1 北京を想う
禹域(中国)の中心が商や殷をうろうろしていたころ、北京は国の外であった。
春秋の時代、楚公は「楚は中国に非ず」と王を名乗った。淮河の流域から、長江の一帯を領有する超大国が国の外というのなら、国土のほとんどを万里の長城の北方に有する燕も国の外である。北京はこの燕の地にあり、別名の燕京はここからきている。
秦の始皇帝によって中国は統一され、遼東半島まで支配がおよび、ようやく北京も国の中になるが、それでも長い間辺境の地であった。
古代の中国語では中国とは国の中を意味したという。この国と城壁に囲まれた地域であり、都市国家であった。また文明のあるところであり、すなわち王の支配する地域である。
念のため付け加えると、中国の神話では次のようになる。
神(天)はこの世を治めるため、世界を四つに分けて、それぞれに自らの代理を当てて王とした。これを天命という。
水の世界、ご存じの竜が王である。
空の世界、王は鳳凰である。手塚治虫の火の鳥のモデルとなったが、その前に、日本人なら賞状などに書かれている尾の長い鳥を見たことがあるはずだ。十円銅貨の平等院の屋根にも二羽いる。
地上を走る獣の世界、王は麒麟(きりん)である。知らない人もいるが、キリンビールのマークといえばわかるのではないか。
そして人の世界、神(天)は特定の家系を子とし、人の世界の王(皇帝)とした。それゆえ王の別名を天子という。これは契約による養子である。もしこの天子が悪政をはたらけば、神は別の家系の人を天子とし王とする。これが革命(天命が革まる)である。
北宋の末期、済南地域は水滸伝の舞台となるが、宋の領土はここまでで、その北側は、遼であり宋の外であった。
そこは燕雲十六州と言われる。現在の河北省と山西省にまたがる地域で、万里の長城の南側、北方民族の領域に接する地帯だ。具体的には、北京と大同などの主要都市を含む地域を指す。
宋は燕雲十六州の領有権を主張して奪還を計画していたが、現実には燕雲十六州は宋の建国のときから遼の支配下にあった。
北宋は塞外民族の金によって滅ぶことになるが、はたして金を外国と意識していたかどうか。北京の北方が中国として意識されるのは、そこに興った満州族の清によって中国が占領されてからと聞いた。
現在の中国は北京の北方を中国領としている。これは現政府は清の後を継いだという意識からであろうか、それとも満州族の清を故国に追い返し、ついでにその故国まで奪って領土に組み入れたと考えているのだろうか。そうでなければ、そこは満州族の住む外国と認識するはずだ。
いやいや、この考え方は日本的であった。「文明のあるところすべて中国」の考え方からすれば、「現在、東北部は文明化されている。だから中国領である」と思っているかもしれない。もともと勢力の消長によって内になったり外になったりしている微妙な地域だ。
金元清朝は塞外民族が中国を占領したのであるが、金は元が滅ぼし、元は草原に追い返された。しかし、清はいつの間にか逆に被征服民族の漢民族に飲み込まれ、中国の王朝となっている。
清が中国の王朝と認められて以来、二百五十年近い支配を考えれば、東北部を中国領とすることは決して理不尽ではない。
陳舜臣氏は、中国人が外国を意識したのは清朝末期であろうという。清朝末期に、国の外にも別な国(イギリス)があることを知って驚いたという。
ともあれ、北京は別名を燕京というように、燕の中心であった。本来なら中国の東の外れという偏った位置にあるが、今では東北三省や内蒙古がその東北にあるため、地理的にもかたよらず、中国の首都として機能し、現在に至っている。
前置きが長くなったが、わたしは今、初めて北京の地を踏むことになった。○○中国語学習会の会員による団体旅行であるが、自由時間もある。
わたしがまず行きたいところは故宮博物院である。昔の紫禁城であり、皇帝の住居であると同時に政治の中心でもあった。
わたしは台北の故宮博物院には何度も足を運んでいる。この素晴らしさは嫌気がさすほどである。
豪華さについては嫌気がさす日本人は多い。それは、いかに民からの収奪が凄まじかったかを考えさせるからである。しかし、わたしは素晴らしさについても同じことを考えるのだ。
わたしの一番好きなものは、玉でできた『きりぎりすのとまった白菜』である。もしこれを中心に数十点の展示なら、その美しさにみとれるだけだ。だが、あまりに大量の作品に囲まれていると、豪華さとは違う素晴らしさにさえ嫌気がさすのである。
一点の作品に三代も四代もかかった話には気が重くなる。その奴隷は一生かかっても、自分の作品を見ることができなかったことになる。まして、一生を穴蔵で過ごし青銅器を作り続けた人には、ただただ悲惨としかいいようがない。これが商の時代の青銅器が最も優れている理由だが、他の宝物にはそのようなことがなかったのだろうか。
しかし、わたしはそれでも故宮博物院を見ておきたいと思う。北京の故宮博物院は戦後の出土品が中心であると聞く。台北とはかなりイメージが違うのではないかと思う。なにより故宮全体が貴重な宝の一つである。
付け加える。紫禁城にあるはずの宝物がなぜ台北にあるか。
それは日中戦争の混乱から守るため、1933年上海に運んだ(13491箱)。そして南京をえて成都などに分散し、第二次大戦後(1948〜9)、国民党によって台湾に運び出されたのである(2972箱)。
その理由として、『共産党の反乱による略奪から国民の財産を守るため』とある。共産党では『国民の財産を持ち逃げした』という。だが、現在はどうであろうか。台湾では民主化が進み、すでに独裁国家ではなくなっている。大陸も解放政策によって、内外の情報が国民に知られるようになっている。もはや『交戦中』ではない。どちらも世界の宝物として、双方の中国人がいつでも見られるようになるのも近いと思う。
なお付け加えたい。現在では地域名の中国(地方)と国号の中国(略称)を混同することが多い。辛亥革命以前には中国という国はない。強いていえば秦(シナ)であろう。だから地域名はシナ、国号は宋や明などが正しい。ただし辛亥革命以後は「中国」が常識的な呼称と思う。
資料 中国文物図説 (台湾 国立故宮博物院)
2 旅行前夜
中国の宝で思い出したが、先日、先生は中国の四大発明の話をした。火薬・羅針盤・紙・印刷を中国の四大発明というそうだ。しかし、わたしは中国の最大の発明は漢字という文字であると思う。ただ、文字を使いこなすには、相当の訓練が必要だ。
ある日、会長が中国の小学生からの手紙をみせてくれた。
「小学生がよくこれだけの文を書くなあ」
わたしはそのことに感心したが、先生はこういった。
「中国人の小学生は大体このくらいの文を書ける」
「日本人ではとても書けないよ」
「ほんと、日本人て文を書けない。うちの学生もなかなか書けない。わたしが日本語の文を直してやっている」
周りにいた人たちは笑ってしまったが、さてわたしの二十歳前後ではどうだったか。おそらくこの学生たちを笑うことはできないはずだ。わたしがどうやら文章を書けるようになったのは、三十歳を過ぎたころではなかったか。今では、こうして日本語で文章を書けるのがうれしくてしかたがない。きっかけは陳舜臣氏である。
「わたしはうれしいです」
この言葉は間違っているが、さて、正しい言葉はどうか。これはわたしの中学時代からの長い長い宿題であった。ある日、陳舜臣氏の文を読んで悟るところがあった。氏はよくですます調の文を書く。「うれしいんです」と、いとも簡単に答えを示してくれた。
そう、それに気がつけば、いくらでも答えがあるではないか。
「わたしはうれしい」
「わたしはうれしいんです」
「わたしはうれしいのです」
「わたしはうれしい気持ちです」
「わたしはうれしいと思います」
まだあるが、どれでもいい。あとは前後関係からどれかを選べばよい。こうしてわたしはなんとか日本語の文をつづれるようになったのである。このように、わたしは陳舜臣氏からたいへん影響を受けている。
故宮博物院の次は万里の長城である。
「お上りさん」と笑われようとも、
「そんなところに行かなければ好漢になれないの」とくさされようとも、
「あんなつまらないもの」とけなされようとも、
「你(ni)没去、我不去」と先生にいわれようとも、
なんとからかわれようとも、万里の長城は外せない。
秦の始皇帝が作ったといわれているが、戦国時代から営々と長い年月をかけて、ようやく築き上げられたものである。もちろんその後も何度も作り替えており、現在見られる長城は戦国時代のものではない。だが、日本では決して見ることのできないものである。日本の城は牙城であり、千年の都平安京も城壁はなかった。内裏でさえ庶民が出入りできる国では、万里の長城など愚の骨頂である。その長城を直に見れば、必ず感ずるところがあるだろう。
わたしはテレビで長城を見るたびに、思い出す詩がある。それは次の涼州詞だ。
涼州詞 王翰 涼州詞 王翰(かん)
葡萄美酒夜光杯 葡萄の美酒 夜光の杯
欲飲琵琶馬上催 飲まんと欲すれば琵琶 馬上より催す
酔臥沙場君莫笑 酔うて沙場に臥(ふ)す 君笑うこと莫(なか)れ
古来征戦幾人回 古来征戦 幾人か回(かえ)る
この詩は昔から、唐詩でも一二を争うほどの名詩といわれており、王翰はこの一首によって歴史に名をとどめたという。この詩は涼州詞の題ごとく、どこか西域のムードがあり、長城でも西方の崩れた長城を思わせる。
この詩の沙場とは華北の言葉で戦場を意味する(らしい)。だから「沙場に臥す」という言葉は戦死の意味であるという。恐ろしさに耐えかねて酒を飲み、酔って戦場に出て戦死するけなげな兵士をうたった詩であるという。これが万里の長城のイメージと重なるのだ。しかし、この解釈は誤っているという説が強い。
日本では沙場を砂漠と訳す例が多い。(例をあげれば、大岡信=折々のうた、駒田信二=漢詩百選)それゆえ、沙場に臥すは「砂漠で寝る」と訳されている。この解釈が正しいらしい。
沙場は戦場と言う意味に使われることが多いが、全てがそうではない。この詩では砂漠の方がよいという説が強い。中国ではどう解釈していたのだろう。
ただし、文革後の中国は伝統が途切れていることが多く、正しい解釈が伝わっていない可能性もある。
なお、夜光杯とはガラス製の杯といわれてる。現在、石で作られた夜光杯といわれる杯があるが、はたして唐の時代の夜光杯と同じものなのであろうか。陳舜臣氏は断定をさけている。(登場人物の台詞として「これがあの夜光杯です」といっている)
行きたいところの三番目は頤和園である。しかしそれ以外にも、北京動物園・北海公園・天壇公園・地壇公園・雍和宮・歴史博物館・民族文化宮・天安門など、行きたいところは多い。
わたしは旅行をすると、まず書店に入って地図を買い、その地図を頼りに二本の足で歩きまわるのを定石としている。今回はすでに北京市の地図があるが、歩きまわるには広すぎる。
ツアーとしては、天壇公園・故宮博物院・万里の長城・明の十三陵が入っており、それ以外はわたしたちで考えることになる。特定の曜日が休みであったり、八月いっぱい休館であったりして、計画には気を使う。もっとも二日間の自由時間ではそれほど見物できるわけではなく、結局行ってみてからの話となる。
3 故宮
八月二十四日。猪瀬(男)会長が教えている太極拳の会の人たち四人とは上野と成田で合流し、一行十名であった。
十時十五分、出発である‥‥、であるが、ジェット機が空港内を移動し、滑走路まで行くのに、なんと三十分ちかくかかった。
それでも無事北京の空港に着いたが、そこでまた十分以上待ってようやく降りた。それから荷物が出るまでまた待つ。いつもながら飛行機はアプローチに時間がかかる。
迎えのマイクロバスで市内に向かう。高速道路から普通の道に下りると、中国へ来たなと思う。ワクワクするのが半分。そしてじつは気が重いのが半分なのだ。これはちょっと説明がないと判らないだろう。
北京市民の五パーセントの人は年収が日本円で一千万円以上あるという。だが、道の両側の家はとてもそんな雰囲気ではない。以前台湾に行ったときも感じたことなのであるが、メンテナンスがどこかおかしいのだ。はじめ家を建てたときは立派な家だったと思う。しかし、あそこが剥げ、ここが壊れたりしているうちにみすぼらしくなってくる。そしてそれがそのままなのだ。おそらく内部は、わたしのすまいよりきちんとしているのだろう。だが、見たところまるでスラムのようだ。これが故宮まで続いた。

この写真集は1996年の「西安満喫夏紀行」の故宮編と、1994年の写真が入っている。

城壁内の大きさ 南北960メートル 東西750メートル
午門の南には端門その南には天安門がある。

天安門
天安門広場をえて前門にいたる。
さらに南には永定門があるというが、そこには行ったことがない。

午門 観光バスはこの門前まで入る。

午門を入ると金水橋をえて太和門である。
そして故宮。
広い。ただただ広い。
当然、宮殿も広い。そしてそれが台の上の石畳であるとはいえ土間(?)なのだ。スラム街に囲まれた、豪華な土間。これが北京故宮の第一印象であった。こういう印象を受けるのは、床のないせいらしい。もっとも、彼の地の人は、もしかしたら、日本の家をテントのように頼りないと思っているかも知れない。
そして入った珍宝館の宝物の少なさ。わたしは十数年前に東京で開かれた北京故宮博物院展を見たことがある。そのときは、この珍宝館よりはるかに素晴らしかった。もし田舎町の博物館なら、目を見張るに違いない。だがここは北京故宮博物院なのだ。(多すぎても、先に述べた台湾の故宮博物院のようになるが)
第二の印象は樹木の少ないことである。樹木のない広大な石畳、人を拒絶する城壁、床のない巨大な建物。振り返ると、これらが廃墟のイメージとなる。
さて、ガイドは二十三歳の好青年である。
故宮の見学中のことであった。処々に巨大な水瓶がある。昔は防火用水をためておいたという。表面には引っ掻き傷が一面についていた。少し金メッキの跡も残っている。
「これは昔、フランスやイギリスなどの侵略軍が、表面の金を削り取っていった跡です。中国にとっては屈辱的なことですが、わたしたちのような若い世代に歴史を教えるために、こうして展示しています」
このとき岩下さんが訊いた。
「それは、義和団の事件のときですか」
「そうです」
「それでは、日本もいたのではないのですか」
「‥‥、ええ‥‥、いました」
猪瀬会長がひきとった。
「我々に気を使ってくれたんだよ」

太和門より 太和殿を望む
ここに百官が整列した。映画でお馴染みの場所である。

太和殿は故宮の中心の建物である。
ここで朝廷をひらく。

玉座

太和殿前
鶴と亀の像がある。

太和殿の扉

中和殿
一時的な控えの場所である。太和殿と保和殿の間のあずまやのようなイメージ。

上の写真の右側

保和殿
ここで科挙の最終試験を行った。
(もっとも形だけである)

保和殿
この屋根の上の動物の像の数が故宮の建物の格式を現す。
ここより後ろは内廷となる。

保和殿の後ろ側
右の方に珍宝館がある。

甍の後ろに見えるのは景山公園
北京市内で最も高い処である。

九龍壁
足の指が5本あるのが皇帝の象徴。4本ならば皇族である。

寧寿門を入って皇極殿
85歳で引退した乾隆帝の居宮であった。
この後ろが寧寿宮。

寧寿宮 漢字と満州文字が並んでいる。
皇太后の居室であった。
この後方に珍宝館がある。

ラストエンペラーが自転車に乗る練習をした所。
ここを通って神武門に向かう。
この晩、わたしたちは北京ダックを食べた。確かに美味であるが、喧伝されるほどではない。
追記
調べたところではこの時の略奪に日本軍はいなかった。そのため市民に信用され、身の危険を感じた市民は、日本租界に逃げてきたほどである。
日本軍の対応
略奪が横行する中で、日本軍は比較的規律正しく行動したとされています。特に、柴五郎中佐率いる日本軍は、清国人の保護に努め、徴発・押買・略奪を許さなかったと伝えられています。そのため、他の外国軍の管区から日本軍の管区へ移住する住民もいたとされます。この日本の態度は、欧米列強からも高く評価され、後の日英同盟締結の一因ともなりました。
4 万里の長城
二十五日、北京郊外へ向かう。
明の十三陵はさほどのことはなく、ニュースは、岡本さんが写真を撮って罰金を取られたことくらいか。
万里の長城に行く前に昼食にしたが、ここでも例のメンテナンスの悪さを思う。
ガイドは食堂は新しいところだといった。しかし、玄関の柱をうっかり触ると、反り返ったペンキが剥がれ落ちる。よく見ると半分以上は無残にも剥がれていた。いったいどれほどの時の経過があったのだろうか。中の土産物屋が豪華なのが、さらにそれを強調する。
万里の長城、これは見る者を圧倒する。
八達嶺は北京北方の天然の城である。その山々の、尾根から尾根へ頂から頂へ、延々と連なっているのだ。材料はその土地で産出される物を用いているという。八達嶺の長城は石の城である。
ただし、前文と矛盾するようだが、意外に小さい。わたしでもその気になれば越えられそうだ。
北方中国の戦いは騎馬戦である。長城は馬止めの柵と同じなのだ。戦士はいくら越えても、馬が越えられなければ、もはや戦力とはならないのだ。
北京側からみたこの地域の入り口に、居庸関があった。昔、元軍が、孤立した金の北京城を睨んでここに入ったという。ここから先、元軍を阻む物は北京城の城壁しかない。北京を攻める格好の基地であることを実感する。
長城の上は歩くことができる。右が女坂、左が男坂である。わたしは岡本さんと岩下さんの三人で男坂を登る。幅二間ほどの半分階段半分急坂の道を十五分で最初の頂に着く。そこから先は今までの雑踏が嘘のように静かで風が心地よい。むかいの山は女坂である。芋を洗うような人ごみが見えた。
記念写真を撮る。中国語が必要なときは岡本さんに頼っていたが、このときもシヤッターを押すのを頼んだのは岡本さんである。
「エクスキューズミィ‥‥‥」
長城は月から見えるただ一つの建造物という。そう思わせる迫力があるが、実際には砂漠に溶け込んで見えないのではないか。現在では三分の一以上が消失している。しかも保存状態は悪い。
本を一冊買う。
5 老舎茶館
この晩、わたしたちは五人で老舎茶館に入った。お茶を飲みながら演芸を楽しむところだ。寄席を思えばよい。
長城の帰りのバスの中でガイドはいった。
「老舎茶館は日本人は行かないところです。知らないので。中国人も行かないところです。入場料が高いので。一流の芸人が義務として出演しています」
前門付近で老舎茶館を探してうろうろしていたところ、乞食の親子にまとわりつかれた。特に子供が岩下さんの手を握って離さないのだ。ようやくふりほどいたが、子供も必死であろう。
六時半ごろホテルを出て七時二十分にようやく老舎茶館に着く。ビルの三階である。演芸時間は七時四十分から九時二十分まで、出し物は京劇が目玉らしい。
テーブルによって料金が異なる。わたしたちは前から二番目の、料金が一人百元(1元=約12円)のテーブルについた。まもなく大勢の客が入ってきて、いっばいになる。わたしたちはちょうどよい時間に来たようだ。
お茶を飲みお菓子を食べながら芸を見る。
まず、京劇のおはやしである。そしてそれが定位地に移動すると、本番の京劇が始まった。若い女性の独り舞台である。ほとんどわからない。わたしは「中国おてもやん」と題をつけた。傍らに歌詞が映し出されているが、かなり早い。それをチラチラ見ながらの観劇である。今でも覚えている文がある。毎月のことを歌って、九月のとき「九月里九是重陽」と甲高い声で歌った。中国人も聞いているだけでは意味がわからないらしい。
歌を忘れて困ったり(もちろん演出である)、コミカルに動いたりして、わからなくても楽しめた。
この後、三組は「歌う漫談」とでもいおうか。年配の女性が歌い、男性が胡弓らしいもので伴奏する。ときどき男性も歌う。男性が歌ったときドッと笑い声がおこる。こんな感じであろうか。
「♪ あんたの浮気性にはあきれかえってしまうわ。どうしていつもあんなくだらない女に引っ掛かるのかしら。どうせ浮気をするのなら、もう少しましなのを選んだらどうなのよ。まったく。‥‥‥中略‥‥‥‥。こんなにひどい浮気性だとは思わなかったわ。どんな女でもかまわないんだから」
「♪ だからお前と結婚するはめになったんや」
笑い。
「♪ ゆうべはいったい何を食べたのよ。毎日まいにち宮廷料理だ、日本料理だ、フランス料理だ、お客様の奢りだ、‥‥‥中略‥‥‥。グルメだかなんだか知らないが、ろくな舌も持ってないくせに。すこしは自分の懐具合を考えたらどうなのよ」
「♪ お前の料理を食う者の身にもなってくれ」
笑い。
ともかく、中国語が判らないことには話にならないのであった。
棒をくわえて歌を歌うのは、腹話術の変形か。
これらの女声はすべて甲高い声である。
奇術はつまらなかった。わたしはアダチ竜光の奇術を何度も見ている。それに比べるとまるで素人である。
物まね。これは圧巻である。小鳥の声・馬の走り・自動車の運転・犬のほえ声とその喧嘩。物まねだけで芸になっており、漫談不要であった。
トリは漫才。ボケがほとんどしゃべり、つっこみはあいのてを入れるだけだ。大夫と才蔵の関係を思わせる。
ときどき、猪瀬(女)さんらしき笑い声が聞こえる。
普通語と上海語、それに少し北京語も入れて、お互い通じないための失敗談ないし滑稽談をしゃべっていたが、大変おもしろいらしく、一部の客はわいていた。しかし、これも言葉が判らなくては話にならない。どうやら中国人でも判らない人がいるようだ。わたしたちの斜め前に座った白人男性もつまらなそうな顔をしていた。
猪瀬(男)「北京語と普通話(プートンホォア)が通じないといっていたな」
猪瀬(女)「上海語が判らない人にはおもしろくないみたい」
わたしはガイドの言葉を思い出した。
「老舎茶館は一流の芸人が義務として出演しています」
どのような義務か判らないが、奇術以外はわたしも一流の芸人だと思う。ただマイクの使い方が下手なのが気になった。スピーカーを通すと声が大きすぎて割れてしまうのだ。本来マイクなどないところでやる芸なので、声が大きいのは必要条件だが、今後はマイク技術をマスターしないと一流の芸人とはいえなくなるのではなかろうか。
日本の寄席との差。お茶や菓子が出ること、言葉の判らない客人も入ること、前座が出ないこと。
(芸人に上手も下手もなかりけり 行く先々の水に合わねば)
帰り道、眼鏡を落としてしまった。そろそろ替えどきだったので、粗末に扱っていたためだ。しかし、なければ仕事に困る。
地下道で本を一冊買った。
6 頤和園
三日目は六人で頤和園に行った。土屋さんは世界公園に行き、猪瀬(女)さんも別行動である。
この日も相変わらず暑い。頤和園は昆明湖も入れると大変な広さだ。
入場券売り場で十元を出していう。
「一張」
しかし、切符売り場のおばさんは隣の窓口に行くよう指示を出す。隣では三十五元だといわれた。外国人専用で、なんと三十五元なのであった。たいした金額ではないが、気分が壊れる。
まず昆明湖の縁に出た。池はかなり大きい。右に折れ、池に沿った長廊を歩く。この長廊の両側の欄間には絵が画かれている。関羽が碁を打ちながら腕を手術させている図・首枷をはめた囚人の図・四季の草花・小鳥・仙人など題材は多い。色も鮮やかである。長廊の長さは七百二十八メートルもあるため、まともに見ていては首が痛くなってしまう。この長廊半ばの右手の山の上に仏香閣がある。
長廊をつきあたりまで行き、そこから遊覧船に乗って南湖島まで往復した。船から見ると仏香閣がこの園の中心のようだ。この仏香閣に登るのが一仕事であった。それでも万里の長城に比べれば楽だが‥‥‥。
わたしたちは長廊を往復したが、山の上や裏側にも見どころはあるようだ。
『天まで届く古木、清流はくねくねと続き、格別な趣がある。諧趣園は園中の園といわれている』
なお、見なかったが、中国を救った耶律楚材の墓も入口の近くにある。
耶律楚材は契丹(きったん)族の出身で、中書令(中国では宰相に相当)になった。しかし実際は契丹の中書令は書記官だった。
さて、一行のなかに一人のうら若き乙女がいた。S小姐と申し上げる。
このS小姐は些細なことでも感激し、ニコニコして右手でVマークをつくる。わたしが一冊本を買ったところ、ニコニコして「やったわね」と指を二十度くらいに広げてVマークを出した。切符を買うときや、船に乗るときなど、本当にうれしそうだ。
このS小姐がトイレから出てきて、これ以上はないというニコニコ顔で三十度くらいのVマークをつくった。それほど我慢をしていたのかと思ったが、そうはいえず、お世辞にいった。
「どうした? あなたの中国語が通じた?」
「ううん、料金が二角だったの」
もう一人、U小姐はS小姐とは対照的にいつも沈着冷静である。ところが思わぬとき、普通の女であることが判ってしまった。
無料トイレに入ったときである。わたしたちが先に出て表で待っていると、血相を変えて飛び出してきた。強烈なアンモニアの匂いで気持ちが悪くなり、吐きそうになったという。有料トイレまで我慢してもらうことになった。そして他の女性はなにごともなかったように出てきたのである。
この後、二台のタクシーで北京動物園まで行った。目的はパンダである。ここで食事をする予定であったが、適当なところがなく、動物園に入り、そこでビスケットなどを買い、昼食の代わりとする。
パンダ舎に入るとパンダは昼寝中である。が、その寝相の悪い(?)こと。わたしにはとても口では説明できない。外にも三頭いた。写真になったのは少し小さめの一頭だけである。
動物園の外に出てから、金絲猴がここにいるのに気がついた。これは見ておきたかった。
7 景山公園
岡本さんと岩下さんとわたしの三人で、動物園の前からタクシーに乗り、景山公園に行った。
タクシーは裏通りを通って公園の門前に着いた。しかし、どこかおかしい。道の左側のはずだが、右側についた。
また山登りである。頂上の建物につくと風がここちよく吹いている。見下ろせば故宮博物院が‥‥‥、あれ‥‥‥。眼下に大きな門、そして通りの両側に楼閣が並び‥‥‥、通りなんてあったかしら? そして突き当たりにもおおきな楼閣があり、左手には大きな池がある。ここから見えるのは北海公園の池のはずだが。
建物を半周すると、故宮博物院の広大な屋根の群れが見えた。ようやく裏側から登ったことに気づいた。まだ、日の照っている時間であるが、全体がかすんで見える。腰を下ろしてこの絶景を眺めた。わたしにとって、このときが今回の旅行のハイライトであった。
故宮の巨大さを実感する。手前の神武門からかすむ天安門まで、左右の角楼、文字どおり数え切れない重なる屋根、そして意外なことにかなりの樹木が見える。故宮は砂漠ではなかったのだ。
この景山公園は石炭の山だという説があった。いざ、北京が孤立したとき、燃料に困らないように備えたという。しかし、どうも眉唾のようだ。隣に見える巨大な池を作り、そこを掘った土で山を作ったのが真相らしい。
下山しようとしたところ、そこで写真サービスをやっている人がいた。西遊記の三人の従者がいて、観光客が玄奘三蔵となって記念写真を撮るのである。キャストがピッタリで笑ってしまう。特に猪八戒は腹が膨れてイメージどおりなのだ。
笑いながら昨日買った本を思い出す。こんな話があった。
待ち合わせをして、先に来た男の子が木の陰に隠れる。女の子が来たとき、男の子は両手で女の子の目を覆った。
「ボクはだーれーだ。三回言っても当たらないと、キスをしてしまうぞ」
そんなことをされてはオヨメに行けなくなる、こともないだろうが、女の子は必死で考えた。
「あなたは姜太公? 猛張飛? では唐三蔵?」
唐三蔵は一人ではないが、この場合は玄奘三蔵に違いない。孫悟空ではなく唐三蔵、諸葛孔明ではなく張飛、文王でも周公でもなく姜太公。この人選がおかしい。
ゆっくりと下山した。途中なかなかに枝振りのよい木がある。どうせ首を吊るなら、ここで吊りたいと思う。昔、同じことを考えた皇帝がいた。考えたばかりでなく実行した。そばにそのことを書いた案内板が立っている。
岩下さんの説明によれば、明朝の最後の皇帝は、敵に攻め込まれて、従者一人を従えてここまで逃げてきたが、その従者が様子をみるため下に行っている間に、ここで首を吊って自殺してしまったらしい。最期の判らない最初にして最後の皇帝であるという。
一度ホテルに帰り、他の人たちとも顔をあわせた。岡本さんが言った。
「天安門に行きませんか」
「ええ」「行きましょう」
「わたしが天安門の上にいるから、誰か広場から写真を撮ってくれませんか」
当然ながら、みんな用事を思い出した。
8 晋陽飯荘と経済
26日の夜は、再度北京ダックを食べた。
念のため付け加えると、いろいろな料理が出て、最後に北京ダックが出る。ローストチキンのような皮を、小さく切って食べやすくしてある。これを、ネギのようなものを千切りのようにして醤油のようなタレをつけ、ギョウザの皮のようなものでくるみ、小さな手巻き寿司のような形にして、手でつまんで食べるのだ。
‥‥ような‥‥ような‥‥が続くが、つまり、わたしのような知識のない者が料理を説明するのが、そもそも無理なようなのである。
土屋さんの仕事関係の方で北京に駐在している商社マンと、土屋さんの元中国語の先生の両親による接待を受けた。
ラクダの足やサソリなど、二度と食べることはないかも知れない。
サソリは、小さな饅頭のようなものの上に‥‥‥。
商社マンが北京飯店まで迎えに来てくれて、タクシーに分乗して餐庁に向かう。かなり遠かった。
「北京はどうですか」
「ずいぶん、経済発展しているようですね。なんでも北京の五パーセントの人は一千万円以上の収入があると聞きました」
「そうなんですよ。ひとつき百万とか二百万とか、日本人が聞いてもびっくりするような収入の人がいくらでもいます。でも、残りの九十パーセントの人は一万円にもならないのです」
中国ではそれでも生活できるのだ。家賃は無料に近く、野菜など数十円で山のように買える。ただ、その野菜を供給する農家は、当然、高収入は望めない。高収入の人は結局商人なのである。
「なにしろ、こちらでは倒産がありませんからね」
「公共企業だから?」
「いえいえ、私企業でも。払えなくなると、お金がないから払えない、で終わりです。だから中国で商売をするのは難しいんです」
倒産とは、振り出した手形を落とせなく(支払えなく)なり、銀行取引を停止されることだから、たしかに倒産はないだろう。そういうことを平気でできる人だから、高収入を得られるのかと、ちょっと複雑な気持ちになる。
「この辺り、古い家が多いですねえ。取り壊して建て替えるようなことはしないのですか」
「とてもそこまで手が回りません。とにかく家が足りないので、新しい家を建てるのでせいいっばいですよ」
晋陽飯荘は間口が一間半ほどのめだたない構えだ。しかし、入り口にあるその名前をかいた額(というのかな)は郭沫若の筆になる見事なものだ。彼もよく利用した店のようだ。
鰻の寝床のような家で、奥が広い。北京ビールを飲みながら、見たこともない料理を食べる。メニューを見てなんとか見当をつける。今回の旅行ではよくビールを飲むが、ビールの値段は水と同じくらいである。味道鮮美。
ホテルに帰ってから、王府井を散歩するが、ただの道であった。眼鏡を買う。百三十元(約千六百円)也。
夜、土屋さんがいただいたスイカをみんなで食べる。かなり甘い。
わたしはなんと餐庁の名を忘れてしまった。
「岡本さん、名前なんといったかしら、なんとか飯館」
「晋陽飯荘、飯館ではなく飯荘よ」
「荘だったのか」
「そうだったのよ」
9 雍和宮など
二十七日、朝食を済ませてから、学習会の六人で前門に行く。地下鉄に乗って雍和宮に行く予定なのである。
地下鉄の切符売り場は混んでいた。しかし、切符の買い方がそれに輪をかけた。誰も並びはしない。小さな窓口に四五人が五角をもって手をつっこむ。駅員はお金を取って切符を渡す。最初は経験である。しかし、おそらく二三回は我慢できても、その後は耐えられないだろう。できればタクシーで次の駅まで行き、そこから乗りたい。
通勤ばかりでなく、地下鉄見学のためにお上りさんも乗り込み、一日中混んでいるそうだ。しかも、前門駅は故宮見学の下車駅だ。
雍和宮の駅はほとんど人がいなかった。地上に出るとそこが雍和宮だが、塀に沿って入り口までかなり歩く。
門を入ってから建物まで、短いながら両側に木を植えてある。建物はかなり派手な色彩であるが、掃き清められた感じがして、落ち着いた雰囲気でもある。香が焚かれ、僧侶もおり、お賽銭をあげる人も多く、信仰は今も生きている。
雍和宮はラマ教寺院だ。建物は多い。一番奥の建物は黄金の大仏が立っている。顔は天井より高く外の光が当たる。
猪瀬(女)さんが言った。
「文革のときよく壊されなかったわね。信者が守ったのかしら」
「ラマ教従は信仰心が強いから、命懸けで守ったのかもしれないな」
建物は中国的でも、どこか日本的な雰囲気のするところであった。
ここで猪瀬会長と別れる。
近くの首都博物館へ行く。道の両側は昔風の家が並ぶ。大きな塀に囲まれ、一族郎党が住む。ちょっと近寄り難い雰囲気である。博物館はもと孔子廟であった。
入ったとき、古楽器の演奏をしていた。こんな音がしますという程度だ。『へ』の字型をした石板は澄んだ音がする。
釣り鐘を並べた楽器、琴瑟など、わたしはたいへん興味を持って見た。その他も、もし本物ならかなりのものと思うが、残念ながら、みな埃を被り、近寄って見ることもできず、博物館の名に値しない。
岩下さんの希望で、わたしたちもその指にとまって、見学に行ったのであるが、本人はあてが外れたようだ。わたしも予想とはだいぶ違った。それでも、はじめての人には見るだけの価値があると思う。
昼食は北海公園で宮廷料理を食べた。
服務小姐がメニューを広げて猪瀬(女)さんに渡す。岡本さんも覗く。緊張の色が走る。他のページをめくる。
「一人五百元なのでびっくりした」
服務小姐は一人五百元のところを広げて渡してくれたが、百元・百五十元・二百元などいろいろあった。
「二百元くらいでどうかしら」
日本円で二千四百円ならよかろう。
岩下さんが言った。
「杏仁豆腐があるので百五十元のにしよう」
またもや、みな岩下さんの指にとまった。
あまり油を使わず、味は日本料理のようで食べやすい。北京ビールを飲みながら食べる。
服務小姐は宮廷的服装でかわいい。沓は下がポックリのような形をしている。あたまには冠を戴き、ゆっくり歩く。どのような身分の人をどの程度正確に模しているのだろうか。
話は飛ぶが、この夜北京飯店で日本料理を食べた。この服務小姐の服装がなぜか違和感があるのだ。左前でもないし‥‥‥。女性陣が解説してくれた。
「あの着物は上下が別々で、帯は子供用だから。五六歳くらいまであのような結び方をするでしょう。それにあの歩き方では」
それを大人が着たら当然違和感がある。なかにきちんと着物を着ている人がいたが、その人が一言言うと、小姐たちはサッと反応した。
昼食後、一人でタクシーに乗り、天安門に行く。目的は門前の博物館である。しかしタクシーは午門に着いた。天安門はここからの方が行きやすいという。この日は晴れていたので午門が輝いていた。天安門はすぐ近くだ。
中国革命歴史博物館は世界自然科学博覧会と称していた。十元で入ってみると子供の遊び場であった。隣の1元の写真展を見た。
天安門は中国人十元・外国人三十元である。切符売り場で百元を出し、「一個」と声を出すと、九十元のお釣りをくれた。腹の中でVマークを出しながら、門に入る門に行くと、服務員に「荷物だめ」と日本語で言われてしまった。荷物を預け、天安門に上った。
この後、始皇帝の兵馬俑八体と現地の模型を見る。
この晩一人で東安夜市を見た。屋台が並び、すさまじい迫力だ。猪瀬(女)さんはここで食べたことがあると言っていたが、わたしにはとても手が出ない。
かなり前のことだが、台湾で食べて下痢をおこし、ホテルの服務小姐(五十歳くらい)に、日本人は絶対に屋台の料理は食べてはいけませんと、言われたことを思い出した。おおげさであろうが、日本人は必ず下痢になると言う。
この夜もスイカを食べた。
10 祝福
帰国の日、マイクロバスに乗って天壇公園に向かう。その後、昼食をとり、空港に向かうことになる。
ガイドは、日本語を外語学院で学んだだけで、日本に行ったことはないと言うが、たいへんうまい。「お久しぶりです」などと冗談を言う。こちらも負けずに「好久没見」と言った。
なにしろ、最初に言われたことは「道を横断するとき、何が一番必要か」で、答えは「勇気」である。この冗談が北京の交通事情を何よりも物語っている。
自動車が多く、特に黄色の車が目につく。黄色の車、すなわちタクシーである。最低料金のミィエンティ(面的=食パンのようなタクシー)は十キロメートル以内は十元(1元=約12円)である。これには1元の表示がある。1.6元なら中級、2元なら高級車だ。
タクシー以外の庶民の足はトローリーバスである。二台のバスをつなげたようだ。
さらに自転車も多い。そして大通り以外には専用道路はない。もっとも、日本は大通りにも自転車専用道路はなく、歩道を自転車が通る、とんでもない交通事情の国なのだ。
天壇公園も広い。もとは皇帝が天を祀るところである。皇帝は天子であり、天を祀るのは最も重要な仕事なのである。公園内の建物のデザインは清朝的であった。円を基調とし、色なら藍、屋根の瓦も放射状である。屋内の天井などに描かれた模様は色鮮やかである。
この公園を通り抜けるように歩いたが、まわりに樹が多く、精神的には落ち着ける。
朝早く、会長たち五人は太極拳をやるためにこの公園に来ている。ゆうべスイカを食べながら、S小姐は会長にハッパをかけていた。
「先生、あしたは四時起きよ。中国人に太極拳を教えるのが今回の旅行の目的なんですからね」
「早すぎるよー。六時ごろでいいじゃないか」
「ダメ、絶対に四時起きね」
四時には起きなかったようだが、それでも朝食までに戻ってきた。例のごとくニコニコしながら、二十六度くらいのVマークを出した。
空港に向かい、途中で食事をする。このとき隣の部屋で結婚披露宴が行われていた。これも何かの縁であろう。わたしたちも服務小姐に相談し、十元づつ出し合って百元を包んだ。
「百元では少なくないだろうか」
「いいえ、決して少なくありません」
そう言って袋を持ってきてくれた。日本語がほぼ話せるこの小姐のサービスは満点であった。新郎新婦がわたしたちのテーブルに来て乾杯した。記念写真を撮り、わたしたちは飴玉を貰う。こんなハプニンクがあったことも、今回の旅行をしめくくるよい思い出となることだろう。

