作された話であるが、その姿勢は庶民に愛されている。
北宋は960−1127
包拯は999−1062
 説明では「北宋時代末期に活躍し、」とあるが中期と言うべきであろう。

 このドラマでは、仁宗が即位(13歳)(在位1022−1063)した頃科挙に合格して、開封で出仕して活躍している。しかし、史実では仁宗の5年に合格し地方官になる。一度致仕しで故郷に帰り、再び仕官したのが1036年。仁宗の27歳ごろ。だから都開封で活躍したのは1036年の後になる。
 ドラマでは開封で重大事件を解決し、皇太后に嫌われ、一度故郷に左遷され県の知となる。そして十年後にまた開封に出てくる。

 仁宗の皇后選びが問題になっている。その中でよく李Uの詞が歌われる。この曲は今に伝わっているのだろうか。それともドラマのために新たに、いやドラマのためででなくてもよいが、新たに作曲されたのだろうか。
 参考 李U
    李後主 −詞帝−
 で紹介した『虞美人』も歌われた。

 有力者ふたりの娘と孫が、美人(後宮の位号)として入宮し、仁宗は母の皇太后にどちらを皇后にするか決めろと迫られる。
 そんなとき、そのふたりが入っているそれぞれの宮殿が同時に火事になる。仁宗もその中にいた。
 その真相を調べるため、皇太后は、故郷に左遷させた包拯を開封に呼ぶことになる。嫌ってはいても、人格と能力は信用しているのだ。

 まだ途中なので、追加があったら書き加える。
posted by たくせん(謫仙) at 10:40| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月20日

鹿鼎記 韓棟版

鹿鼎記 韓棟版
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 今年見た武侠ドラマは琅琊榜(ろうやぼう)に、この韓棟版鹿鼎記であった。孫子大伝も見たが、それは武侠ではない。
 この鹿鼎記、これが意外に面白かったんだな。主役の韋小宝は韓棟。少年時代は無理だが、大人になってからははまっている。
 武侠ものは数回分見てがっかりして終わり、ということが多いのだが、これは50回の最終回まで見てしまった。
 もっとも終わる場所は常春の雲南でも揚州でもなく、極寒の鹿鼎山で、この土地で牧歌的に隠棲というのは腑に落ちない。これでは揚州などの後日談が成り立たない。だから後日談がない。母親は揚州に置き去り状態。
 韓棟版の特徴は、台湾編とロシア編と雲南からの往復の旅編がないことか。その辻褄を合わせるため、ストーリーはそれなりにいじっている。
 それから7人の妻や九難や陳円円など女優たちが、みな若く同年配に見えるのが可笑しかった。陳円円と阿珂は賈青の二役なので、どちらが母か娘か判らないほど。そして他の女性たちと比べても特に美人ということはない。
 三藩の乱のころ、九難は45歳ほどだが、年を感じさせないって、まるで弟子たちと同じ年代のようだ。
 偽皇太后も若いとなれば、女性たちの年齢を考慮していないように思える。
 また、康煕帝と韋小宝をはじめ男たちの頭は、ほとんどが、いつでもたった今剃り上げたばかりと言う状態。かすかに黒みが見える程度。康煕帝と韋小宝の顔は、まるで女優のようにつやつや。こんなことは黄暁明版では感じたことがなかった。今回はそれが目立つということかな。
posted by たくせん(謫仙) at 08:04| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

医食同源

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 9

 これで今回の旅は終わる。
 8月21日の夕食は薬膳料理だった。

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 欽善齋はかなり有名らしい。欽善哉の文字の左に乾隆御筆とある。偽筆とは思いませんが…。
 このレストランの二階のかなり奥の部屋だった。

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 中庭である。

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 いつも我々12人で1卓である。
 四川省は薬材の宝庫である。盆地の周辺は高山が連なっている。その高山が緑豊かで、動植物の種類が多い。それで薬材が多い。漢方薬といえば四川省というほど。その中でも青城山は高名だ。

 その薬材探しの人が洞窟に入ったらそこはユートピアであり、出てくると数百年も経っていた。という話が多い。逆に神仙が薬売りになって人間世界に来る話もある。四川は古くから中華薬材の集散地としてしられている。
 ただし、全国的に有名になったのは宋代になってかららしい。
 当然毒薬もある。
(最初の岡崎先生の講義の一部)

 武侠では、どんな重傷も薬を付けると一瞬で治ってしまう。着ていた服の穴まで繕われてしまう(^_^)。
 これは神仙の技が人間界に流出してしまったからなのだ。

 ガイドは、次のようなことを言った。
「昔の人は大変な苦労をしただろう。ある植物のある部分がある病に効く。それを見つけ出すために膨大な実験を繰り返しただろう。毒で死んだ人もいると思う。漢方薬はそんな歴史の積み重ねの上に成り立っている」
 薬膳料理はそんな歴史の裏付けのある料理である。
 中国には薬食同源(医食同源)という思想がある。
 少し違うが、日本のドラマ「みをつくし料理帖」でも医師源斉は「食は人の天なり」と、食事は薬より大事だと言う。「おいしい料理を作れる人はそれだけで貴いのですよ」と。(田郁 原作)
 現在中国では中華料理を世界遺産にしようとする運動があるらしい。
 岡崎先生はガイドに、「医食同源の考え方を入れるべきだ、それが思想的裏付けとなる」と言う意味の事を言っていた。

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 さて、料理の実体はどうか。実はわたしにはいつもの料理と区別できない。だから医食同源か。

 ここでもほとんどの料理が辛くて食べらない。こんなに辛くしたら毒ではないか、は冗談としても、いくら種類を並べても食べられなければ意味が無い。薬は毒を薄めたものというのがわたしの思想である。この辛さは毒に近い。みんな平気で食べているのが不思議で仕方ない。
 まあ、わたしが辛さに対して過剰反応しているンだろうな。
 一見無害そうなスープでも、唐辛子とは違う辛さで、むせて吐き出しそうになった。山椒だったらしい。
 そんな中でも、なんとか食べられるものを見つけて、それなりに食べている。

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 たとえばこの銀杏の実は、わたし1人で半分ほど食べてしまった。これだけははっきり憶えている。

 わたしはカレーが好きである。カレーはおいしさのある辛さ。だが四川料理の辛さはおいしさのない辛さ。しかも辛さのレベルが違う。でも四川省の人はおいしいと思っているのだろう。
 中国に唐辛子か入ったのは17世紀の半ばという。以来400年。これだけ期間があるのだから、薬材との適合性は試されているのだろう。
 なお、唐辛子の辛さは舌には痛みと感じられるという。
 中国でも、現在は西方が中心である。西方とは私たちが普通に使っている西洋医学である。漢方薬も日方(日本の漢方薬、とは矛盾する言葉だが)の方が信用があるらしい。こうなると、ますます薬材としてより薬膳の材としての意味が重くなりそう。

 関西の2人は明日の朝別便で発つ。
 今回が皆の集まる最後になる。それで、今回の感想や次回に行きたいところなど、意見を交換した。
 わたし自身のことをいえば、体力の衰えを実感じた。20年前までの山登りの体力は夢である。
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2017年09月17日

青城山

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 8

 午前中に都江堰を見て、午後は、神仙の山青城山に向かう。
 この山は低い山だと思っていたが、意外に高く、青城山の主峰の老霄頂は海抜1,600m。
 ここも広いので、その一部しか見なかった。
 武侠迷には、青城派の本拠地として、おうわさはかねがね……。

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 まずは青城山駐車場で、カートに乗り換える。山門近くまで5分くらい。少し歩いて山門である。

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 山門前

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 道観であろうか。

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 案内図だがかなり見にくい。
 区域が左右に分かれている。右が前山で道観が多い。左は後山で自然が幽玄だという。
 私たちが行ったのは前山である。

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 ここからは有料となる。

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 山門の裏にこんな絵があったが、これではなんだか判らない。
 山門から山登りになる。これは30分もなかった。

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 小さな湖があり、船で対岸へ、5分くらい。

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 湖を渡れば目の前がロープウェイの下駅である。

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 ロープウェイで山頂近くへ、すでに上は雲の中である。

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 またしばらく歩く、雲は薄いとはいえ、遠くは見えない。

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 先の地震で上から転げ落ちた岩。よく見ると本来の道の上にあることが判る。

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 ここまで来れば上清宮は近い。
 道は沖なれどもこれを用うればあるいは盈たず

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 大道無為。道教の祖、老子の言葉の大意だろう。「大道無為」という四文字語は見当たらなかった。

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 最後の登りといえるかな。

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 今回の目的地である上清宮に到着した。標高はこのあたりが一番高いのだろうか。登山用の山岳地図が欲しい。それは峨嵋山でも思った。もっとも日本の登山地図のような丁寧な地図は期待できないか。

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 一番上は目の前だ。

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 一番上の真ん中は、…判らない(^_^)。王重陽かしら。

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 全真七子像
 ン? 6人しか見えないが。

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 堂の前、雲がかかっている。

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 ここを通り下へ。

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 ローブウェイの下の駅はなんとか見えた。
 この山もほとんど雲の中。写真を撮ろうとすると暗いのが判る。
 峨嵋山より楽だったが、展望のきかない道は疲れやすい。久しぶりに疲れるほど歩いた。
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2017年09月14日

都江堰

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 7

 朝食の時、外は雷雨であった。
 七時前、雨の中を出発、2時間ほどで都江堰(とこうえん)につく。曇ってはいたが、雨はやんでいた。

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 薄暗い中で、入場券を買う添乗員とガイド。

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 入る前に、ガイドは入り口の案内図を示して、都江堰のシステムを説明。
 岷江をここで分流し、水不足だった成都周辺を潤した。
 都江堰は秦の始皇帝の時代より少し前に築かれた。始皇帝の巨大建築などは無くなってしまったが、この都江堰は二千三百年後の今でも機能を果たしている。
 この灌漑設備によって、成都平原は「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となった。
 ただし、システムは同じでも始皇帝の時代の都江堰ではない。先端の「魚嘴」が当時はもう2キロほど上流にあったという。

2017.6.3.1.jpg  この図は、入り口にあった案内図ではない。

 中央の中州4が人工の堤防で、先端の魚嘴2で川を左右に分水する。
 左3が岷江本流、右5が灌江。
 図の中で特に重要なのは2の「魚嘴」である。
 灌江を深く、岷江を浅くした。そのため水の少ない時は、灌江6割、岷江4割。
 川幅は、灌江を狭く岷江を広くした。水の多いときは、灌江4割、岷江6割。
 構造によりそのように分かれる。これにより灌江に分流される水量が安定する。それでも多すぎたときは、図の7で本流に戻す。それによって、必要な水量をいつでも灌漑水路に流せる。

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 このように竹籠に石を積めて、堰を作った。

 秦堰楼から、都江堰を眺望する。

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 向こう側が霞んでいるが、上流である。左右中央から右にかけて細長く中州状になっているが、その先端あたりが始皇帝の時代の魚嘴のあったところらしい。

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 この中州が人工の施設。右の先端の低いところが、魚嘴といわれる。
 その向こうの岷江本流側に1974年に閘門が完成した。今はこれで灌江の水量を調節できる。

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 吊り橋である。人が多いとかなり揺れる。

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 下流方向も工夫があって、灌江に取りすぎた水を岷江本流に戻し、水量の調節をしている。

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 二王廟、ここまで下って見学。

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 二王廟
 李冰は秦の昭襄王から銀十万両を与えられ、4年の歳月で完成させた。その後8年で運河を切り開いた。李冰は完成前に亡くなり、息子の李二郎が引き継いで完成させた。
 二王とはこの親子である。

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 2008年の四川大震災の時に一部は壊れたが、3年をかけて復旧した。
 二王廟の本堂。

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 この一階部分が入り口、下から上がってくる。私たちは裏口から入ったようなもの。

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 サルスベリが目を引く。

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 本堂をもう一度見て、階段を下りる。

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 階段の下から見上げる。

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 下まで下りてきた。水の流れはかなり速い。

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「貴君は何本の香を焚くや」
「三本なり」
 この台詞の意味が判る人はお仲間だ。

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 何先徳夫妻
 1804年、何先徳が橋を架ける工事を始めた。事故の責任を取らされ死罪となったが、妻がその意志を継いで吊り橋を完成させた。
吊り橋は夫妻橋ともいわれるとか。

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 安瀾索橋つまり吊り橋の上から。

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 渡り終えて振り返る。

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 魚嘴の上の水が岷江から灌江へ流れ込んでいるのが判る。

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 岷江にはこの水門がある。1974年に完成した。さらに四キロほど上流には大きなダムがある。

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 岷江本流
 先ほどの吊り橋を渡って戻り、出口に向かう。

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 外から。こちらが表門であろう。
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2017年09月11日

武侯祠

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 6

 武侯祠(ぶこうし)は、三国志演義の主役諸葛亮を祀る霊廟であるが、武侯祠と称する地域には、武侯祠の他に主君劉備を祀る漢昭烈廟もある。
 わたしは諸葛亮といえば、文官のイメージが強く、武官としては無能力だったと思っているので、はじめて諡号が忠武侯と知ったときは意外に思った。
 223年つまり劉備の亡くなった年に、劉備の陵墓である恵陵が造営され、劉備の霊廟も造営された。現在のような諸葛亮と劉備を祀る霊廟に整備されたのは明朝の頃であるという。いわゆる完成は清代。

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 駐車場から、武侯祠の前を入り口まで歩く。

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 見にくいが、案内図。

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 入り口は漢昭烈廟の文字がある。劉備は一応漢の皇帝としていたので、国号は漢となる。

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 漢昭烈廟 劉備像、案内図ではオレンジ色の線に囲まれた右端上下中央あたり。

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 漢昭烈廟のすぐ後ろに武侯祠がある。

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 武侯祠 諸葛亮像
 霊廟内には関羽・張飛などの蜀漢の武将の塑像が並ぶ。写真はない。
 諸葛亮や劉備の塑像と同じで、いずれもが後世の製作。『三国志演義』によって形成されたイメージに基づくもの。

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 ここはどこだったか。

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 案内図の武侯祠の左に桂荷楼がある。荷とは蓮のことなのでこの建物と思われる。


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 ここから劉備の墓の方へ行く。

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 武侯祠を代表するような道である。この右側が恵陵で丸い。

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 恵陵つまり劉備の墓の入り口。右側になる。

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 恵陵は案内図では武侯祠左側、円形をしている。

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 恵陵の大きさを感じられるであろう。小さいが、皇帝とはいえ地方政権の長に過ぎないので、相当なものか。
 未発掘であるという。

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 頭でっかちな獅子(?)

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 夕食後に錦江劇場で川劇を見た。

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 なんと一番前の席の真ん中あたり。左右には字幕など出るが、わたしの席からは無理。
 三英戦呂布・梅花奨・変面。以下説明ぬき。

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 注目するのは変面である。武侠ファンには張紀中版「笑傲江湖」でおなじみだが、遙かに鮮やかであった。

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 古い舞台もある。
 好(ハオ)、好(ハオ)、と声が飛び交いそうだが、現在は使われていない。

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 武侠ファンにとって忘れがたいのは、諸葛孔明の八卦陣である。桃花島は八卦陣で作られているため、老頑童は15年も出ることができなかった。
 陸家荘では、穆念慈が楊康を助けようとするが、どうしても近づけない。
 黄蓉も赤ん坊の郭襄を八卦陣の囲いで守ろうとした。李莫愁はその囲いが解けない。
 などあちこちで諸葛孔明の八卦陣が使われている。
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2017年09月08日

杜甫草堂博物館

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 5

 8月20日、峨眉山市から成都に戻る。午後から杜甫草堂の見学である。
 あらためていうと、
 杜甫は、中国盛唐の詩人。字は子美。号は少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣。「杜少陵」「杜工部」とも呼ばれる。「詩聖」と評された。
 杜甫は乾元2年(759年)、安史の乱のせいで、成都への流亡を余儀なくされた。そこで親友である厳武の援助を得て、浣花渓の近くに茅葺の小屋を建てた。杜甫はそこで4年間の生活を送った。

 つまりこの草堂には4年間しかいなかった。もちろん当時の建物は残っていない。
 
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 この杜甫草堂は博物館で、これはその博物館の入り口である。

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 照壁
 門の前の目隠し壁であるが、もちろん草堂にはない。博物館の壁である。

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 博物館の説明地図である。
 正門を入って、詩史堂・柴門・工部祠・少陵草堂・茅屋故居と続く。

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 この地図と上の説明図を合わせて見当をつけたが、はっきりしない。
 細かい説明は間違いそうなので省く。

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 見にくいが橋を渡るところ。

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 大廨、廨は初めて見る字だ。役所のこと。

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 入り口から見て建物の左側、両側にこのような回廊がある。

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 詩史堂

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 柴門
 当時この名前の門があったので、柴門としたが、おそらく、名前ばかりの門であっただろう。この門は清の時代の建築。向こうの建物は工部祠。

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 柴門の手前にこの水路(池?)がある。

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 工部祠
 工部は杜甫のこと。「検校工部員外郎」を勤めたゆえ、こう言われたとか。

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 少陵草堂の碑亭
 杜甫草堂のシンボル的存在。清代康煕帝の子、雍正帝の弟果親王である、愛新覚羅允礼の書いたもの。

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 茅屋故居。当時の杜甫の記述に合わせて再現した。庭には松が四本などの記述があって、四本植えたとか。日本人好みの庭である。

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 上の柴門とは、本来こんな門ではなかったか。

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 室内の様子。

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 土間が一列に並んでいた。
 なお、本当の草堂跡はこの裏の方にあたる。

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 見学を終えて門を出る。門前は道の向こうが浣花渓、その向こうは高級住宅地。
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2017年09月04日

四川峨眉山文武学校

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 4

 峨嵋派武術は少林寺武術や武当山武術と並び三大武術といわれるが、峨嵋派としてまとまっているわけではない。
 春秋時代に司徒玄空という最初の武術家が現れた。猿の動きから、「峨嵋通臂拳」を編み出したと伝わる。その後も多くの武術家が独自の武術を編み出した。その中には女性もいる。それが金庸小説で郭襄(小東邪)を峨嵋派の開祖扱いしたもとらしい。四姉妹が蛾眉の四山に姿を変えたという伝説もある。
 現在四川には、67派あり、四川省由来が28派である。(以上、八雲さんの解説による)

 ガイドの李さんが言った。
「20年ガイドをしてきて、多くのツアーを案内してきましたが、武侠のツアーは初めてです」
 そこで、岡崎先生の事を調べたら、大変なひとで驚いたとか。
 四川峨眉山文武学校の見学を申し込んだとき、団体名を聞かれたという。
 岡崎先生は、「授業の邪魔にならないよう、授業の様子など見学させて頂きたいと思っていたのですが」
 この学校では武術ばかりでなく、ふつうに学問も学ぶ。現在は武術だけで生活するのは難しい。現代の学問も修得せねばならない。そんなわけで、文武両道の学校となった。
 峨嵋山を下りて、4時ころに四川峨眉山文武学校に着いた。

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 門には大きな横断幕。これには驚いた。
 門柱には峨嵋派とある。一門派にとらわれず、広く峨嵋山地域の武術を学ぶとみた。

  歓迎、日本の中国武術ファンの友人たち

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 そして生徒たちが整列して出迎え。左でカメラを構えている人は学校の職員である。
 案内してくれたのは校長先生。向こうの低く横に長い建物が校舎である。体育館は左奥になる。
 わずか12人の武侠迷は恐縮してしまうではないか。

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 武術ばかりでなく普通のスポーツもする。

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 体育館に行く途中にあった武術家の像、背中の槍は短くしたが、峨嵋槍は長槍である。

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 体育館に案内される。


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 体育館で演武を見せてくれた。
 私たちの両側には生徒の父母らしい人たちがいた。

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 演武の後ろには、門で見たと同じ横断幕。

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 刀術
 中国では剣術と刀術は異なる。動きは円を描き、休み無く動く。わたしには相手に背中を見せるのが気になる。その一瞬に勝負が決しないか。
 日本では刀を使いながら、剣道・剣術という。細身なので中国の剣に近い。

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 武術の中心となる張氏、峨嵋派僧門第十四代傳人。教師ではなく仏教僧侶。
 手足以外はぴくりとも動かない。その後の目にも留まらぬ早業。動画を数回見て、動きを確認した。

 八卦掌、八卦刀、虎拳法、猴棍、羅漢拳、峨嵋刺など30分ほど演武を見せていただいた。

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 変面も披露。

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 記念撮影

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 初歩の構えを指導。

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 こうして構えを教えながら、その意味も説明する。

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 校舎

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 南宋建炎年間に白雲禅師が、峨嵋十二〔木+庄〕功という練功法を創作する。という話もある。

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 門脇に四川峨眉山文武学校とある。猿の絵は司徒玄空の故事由来であろう。
 四川省の山々は神仙伝説が多く、司徒玄空や白雲禅師をはじめ武侠の先達たちも神仙伝説に彩られている。四川省は中原とは違った古い文明の発祥した地域なのであった。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月01日

峨嵋山(峨眉山市)

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 3

 19日は楽山市から峨眉山市へ向かう。地名などは「峨眉」だが、小説やドラマでは「峨嵋」が多い。区別はないようだ。(8時発)

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 峨眉山市で登山用の景区エコカーに乗り換える。(9時15分)

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 券売所のテレビ画面、金頂か?

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 途中休憩の売店。(10時)

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 2時間ほどで峨嵋山の中腹、雷洞坪まで行く。(11時5分)
 ここから山歩きが始まる。ロープウェイの乗り場まで山道を登る。

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 一般の人のエコカー乗り降りはこちら。

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 霧が濃く、霊場らしい雰囲気だが、景色は見えない。
 低い階段が多く、歩きやすいとはいえ、30分の登りはきつかった。(11時40分着)
 ロープウェイで金頂へ。雲が多く展望は開けない。
 ロープウェイを下りて、少し歩けば山頂である。

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昼食にする(12時15分)。
 周りは雲であり、見晴らしはよくないが、山頂部分だけははっきり見えた。

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 晴れていれば、こんな山並みが見えるはず。

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 強力(ごうりき)がこうして資材を運んでいた。人も運ぶ。

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 金頂(3077)には巨大なクレーンが動いていた。堂の工事中であった。

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 金ピカの巨大な普賢菩薩、象は普賢菩薩の乗り物である。
 峨眉山は中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)の一つといわれている。
 ウィキでは、
 26の寺院を有し、普賢菩薩の霊場とされる。一番高い峰が万仏頂(標高3,098メートル)で、頂まで32の名刹が続いている。
 とある。名刹数が寺院数より多いことはない。どっちの数字が正しいのか。もちろん昔はもっと多かった。
 このような霊峰なので、
自然が護られ、約3,000種の植物と、絶滅危惧種を含む約2,000種の動物の宝庫でもある。1996年12月6日には文化面、環境面両方が考慮され、楽山大仏と共に「峨眉山と楽山大仏」としてユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録された。

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 記念撮影。それにしても三千メートルの山頂に、こんな巨大な像をよく建てたものだ。

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 展望台(?)にあがる。周りは雲の中。不思議に頂上部だけ雲がなかった。

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 堂も金ピカ。寺号は華蔵寺である。金頂には臥雲庵という別な寺もあるはずだが、どこなのか。

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 普賢菩薩像を横からみる。こう見る方が大きさを実感する。

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 もう一つの堂の新築・改築中である。

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 こちらの堂はかなり金メッキがはげている。

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 こちらの建物は何か。
 寺院の説明はほとんど無い。まあ宗教的な意味合いでお参りしているのではないので、かまわないのであるが、インターネットでもはっきりしない。
 気温は高かった。海抜3千メートルの山頂で、半袖姿が目立つ。本来寒いくらいの方が、歩いているとちょうどよい。

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 下山途中に見えた。雲の中である。
 登山の注意として猿に用心といわれたが、一度も見なかった。凶悪らしく、油断していると持ち物を取られる。猿は猛獣なのだ。よく見られるのはニホンザルと同系統の猿である。
 今回は金頂のみだったが、他にも峰があり寺院がある。見えなかったのは残念。大雨の予報が傘を使わずに済んだことでよしとしよう。それにもう一カ所行く予定があるのだった。
 14時20分エコカーに乗り景区出口に向かう。
 15時35分到着した。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(2) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月28日

楽山大仏

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 2

 18日、楽山磨崖仏に向かったが、寄り道した。眉山市彭山区で最近発見された江口沉銀遺跡の、今年の1月から始まった発掘現場を、対岸から見ることになった。

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 岷江、見にくいが真ん中あたりの川の合流地点が発掘現場である。この右の対岸まで行く。

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 こんな塀が続く。

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 江口崖墓という、ローカルな遺跡もある。

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 ようやくこれだけ見えた。

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 畑を囲っているのか、それとも遺跡を守っているのか。

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 この地域の中心の通り。真ん中あたりの家は商店である。

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商品、紙など。

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 場違いな感じがする建物。女性の足の長さに見とれて建物は見なかった。

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 不思議そうにこちらを見つめている。
 またバスに乗り楽山市に行く。

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 ここから船に乗る。楽山磨崖仏は川に面していて、その川は広いので船でないと近くでみることができない。

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 この先端あたりに楽山磨崖仏がある。

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 岷江と大渡河の合流地点なので、水の色がはっきり分かれている。

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 磨崖仏を陸から見るにはこのコースを登っていく。

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 楽山大仏は世界最大である。高さは71メートル。東大寺の大仏の5倍ほど。
 像高(像本体の長さ) 59.98mと言うので、71mは台座部分も入っているのか。
 なお近年さらに大きい仏像(観音像を含む)が立てられている。
 ちなみに魯山大仏128メートル、日本では牛久大仏110メートル。

 陸からの見学は、上から見るか、あるいは、左の階段をおりて足下から見上げる。そして右手に抜けて階段を登ることになる。

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 正面から。見上げるために、顔を大きくして見た目のバランスを整えている。

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 この階段を下りる。

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 大仏の左右に脇侍がいる。左は形が崩れている。この写真は右側だが、どんな菩薩だろうか。

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 トンネルを抜け、右に行き、登ることになる。

 船からの仏像を堪能したので、一度上陸し、上から大仏を見ることにする。

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 川沿いの道を歩き、登山口に至る。ここから333段を上り、大仏の頭部に至る。大仏の背後は凌雲寺という寺である。寺域はどれほど広いのか。
 この登山道は先ほど川から見た。

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 最後の33段は一気に上る。途中で休まない。

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 ここから凌雲寺に入るのだが、それは後からで、まず仏頭を見る。
 ここからは自由に観光となる。

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 大勢の人が並んでいる。ここから大仏の脇を下まで下りるのだ。私たちは上からの見学だけで済ます。

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 絶壁の階段を下りていく人々。

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 楽山市は中心市街は超高層ビルの並ぶ都会であった。市域などは何度も変更されているので、具体的な数字はわからない。

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 海通禅師、大仏建立のための基金集めをした。嘉州郡守が寄付を拒絶し「目を差し出すなら」と無理を言うと、その場で目を抉り出したという。そうまでして資金を集めたのだ。

 そのまま山の上に行くと、苑などがあるが、その一画に蘇東坡をたたえる(?)建物があった。

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 東坡楼
 蘇軾は北宋最高の詩人といわれる。東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれる。眉州眉山(眉山市)の出身である。今ではとなりの市である。

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 建物の中には蘇東坡像がある。

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 集合時間になったので、元の場所に戻り凌雲寺に入る。

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 凌雲寺は混んではいなかったが、この寺の説明は忘れてしまった。

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 何の像だったか。

 凌雲寺を出ると駐車場まで15分という。もちろん歩くことにする。

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 ホテルに着いてから散歩に出た。すぐ前は大渡河で雨の後のせいか濁流である。

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 泳いでいる人がいる。水流が速いので、流されているように見える。

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 遠くに大仏が見える。

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 乗り捨て自由のレンタル自転車。ケータイで手続きして使用料を払う。外国人はその支払いシステムへの加入が難しい。

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 夕食後、スーパーマーケットに行った。
 ばら売りの米の値段だが、500グラム単位、これは1斤相当の量である。
普通の粳米    3元
香米       3元 ジャポニカ米だが南方系。
インディカ米 2.5元
上質な米袋入り  4元
 おおよそこの程度、思っていたより高かった。
posted by たくせん(謫仙) at 05:31| Comment(1) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月24日

成都

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 1

 8月17日、朝7時に成田集合。関西の2人もここで集合した。添乗員と岡崎先生を入れて、総勢12名である。
 成田発08:50、成都到着は13:20(現地時間)、5時間半の直行便である。
 成都に着いてから空港を出るまで1時間以上。専用のバスに乗り込む。
 ホテルの近くでまず書店に入る。わたしは「李清照」「李U」「余秋雨散文」を入手した。これは辞書のようになにかの折に参考にしたいのであって、すぐ読みたいわけではない。それからホテルに着いてすぐに夕食の店に向かう。

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 5時40分に「陳麻婆豆腐」に到着したが、ここで最初のトラブル。なんと予約しておいたのに部屋がない。食事前の一時間ほど、岡崎先生の解説などを予定していたのだが、どうやら勘違いがあった模様。しばらく待つことになった。個室の用意ができ、岡崎先生の四川省の解説と、八雲関西幇主の峨嵋派武術の解説を聞く。
 小説やドラマなどで峨嵋派がよく出てくるが、実はいろいろな武術派があって、峨嵋派という名で括ることは出来ない。知らないわたしにはびっくりする話ばかり。(^_^)
 夕食は中国らしい料理が並ぶが、ほとんどが唐辛子の辛い料理。わたしは苦手なのだ。今回は最後までこれがついて回った。

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 料理の一例、見ただけで手が出ない。

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 四川ダック、これさえ唐辛子味。

 看板の麻婆豆腐は言わずもがな。写真を撮る気にもならなかった。それで今回は料理の写真は原則としてなし。

 さて、四川省といえば何を思い浮かぶか。まず「三国志の蜀漢」と「パンダ」であろうか。
 ガイドに問われて、わたしは「曇り空」をあげた。「蜀犬日に吠ゆ」といいう有名な言葉がある。
 口にはしなかったが「巴山夜雨」もある。今回の現地の天気予報は大雨ばかり。夜中から朝にかけて雷雨になったりする。それがなんと傘を一度も使わずに済んだ。
 四川省の省都は成都である。重慶市は1997年に直轄市になったので、四川省の範囲ではなくなった。そうは言っても四川盆地にあり、直轄市になる前は四川省なので、間違えてしまう。成都市の人口は1400万人、市部は600万人。
 今でも中国を共産主義の国と思っている人は少ないと思う。現地の人の感覚でも完全な資本主義である。事前の情報では20世紀の国である日本、21世紀の国である中国という対比があった。都市部では現金やカードは不要で、ケータイで全部済ますとか。
 成都での実感は、21世紀と20世紀半ばが混じり合っている印象だった。

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 ホテルの窓辺、横顔に見えたのは偶然らしい。

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 ホテルのロビーは諸葛孔明が目立つ。

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 中国は固定電話が十分に普及しないうちに、携帯電話の時代に入ってしまった。一週遅れだったのがその一週をパスしたようなものだ。
 ケータイで全ての支払いを済ます。
 考えてみると、私生活は全て公開されているに等しくなる。プライバシーの保護はどうなっているのだろう。インターネットには、堂々と「監視されています」とでてくる。
 このままの形で発展できるのだろうか。
posted by たくせん(謫仙) at 15:23| Comment(2) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする