2011年12月03日

中国文物図説 国立故宮博物院手冊

中國文物圖説 國立故宮博物院手册
国立故宮博物院   中華民国六十九年(1980年)九月 十六版

 初めて台湾を旅行したのは、1980年の12月から81年正月にかけての5日間のツアーであった。二日間はバスで台北市内観光。後は自由行動であった。故宮博物院も当然団体で案内される。二日後、自由行動のときに一人でもう一度故宮博物院へ行き、一日を過ごした。
 そのおり買い求めたのが本書である。

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 中身は繁体字の中国語(いわゆる北京語)であり、当時はまるで読めなかった。いまでも基本的には読めないのであるが…。

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 当時の全体像である。
 後ろの山に洞窟がありその中に文物が収納されている。それを三ヶ月ごとに順繰りに展示するのだが、全部見るには60年かかるとか。ただし、代表的なものは常設展示されている。
 当時もこの写真とは少し変わっていた。

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 大堂から門のほうを見る。前の芝生はこのようにすでに整備されており、左の方(門から大堂に向かって右側)は、後に庭園となっている。
 この本は展示品の案内書である。
 銅器・玉器・瓷器・彫刻・漆器・文具・琺瑯・法書・絵画・織繍・図像・図書・文献・附録、に分けて細かく解説している。
 最後の付録に、紫禁城にあるはずの宝物がなぜ台北にあるか、などを説明している。
 日中戦争の混乱から守るため、1933年に上海に運んだ(13491箱)。そして南京をえて成都などに分散し、第二次大戦後(1948〜1949)、国民党によって台湾に運び出されたのである(2972箱)。
 そんな解説で約半分の90頁ほどを費やし、後半の140頁ほどを写真集にしてある。
 青銅器は特に圧倒されてしまう。西周晩期の「毛公鼎」はかなり大きな物で直径は48センチほどだが、内側にびっしりと文字が書かれていて、その文字がこの博物館の最高の宝であるという。

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清 翠玉白菜
 わたしの一番好きなものは、この翠玉でできた「白菜」である。
 今年の春だったか、これを含めた門外不出の品が、日本で見られそうだというニュースがあった。新聞でもこの写真があったので記憶している方もいよう。ことしの3月に日本の法律が整い、日本に持ち込むことができるようになったのだ。2014年ころを予定しているという。もちろんそのときは大変な混みようで、じっくり見ることはできないだろう。わたしはすでに7回ほど見ている。

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文姫帰漢図
 図も部分図であるが、胡笳十八拍も一部分「第十八拍」
 蔡文姫に関しては たくせんの中国世界−蔡文姫 −曹操が激賞した天才−  を参照してください。
 わたしの手元の資料では胡笳十八拍の「第十八拍」は

   胡笳本是 出胡中
   絲琴翻出 音律同
   十八拍兮 曲雖終
   響有余兮 思無窮
   是知絲竹微妙兮 均造化之功
   哀樂各隨人心兮 有變則通
   胡與漢兮 異域殊風
   天與地隔兮 子西母東
   若我怨気兮 浩浩於長空
   六合雖廣兮 受之應不容


 であって、この写真とは異なる。わたしが参考にしている「詩詞世界」の 碇豊長の… では、わたしの資料とは少し違うが、ほとんど同じ。してみるとこの写真の文は「胡笳十八拍」のうちの「第十八拍」の説明と思える。

 山水画も多い。名筆もある。これらはあまり展示品としては見られなかったように思う。いつも最後の部屋になるので印象が薄いのか。

 以下の話は陳舜臣さんの説明であり、本に書いてあるというわけではない。
 一点の作品に三代も四代もかかった話には気が重くなる。その奴隷は一生かかっても、自分の作品を見ることができなかったことになる。まして、一生を穴蔵で過ごし青銅器を作り続けた人には、ただ悲惨としかいいようがない。
 これが商(殷)の時代の青銅器が最も優れている理由だが、殷周革命後、周はこれら奴隷を解放したため、生産技能がだんだん低下している。

 この本を紹介しても、もう手に入れることはできないが、同じような案内書ができているだろう。
 わたしは台湾に行くたびに、帰国の日の前日は台北に行き、故宮博物院で過ごしていた。そして次の日の便で帰ってきた。定宿は台北駅近くの「YMCA」、今でもあるのだろうか。
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2011年08月08日

台湾は独立国ですか?

2011.8.8記
2011.9.2追記
2011.11.11追記

…………………………
2011.8.8記

 このような話は、いつもは雲外の峰に書いているが、問題が限定されるのでこちらに書く。
「三地門1」に付いたコメント。2007年のことだが、

中国ではなく、台湾です。台湾と中国は違います。
ですので、直していただければ、有難く存じます。
                  張

というコメントがあった。
 日本人のお手本にしたいようなきちんとした丁寧な日本語であるが、惜しむらく、言葉が足りない。それで台湾人らしく思えるが、なんともいえない。この種のコメントは政治的背景のある可能性が大きい。しかもこの記事の中には「台湾は中国」とも「中国は台湾」ともいっていないのだ。ブログ名で中国世界といっているだけ。最初はプログラム投稿と思った。
 ポイントは三つ
>台湾と中国は違います。
 当然である。台湾省は中国の一部であって、中国が台湾省の一部ではない。しかし、コメントの意味はそんなことではなさそう。ではどこが違う。
>中国ではなく、台湾です。
 何が? その文中には中国という言葉は使っていない。だから「台湾です」といわれてもそのような語彙はない。ブログ名が「たくせんの中国世界」ではあるがこれは名前。
>ですので、直していただければ、有難く存じます。
 どこをどう直すのか、その指摘はない。もちろんその文中には直す場所がない。

 目次を見ればわかるように、わたしは大陸中国と台湾を区別している。
 「台湾は中国だ。中国の外のような扱いをするな」というコメントは覚悟していたが、「台湾と中国は違います」というコメントは意外だった。当たり前過ぎるからだ。だからその当たり前をわざわざ書く意図を推測して返事を書いた。
 台湾ばかりでなく、大陸中国も書いてあり、香港・マカオ・各国のチャイナタウンも入れる予定。それで、「中国(世界)を台湾(世界)に変えるわけにはいかない」と答えた。台湾世界と書いて西域が入っていたらおかしい。そう伝わったかどうか。本気なら更なる質問があると思い、そのときに質問にそって詳しく説明するつもりだった。だが質問はない。おそらくわたしのコメントを読んでいないだろう。書きっぱなしと思われる。

 台湾と中国の問題は、
2006年 李登輝 −中国最初の民主政治家−
2006年 朱鎔基 −普通に退任した首相−
2006年 仮の都台北
などに書いているので、張さんもそちらにコメントしてくれたなら、問題がはっきりするので、違った答え方をしたであろう。それを中国とは一切書いてない「三地門」にコメントしてきたので、読んでいない、理解していないなと思った。
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2006年05月12日

高山青2 祝山・石猴

 
 朝は早めに朝食をとり、日の出を見るため列車で祝山に行く。阿里山観光の目玉なので、旅館も心得ていて、その時間に合わせて食事の支度をしてくれた。

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高山青1 阿里山

 1986年、台湾 阿里山の思い出である。
 嘉義から登山列車で登った。当時すでにバスでも登れるようになってた。
鉄道距離km 嘉義市 27 独立山 63 第一分道 69 神木 72 阿里山
標  高m    30     741    1827   2150    2274

 嘉義から阿里山まで直線距離では35キロ。往時は4時間半かかった記憶があるが、現在の時刻表では3時間半である。標高は旧駅あたりと思われる。今は立派な駅が建っている。嘉義市は北回帰線の通る市としても有名。
 注:05年、現在の観光案内書では、すぐ隣に阿里山臨時駅がある。駅はすでに改修が済んでいるかも知れない。駅は旧駅と表示されているのが、ここでいう新駅。

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 阿里山森林鉄路嘉義駅に登山列車が入ってきた。
 
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 車輌はかなり小さい。通路を挟んで、片方に二人もう片方に一人、横に三人が腰掛ける。
 特急では服務小姐(サービス嬢)が熱いお茶を配る。数回、薬缶を持って、湯を注ぎに来た。
 嘉義の駅を出ると両側に製材所・木工所が並んでいる間を通り抜ける。この間、警笛を鳴らし続ける。まもなく、農村地帯にはいる。一面タバコの畑である。
 中間あたりにある独立山を三周して二百メートルほど登る。トンネルを抜けるたびに高くなっていくのが判る。

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 阿里山地区に入っている。窓外の景色はすでに高山である。

    高山青
♪ ナイルワー ナイヤヤナヘー
  高山青潤水藍
  阿里山的姑娘美如水呀
  阿里山的少年壮如山
  高山長青
  潤水長藍
  姑娘和那少年永不分呀
  碧水常囲着青山転
(山地国語歌曲より)


 台湾を代表するこの歌は、題名を「阿里山の娘」とする紹介もあった。だが、普通「阿里山の娘」は別な歌を指す。

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 阿里山の駅に到着。駅から出るには観光地域に入るための料金を払う。山岳地帯に入るには、さらに別な許可証が必要になる。ただし入手は難しくない。
 阿里山はツォー族の村だが、中心は山麓の十字路あたりになる。
1965年ごろの統計で人口3,638人。
1998年では7,116人である。

(以下は鈴木明−高砂族に捧げるより)
 阿里山の娘で香港のスター「湯蘭花」の1976年のあるインタビュー。

左右は、…ぐらい の意味、左右の意味もある。
ni.jpgは、あなた  の意味。

「あなたは全部で何本の映画にでましたか」
「三十五本左右」
「一番好きな歌は」
「我在ni.jpg左右」
「体重は」
「115ボンド左右」
「結婚したら子供はどのくらい欲しいですか」
「二人左右」
「ああ、どうしてあなたの答えには、いつもそのように左右がつくのですか」
「だって、もう五年間も毎日毎日『我在ni.jpg左右(わたしはあなたのそばにいる)』
という歌を歌ってきたんですもの…」

 着いたその日の夕方は、夕焼けが見られた。
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 このあたりの適当な地図がないので、それほど広いところではないが、判りにくい。説明はひとつひとつ。
 
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 象鼻樹。優しい目をした象に見えませんか。
 向こうは三代木。巨木が倒れたが、そのあと株から芽を出し大木に成長した。その木が倒れてからさらに芽を出し、三代目の木が育ったという。
 あちこちの道は整備されていて、歩きやすい。
 
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 姉妹潭 山中に現れれた小さな池
 
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 永結同心。姉妹潭の傍らに立つ。二本の木が手を結んだような形をしている。永結同心は結婚祝いの代表的な言葉。ここに一人でいるとは悲しい。
 この先で「雪中茶」を振る舞われた。

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 御神木。この巨木は殆ど枯れていて、中はがらんどうになっている。列車はここでスイッチバックをする。
 1997年、雷によって倒壊した。
  樹高   52メートル
  胸高直径 466センチ
  樹齢   3000年
 
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 駅前で見つけた細い道を入っていく。樹齢は六十年と見当をつけた。
 僅かな土地に、こうして作物を植えてある。この先、少し広めの畑があって、行き止まりである。

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 光武檜。寺の脇の林にあった巨木。樹齢2300年と推定される。御神木より一回り小さいように思えた。
 この近くに蝶の博物館がある。建物は小さく、あまり知られていないが、蝶の標本は充実している。興味のある方は是非見て頂きたい。
posted by たくせん(謫仙) at 14:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾 八十年代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月11日

三地門2 彫刻の村

 原住民族文化園区の近くを歩く。
 ここの集落の正しい地名が判らず困った。判らないまま公開することにする。園の門からすぐ近くに開けた村がある。バス停は「水門」といったが土地の名かどうか。
 歩いているとお茶に呼ばれた。その家は普通の民家であるが、このような彫刻が窓にある。

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    蛇の彫刻
 三歩蛇・百歩蛇というマムシ系の猛毒の蛇がいて、神聖視されている。名の由来は、噛まれると三歩あるいは百歩歩くまでに死ぬというのだ。どちらの蛇も同じような猛毒である。

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posted by たくせん(謫仙) at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾 八十年代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三地門1 原住民族文化園

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原住民族文化園区写真集

 台湾のサンテモン(三地門または山地門とも)に「台湾山地文化園区(当時)」がある。いまでは「原住民族文化園区」と名を変えた。高山族の文化村である。
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posted by たくせん(謫仙) at 18:16| Comment(16) | TrackBack(0) | 台湾 八十年代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月07日

太魯閣峡谷

 台湾東部の花蓮県にある太魯閣国家公園
 台湾を代表する景勝地である。川の名は立霧渓というのだが、なぜか観光地図には太魯閣峡谷として載っている。見渡せば高さ200メートルもの大理石の峡谷である。それが約20キロほど続く。
ネットで調べたところ、タロコはタイヤル族の長の名を取ったという。
わたしは花蓮からバスで天祥まで行き、歩いて長春祠(もっと下か)まで降りてきた。
約6時間歩いた。
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posted by たくせん(謫仙) at 15:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾 八十年代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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 台湾の最南端にある墾丁公園にある木、銀葉板根という。葉は写っていないが、白っぽい。根が板状になるのは熱帯に多く見られる。土が浅いのか、削られるに土に合わせて根を下に発達させたため板状になったのか。

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 嘉義の公園内にあった。公園の入り口にいる管理人は旧日本兵だったらしく、今でも(当時)日本にいる戦友とは会うことがあると言っていた。わたしはかなり広い公園に思えたが、その人は小さくなってしまったと言う。
 細い方の木が根をからませたが、太い木のほうが成長が早く、浮き上がってしまった。

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 今はなき、阿里山の神木、中は空洞になっていて、ほとんど枯れていた。後に雷に打たれて、倒壊した。
高さ52メートル、胸の高さの直径4662CMと読める。466.2でしょう。
全体像は「高山青」にあります。
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日月潭・玄奘寺

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 日月潭の文武廟の門、文武廟は各地にあるがここは高名。
 この前の道を左手の奥に行くとサオ族(邵:Saou)の部落になる。現在二百数十名で、民族消滅の危機に直面している。私が行ったころは人口は五百くらいであった。この少数で独特の言語サオ語を話す。ここで会った三十歳くらいの女性は、近くで土産物(宝石)屋をしていたが、サオ語・日本語・台湾語・北京語・英語をこなす。

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posted by たくせん(謫仙) at 14:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾 八十年代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

子どもたち

この写真はどこで撮ったのか覚えていない。台中の公園であろう。


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小野柳

 台湾の台東市の近くに小野柳というところがある。台湾北部に奇岩の並ぶ野柳があり、それに準じたところの意味である。晴れた日には沖合に緑島が見える。この海岸まで足を伸ばした。


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2006年05月06日

仮の都台北

 1980〜1981
 高度成長前の台北である。台北5日間というツアーであった。
 なお、次回からはツアーに頼らず、飛行機の切符のみで台湾に行き、自分でホテルを探した。
 台北の定宿は駅前のYMCAであるが、この時は「統一大飯店」であった。ホテルに着いて、ホテルの近くを散歩しようと外に出た。まず、目に入ったのが、「毋忘在きょ.gif」の文字である。

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「毋忘在きょ.gif」は台湾を象徴する。
「キョにあるを忘るなかれ」と読む

 その昔、斉の国は燕の名将楽毅によって滅ぼされそうになった。最後にはきょ.gifと即墨の二つの城市しか残っていなかった。そこからまた回復して国を元の大きさに戻したのである。今の台湾をその斉になぞらえたのである。

さて、バスでの市内観光が始まった。

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     総統府

 総統府は当然首都にあるはずだが、台北は首都ではない。首都は南京である。それが共産党に占領されてしまったので、仮に台北に置いた。国会は選挙ができないため、終戦当時の議員がそのまま居座り、わずかに台湾省選出議員のみが改選されていた。事実上国会は改選がなかったのを、後に李登輝が総統になって、国会を改選した。終身議員を引退させたのだ。
 当時、省議会は遠い田舎に追いやられ名のみであった。李登輝はそれも解散し、二つの政府状態を解消した。

 つぎは龍山寺である。庶民の街にあり、東京の浅草寺にたとえられる。屋根上の像・室内の装飾・柱の彫刻など、かなり装飾過剰である。
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 二日目
 忠烈祠は衛兵の交代式が有名であり、それに選ばれることは名誉であるのだが、失礼ながら、わたしには人形遊びにしか思えない。

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        忠烈祠

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            本物の銃剣である。

そして故宮博物院
ここに中国の宝物が集中している理由は「北京を想う」に書いた。

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      故宮博物院

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 中國文物圖説より

 手前の芝生は下のように整備されており、右側手前は後に庭園となっている。
 後ろの山に洞窟がありその中に文物が収納されている。それを三ヶ月ごとに順繰りに展示するのだが、全部見るには60年かかるとか。ただし、代表的なものは常設展示されている。

 以下は、二日後一人で博物館に行った時の写真です。

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    空襲があったときはここに逃げよという案内。

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   館から門のほうを見る。

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      門の守り


 2日目の午後は自由時間。地図を頼りにホテルの近くを一人で歩いた。以下、帰国するまで夕食以外は自由時間であった。
そのため、以下の写真は何日目かはっきりしない。

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     住宅街であろう。正面は公園(孔子廟)の門。

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     圓山大飯店(グランドホテル)


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        動物園の説明
 開放時間
  午前9時から午後5時(月曜は休み)
 全票 5元
  身長1.45メートル以上
 半票 3元
  制服の軍人と警察 および
  身長1.45メートル以下1.15メートル以上
  身長1.15以下の子供は免票

 これは鉄道・バス・映画館・博物館など、どこでもそうで、軍人と警官は優遇されていた。現在はどうなんだろう。

 動物園ではわたしの隣には若い女性がいた。門前でナンパされたのだ。日本語はうまかった。何度か、♪♪根なし足なし浮き草の〜〜、と唄っていた。話の様子では、夜の仕事をしているらしい。それがお茶を引いてしまって、案内役を買って出たようだった。
 昼食をおごったが、その女性の案内する店で、二人で120元。日本円にして500円くらいか。夕方近くなって、「これから仕事だから、さよなら」「サイチェン」

 台北駅の南側に行く。

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     二枚は台北新公園

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      南門
 城門というが、城とは町(城市)のこと。町の門と思って下さい。日本の城は、牙城(軍事的将軍のいるところ)に相当する。

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  中正記念館の門。中正とは蒋介石の号である。

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       中正記念館に向かって。
 前の黒服は女子学生である。当時、学生は黒服が義務づけられていた。共産党軍の空襲があったら、素早く逃げるためである。故宮博物院にあった、逃げる道の表示も同じ。   
 そうは言ってもそれはたてまえで、一般の人たちは自由な服装をしている。
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 この門の両側には今では音楽堂などが建てられている。
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2006年04月27日

山里

山里(sanli)は台東の続きになります。

 1990年元旦
 元旦とはいっても、正月は旧暦で祝う習慣なので、普通の祝日である。
 台東から山里まで約14kmだったと思う。
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posted by たくせん(謫仙) at 18:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾 八十年代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

台東

 1982年正月、台東に行った。
 旅行案内書には人口4万と書かれていたが、すでに6万を越えていた。
 現在(2003)では約11万である。
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posted by たくせん(謫仙) at 14:04| Comment(4) | TrackBack(0) | 台湾 八十年代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする