2013年07月17日

李清照 年表(後)

李清照 年表(後)  (誕生から晩年まで)
  
 西暦と年号では一ヶ月以上ずれていている。そのため一年のずれが生じることがある。
西暦、年号 (李清照年齢)
    主な出来事   ☆印は李清照関連   ★印は宋関連
   ……………………………………………………

1084  元豊7(1歳) 司馬光 資治通鑑を著す。
☆李清照生まれる。山東省済南。なお「李清照詞析賞」では元豊6年となっている。
 この表は「政和4年31歳」と「建中靖国元年18歳」を基準にした。年齢は数え年である。
1085  元豊8(2) ★哲宗(在位1085−1100) 3月に即位、10歳。
 ★司馬光 宰相になる。
 この後、哲宗が親政するまでの間、旧法派が権力を得て、王安石の新法を廃す。新法派を弾圧する。国家経営が行き詰まり、新法が始まったのだが、それを元に戻したので、当然ながら行き詰まったままである。
 司馬光は、高官の地位は特権ではなく、努力や能力によって手に入れたのである。と考えていた。このころまでは、新旧の争いは政策論争であったが、この後は党派の争い(権力争い)になる。
☆李清照の父李格非は旧法派に属していた。
1086  元祐1(3)  4月王安石死す。9月司馬光死す。
1087  元祐2(4)  
1088  元祐3(5)  
1089  元祐4(6)  
1090  元祐5(7)  
1091  元祐6(8)  
1092  元祐7(9)  
1093  元祐8(10) ★哲宗親政。太皇太后高氏没す。 新法を復活させる。
1094  紹聖1(11) ★章惇 宰相になる。 章惇は新法派であり、元祐年間に旧法に戻した者たちを元祐姦党として弾圧した。
1095  紹聖2(12)
  
1096  紹聖3(13)  
1097  紹聖4(14)  
1098  元符1(15)  
1099  元符2(16)  
1100  元符3(17) ★徽宗(在位1100−1125) 即位。  章惇をやめさせる。
1101  建中靖国1(18) ★徽宗 親政。
 新帝が即位すると、擁立した旧法派の高官が力をえる。しかし、新帝が権力を手にすると、改革を考え新法になる。この繰り返しにより、宋は力を弱めた。
 唐末期の牛李の争いは、力をえた者が、相手を壊滅させることを繰り返し、人材が払底して、国が滅んだ。宋はマイナスの人材も温存したのが仇となって滅んだといえよう。
☆李清照、嫁ぐ(18歳)。
☆夫の趙明誠は当時太学生であり、すでに金石学で高名であった。
 (余建中辛巳始歸趙氏時、先君作禮部員外郎、丞相時作吏部侍郎、侯年二十一在太学作学生 わたしは、建中靖国元年に趙氏に嫁いだ。そのとき先君(父)は礼部員外郎であった。丞相(趙挺之)は吏部侍郎(次官)であった。侯(趙明誠)は二十一歳で太学生であった。)
☆夫の父の趙挺之は新法派で大臣であった。 正しくは次官であるが大臣がいないため、事実上は大臣である。
1102  崇寧1(19) ★蔡京宰相になる。この蔡京は、水滸伝の悪役である。
 この年、再び新法派が旧法派を弾圧した。司馬光・蘇軾・李格非など120人を元祐姦党とし、名を刻んだ元祐姦党碑を太学の端礼門外に立てた。地方にも立てた。
☆趙挺之は僅かの間だが宰相になった。ただし、実権は蔡京にあった。旧法派の弾圧に力を注いでいる。
☆李清照が宰相に手紙を書いて父の命を救ったという話がある。言論では殺さない国是なので疑わしい。しかもその宰相とは義父である趙挺之。
1103  崇寧2(20) ☆徳父(趙明誠)出仕。科挙に合格した記録は見たことがないので、高官の子弟という特権で出仕したようだ。
1104  崇寧3(21) ☆義父の趙挺之が、この年に亡くなった。その3日後、趙一族は追放され青州に帰る。
☆徳父と郷里に在り(青州)。この後10年間青州にいた。徳父は後年、莱州と青州の郡守となった。 
1105  崇寧4(22)  
1106  崇寧5(23)  
1107  大観1(24)  
1108  大観2(25)  
1109  大観3(26)  
1110  大観4(27)  
1111  政和1(28)  
1112  政和2(29)  
1113  政和3(30)  
1114  政和4(31) ☆絵に徳父が賛を書く(清照31歳)。 政和甲午新秋徳父題於帰来堂
 この記録は貴重である。この記録と嫁いだ時の記録によって、李清照の年齢が決定される。
 政和四年というような年号は、数字を間違えやすい。しかし、干支は間違いが少なく、歴史資料の確定に使われる。政和の甲午は、政和4年(1114)である。
 徳父 ……趙明誠の号。
 帰来堂……趙家の図書館、青州にあった。
1115  政和5(32)  金の建国。
1116  政和6(33)  
1117  政和7(34)  
1118  重和1(35) ★蔡京 太師となる。太師となる前も、実権は握っていた。 
1119  宣和1(36)  
1120  宣和2(37)  方臘の乱
1121  宣和3(38)  
1122  宣和4(39)  
1123  宣和5(40)  
1124  宣和6(41)  西夏、金の属国となる。
1125  宣和7(42) ★欽宗(在位1125−1127) 即位。徽宗は引退したが、宋は滅びる寸前であった。

1126  靖康1(43) 靖康の変。  金は徽宗と欽宗を捕虜とした。靖康の変という。
☆徳父溜川をまもる。

1127  建炎1(44) ★高宗(在位1127−1162) 即位、南宋となる。
★高宗 南京王天府 → 揚州
 金は徽宗と欽宗を北へ連れ去った。ここで北宋は終わった。
 高宗は、徽宗と欽宗の救出に消極的であったという。
☆(3月)徳父の母、死す。
 李清照は趙家の図書館「帰来堂」の文物のうち、良い物だけを選んで船で建康まで運んだ。書だけでも15車という。12月に青州に残した物を全て戦火で焼失した。十余屋。
 この年から記録がゴチャゴチャしてくるが、李清照の流浪の時である。
1128  建炎2(45) ★高宗 → 鎮江 → 杭州
☆徳父、建康(南京)の知となる。
1129  建炎3(46) ★高宗 → 建康 → 鎮江 → 常州 → 杭州→ 越州 → 明州 → 定海 → 温州沿岸
☆建康 → 池陽 → 衛 → 洪州
☆3月 徳父、建康の知を辞す。
☆5月 清照、池陽に行く。徳父、湖州の知となる。
☆7月 徳父、病む。
☆8月18日、徳父死す。葬儀の後、清照病む。
☆このときでも、蔵書は二万巻・金石刻二千巻を持っていた。
☆衛から洪州にいくが、12月にここも金に攻め取られ、蔵書のほとんどを失なってしまう。
☆徳父の死後、玉壺事件が起こっている。
1130  建炎4(47) ★高宗 → 越州
 秦檜が南宋に帰国。
☆現在の浙江省内を転々とする。
1131  紹興1(48) ★秦檜が宰相になる。
☆3月越に戻る
1132  紹興2(49) ★高宗 → 杭州 ここを都とする。
☆再婚した。百日ほどで離婚。九日間の徒刑。
 当時は夫に責任があっても、女が離婚を申し出れば二年の徒刑となった。幸い親戚の高官の計らいで、九日間に減らすことができた。
1133  紹興3(50)  
1134  紹興4(51)  
1135  紹興5(52) ☆8月 金石録後序を撰す。
 この年表の李清照の項は、ほとんどこの金石録後序による。
 鳴呼、余自少陸機作賦之二年、至過蘧瑗知非之両歳三十四年之間、……紹興二年
   陸機作賦……二十歳。
   蘧瑗知非……五十歳。(蘧瑗(キョエン)、蘧伯玉、よく反省する人で、五十歳になって、四十九年間の非を知った)
 ああ、わたしは、陸機が作賦した二十歳より二年若いときから、蘧瑗が非を知った五十歳より二歳過ぎるまで三十四年の間、……紹興二年
 「18歳から52歳まで34年間‥‥‥」の意味である。18歳は嫁いだ歳であり、52歳はこの文を書いた歳であると思える。
 しかし五十二歳は紹興二年ではない。紹興四年の間違いかと言う人もいるがはっきりしない。
1136  紹興6(53)  
1137  紹興7(54)  
1138  紹興8(55)  
1139  紹興9(56)  
1140  紹興10(57)  
1141  紹興11(58)  岳飛獄死。秦檜が主戦派を粛正。
1142  紹興12(59)  
1143  紹興13(60) ☆この年までの生存は確認されている。
1151  紹興21(68) ☆死去説がある。ただしはっきりしない。

1279  南宋が滅び元が全土を支配。

参考
たくせんの中国世界−李清照 −詞后の哀しみ−
雲外の峰−書庫−李清照 その人と文学
雲外の峰−書庫−中国の女詩人
雲外の峰−書庫−新譯漱玉詞
雲外の峰−書庫−李清照後主詞欣賞  中文


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2013年07月11日

李清照 年表(前)

李清照 年表(前)  (唐の滅亡から李清照の誕生まで)

  
 西暦と年号では一ヶ月以上ずれていている。そのため一年のずれが生じることがある。
   参考  たくせんの中国世界−李清照 −詞后の哀しみ−
西暦、年号 (李清照年齢)  
    主な出来事   ☆印は李清照関連   ★印は宋関連
   ……………………………………………………
907  朱全忠、唐を滅ぼす。五代十国の始まり。
916  契丹の耶律阿保機、皇帝を称した。
937  契丹は国号を遼と改めた。タイ族の段氏、雲南に大理国を建国。南唐建国。
958  南唐二代目李m、帝号を去り王となる。皇帝として即位したが王に格下げした。外圧による。

960 ★宋太祖(在位960−976)趙匡胤(ちょうきょういん) 帝位につく。
 この年から宋朝となるが、その国是として、「言論で人を殺さず北周柴氏の祭祀を絶やさず」とした。意見の差によって死刑にされることがなくなり、宋はきわめて言論が自由な国であった。
 この対極にあるのが明である。一言の失言で死刑になるため、重臣たちは毎朝死の準備をして出仕したという。結局ほとんどの建国の重臣は殺されてしまう。
 北周柴氏とは、趙匡胤に国を禅譲した前王朝の主である。従来の王朝では、機会をみてこのような人と一族を殺してしまうのだが、宋は滅びるまで柴氏を厚遇している。
961  建隆1  南唐後主李U、王となる。李Uは後に詞帝と称される。
   参照 たくせんの中国世界−李後主 −詞帝−    
973  開宝6 ★はじめて講武殿にて覆試を行う。殿試はじまる。
 唐代から始まった科挙が定着した。唐代は実質貴族のみであった。実質的な科挙の始まりである。後に弊害が生まれたものの、この制度は他にないすばらしい制度であった。あまりにすばらしすぎたので、弊害が生じても止めることができず、中国近代化の妨げとなってしまった。
975  開宝8  南唐を滅ぼす。南唐後主李Uは、首都汴京(ベンケイ(開封))に囚われの身となった。そこでも数々の優れた詞を作ったが、結局汴京で没した。
976  開宝9 太平興国1 ★太宗(在位976−997) 10月に即位。
 2代太宗は初代太祖の弟である。初代の即位も太宗の辣腕に負うところが多く、太祖の死にも疑わしいところがあるといわれている。
977  太平興国2 
978  太平興国3  南唐後主 李U死す 42歳。一説に毒殺されたという。言論では殺さない宋の例外ともいわれ、はっきりしない。なお中国の高官の死刑は毒死である。江戸時代の切腹に相当するか。
979  太平興国4 ★宋によって中国統一  北漢が滅び十国終わる。
  ★太祖の子 趙徳昭(951−979)自殺。
980  太平興国5
981  太平興国6 ★太祖の子 趙徳芳(959−981)没す。ここに太祖の子は二人とも死んだことになる。かなり問題のある死に方であった。 
997  至道3 ★真宗(在位997−1022)即位 太宗の子。
1001  咸平4 ★天下の冗士19万5千余人を減ぜん。大量の解雇である。役人の数は唐代の倍もいたという。
1004  景徳1 ★澶淵の盟(せんえんの盟)、遼と講和条約を結ぶ。歳費として絹20万匹・銀10万両を、宋から遼に支払うことになった。
1019  天禧3  司馬光 生まれる。旧派の筆頭である。王安石の改革を覆した。しかし、自ら改革案を出せず、宋を亡国に導く。
1021  天禧5  王安石 生まれる。後に国政改革を断行する。
   参考  たくせん中国世界−王安石 −改革半ばにして− 
1022  乾興1 ★仁宗(在位1022−1063)即位。仁宗は即位するまで生母を知らなかった。知ったときは生母はすでに死去していた。
1038  宝元1  李元昊 夏(西夏)を建国、皇帝を称す。
1042  慶暦2 ★遼への歳費が絹30万匹・銀20万両となる。
1044  慶暦4 ★西夏への歳費 絹13万匹・銀5万両・茶2万斤となる。平和も購ったことになるが、遼と西夏への歳費は財政を圧迫した。役人の多いことに加え、租税負担層が薄くなり、税収が減ったことも原因で、亡国の道を歩み始める。
 このころ活字印刷術が発明される。
1060  嘉祐5  王安石「万言書」を奉る(1058年説あり)
1063  嘉祐8 ★英宗(在位1063−1067)即位。
1067  治平4 ★神宗(在位1067−1085)即位。
1069  煕寧2 ★王安石、参知政事となる。
 形式的には副宰相だが、事実上の宰相に相当する。財政危機に当たり、新法を実施した。以後、科挙の上位合格者による特権グループの旧法派と、改革を目指す新法派の間に、新旧の争いが起こり、王安石の改革は覆される。
1074  煕寧7  王安石 下野。
1075  煕寧8  王安石 また宰相になる。
1076  煕寧9  王安石 辞職。
1079  元豊2  蘇軾 左遷される。
1084  元豊7(1歳)  司馬光 資治通鑑を著す。
 ☆李清照生まれる。山東省済南。なお「李清照詞析賞」では元豊6年となっている。
 この表は政和4年31歳を基準にした。年齢は数え年である。
 

      つづく

 HPにあったものをここに移動しました。
 今までは、普通では表現できない漢字が多く、HPではちょっとした一般的でないやり方で、無理に入れていたのですが、今のブログではほとんどの漢字が表現できるようになりましたので、移すことにしました。
 長いので、唐末から李清照出生までを(前)、出生以後を(後)として前後に分けました。
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2010年02月21日

李清照 −詞后の哀しみ−

この「李清照 −詞后の哀しみ−」は「ブログ雲外の峰」に移しました。2021.2.11
こちらにもこのまま残しておきます。
     雲外の峰−李清照
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李清照の悲しさ 李清照と宋詞 詞について 武陵春  文学 家庭環境 生涯

参考: 中国の女詩人   新譯漱玉詞   李清照後主詞欣賞
★李清照 年表

 絵には見えないが 賛 があり、その賛を書いた人は夫である趙明誠。
  政和甲午新秋徳父題於帰来堂 と記す。
     image3.gif
       易安居士三十一歳之照
 政和甲午  政和4年(1114)
 易安居士  李清照の号
 徳父    趙明誠の号
 帰来堂   趙家の図書館
 この絵は後世の模写である。菊の花を持っているが、原画は蘭の花を持っている。
   …………………………
   李清照の悲しさ
 詞人李清照は北宋の官の娘として生まれ、その官としての特権に疑問を抱かず一生を終えたようだ。
 18歳のとき太学生の趙明誠に嫁いだ。後年そのときを振り返り、李家も趙家も貧しかったと言っている。しかし、宋代は史上もっとも官吏の給料が高かったことで有名であり、義父はそのときすでに大臣で翌年には宰相となっている。
 夫の趙明誠はエリートの学校である太学で学んでおり、すでに金石学で名をあげていた。父の李格非は高官ではないが、名文家として高名であった。いずれにしても貧しいはずがない。
 北宋の滅びるときに、李清照は百万冊といわれる書物を失っている。買い集めた書画骨董のうち、良い物だけを選びに選んで、舟十数艘で建康(南京)まで運んだが、結局それも失ってしまった。これらを得るにはどれほどのお金が必要であろうか。
 余談ではあるが、本の溢れかえる現代でも、司馬遼太郎氏が持っていた本は三十万冊といわれている。
 李清照についての疑問はまだある。李清照が嫁いだ翌年、父の李格非は元祐姦党として弾劾される。この時、李清照はときの宰相に人の心をふるわせる手紙を書いて父を救ったという。
 北宋は王安石の新党と司馬光の旧党の争いによって自滅を早めることになるが、李格非は旧党であり、義父の趙挺之は新党であった。
 そして元祐姦党を弾劾したのは宰相となった趙挺之であった。ときの宰相とは義父なのだ。もう一度いうと嫁入りの翌年である。敵対する家に嫁に行ったわけだ。
 趙明誠が子供の時「詞女之夫」という謎の夢をみて、長じて詞女の夫となる話が伝わっているが、前後の複雑な事情を覆う作り話であろうと思われる。
 李清照はそれぞれに悲しんでいるが、特権を当然と考えて、それが不十分であると嘆く姿に同情心はわかない。特権を「自分は恵まれている」と思うことができれば、決して悲しみの人生ではなかったはずだ。それに気がつかないのが、李清照の最大の悲しさであろうか。
 多くの詞を填した(詞を作った)が、漱玉詞一冊のみが伝わっている。評価は詞后。詞帝李後主に対す。
 李清照は再婚している。王安石も寡婦の再婚を勧めているように、当時では非難されることではない。井上祐美子の小説に、この李清照の再婚を扱った短編小説がある。創作部分がほとんどのようだが、一読を勧める。

   如夢令 李清照

  昨夜雨疎風驟
  濃睡不消残酒
  試問捲簾人
  却道海棠依舊
  知否
  知否
  應是緑肥紅痩


昨夜、雨は疎にして風驟く
濃い睡りにも残酒は消えず
簾を捲く人に問うてみれば
却って海棠は舊に依ると道う
知るや否や
知るや否や
應に是れ緑肥え紅痩せるべし

   …………………………
   李清照と宋詞
 わたしが李清照の名を知ったのは1983年のことであった。
 ある日、台湾のかわいいガールフレンドから手紙が届いた。その手紙の中に李清照を紹介してあった。
 そのガールフレンドは間もなく高校受験の準備に入り、音信不通になってしまったが、わたしは李清照に興味を持った。それまでは、人並みな漢詩の知識しかなかったわたしは、宋詞の世界に強烈な印象を受けた。
 唐詩は、恋をうたっても、政治演説のように建前を描写してしまうようだが、詞は和歌のような心を打ち明ける恋の歌なのだった。
 恋愛の歌も当然多いが、国を恋し、故郷を恋し、芸術を恋し、酒に恋し、花鳥風月に恋する、そんな印象がした。
 当時はめぼしい資料もなく、やっと見つけた本は、当時としてはありがたかったが、原文と意訳文のみで解説も読み下し文もなく、とても味わうところまではいたらない。しかもわたしにも判る間違いがあり、物足りなかった。
 その本のまえがきの一部を紹介する。

 新譯漱玉詞 昭和三十三年 花崎采琰(さいえん)
 詞は晩唐五代の頃からさかんになりはじめるが、このころの作品は多くは宴席の楽しみのために‥‥、こさめのふるたそがれ、‥‥、ゆく春をおしみつつものおもいにしずんだり、あかつきの鶯、ありあけの月にきぬぎぬのわかれをおしんで、‥‥などという情景がもっとも多く‥‥。
 ‥‥南唐の天子、李後主は、このような宴席のたのしみのうたにとらわれることなく、その滅びゆく國家への愛惜と身世のかなしみを、そのままことばにうつして詞をつくった。‥‥ほんとうの意味の文學作品であった。‥‥
 ‥‥北宋のおわり南宋のはじめにかけて一人の天才的な閨秀詞人があらわれた。それが李易安居士清照である。詞というものは男性がうたってもわざわざ女性の身におきかえて作られるように、本来は女性の立場にたっているものである。‥‥
 詞はわが國の和歌ににて、やさしくうつくしいものであるが、‥‥‥‥
 中田勇次郎しるす

 なお花崎氏は昭和六十年(1985)三月に「中国の女詩人」を発行している。この中でも十頁にわたり李清照を紹介している。新譯漱玉詞より正確である。
 その後、わたしは台湾旅行のおりに、中国語の「李清照李後主詞析賞」を買い求めた。この本と前述の本を較べることによって、少しは理解できたが、どうしても判らない部分があり、長い間そのままになっていた。
 ところが新世紀に入って、インターネット上で李清照に関する優れたサイトを見つけることができた。
 碇 豊長 「詩詞世界」http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/
 碇氏にメールで問い合わせたりして、いくつかの長年の疑問が氷解した。
 そこで、屋下に屋を架すようだが、ここに李清照についてのいくつかを書くことにした。

   …………………………
  詞について
 次の詞を「武陵春」と書いてあるが、正しくは詞牌といい、その下に小さく書き加えた「春晩」が題である。ただし、ほとんどは詞牌のみで題名は書かない。
 そもそも詞は替え歌のようなもので、詞牌はその曲である。それに各人がいろいろな詞をつけて歌った。それゆえ詞牌のイメージと詞のイメージが合わないので、知らずに読むと疑問に思う。
 中には本来のイメージによって作られた詞があるが、それを本意などという。
 詩は士大夫のもの、詞は庶民のものといわれ、詞は庶民に親しまれたが、芸術作品とはみなされなかった。それを五代に南唐後主李U(いく) が格調の高い詞を作って芸術作品とした。そして宋代に花開いたのが宋詞である。
 唐代の李白が作った詞が伝わっているが、その真贋は疑わしい。
 李清照は多作したが、現在伝わっているのは五十数首だけである。テキストによって多少の差がある。
        buryoushun.gif
塵は香りて   花が散って地上の塵と交じり
物は是人は非ず 物はそうでも人はそうではない。
        物は昔のままでも人は変わりゆくの意味。
事事く休し   万事休す
双渓      浙江省金華県にある川。清照は夫の死後、金華県にいる弟を頼った。
さくもう舟   足の速い小船という。
擬       計画する。

   …………………………
   文学
 李清照は自ら易安居士と号し、また易安室とも署名した。北宋の歴城(現在の山東省済南市)の人である。歴城の西南「柳絮泉」に家があったことが判っている。
 歴城は古くから絵のような景色で知られ、文人才子の集まるところであつた。有名な千仏山と大明湖があり、名勝古跡も特に多い所である。
 清照は北宋の元豊七年(1084) の生まれで、南宋の紹興21年(1151)以降六十歳ないし七十歳で亡くなった。
 その文才は並はずれており、著作もかなり豊富である。ただほとんど伝わっておらず、残っているのは少ない。
 南宋「楽府雅詞」の「李易安詞」23首
 明末「漱玉集」の17首
 晩清「漱玉詞」の50首
 趙万里編集「漱玉集」の60首
 中華人民共和国時代「李清照集」78首
、そのうち35首は疑問があるらしい
 人民文学出版社の「李清照集校注」は、比較的完備された全集で、李清照が遺した詞・詩・文のほとんどを網羅している。もちろん著作の全貌には遠く及ばないが、多才多芸な作家であることを知るには十分であるという。

 評価をあげてみよう。
 同時代の王灼
 …本朝の婦人ならば、まさに文采第一と推すべし
 朱熹は(朱子学の朱子ですね)
 本朝の婦人の能文はただ李易安と魏婦人あるのみ
 明の楊慎は
 衣冠のうちに在らしむれば、当に秦七、黄九と雄を争う

   …………………………
   家庭環境
 父は李格非、字(あざな)は文叔という。進士に合格し、官は礼部員外郎となる。
 文章で蘇軾に知遇を得ている。「後四学士」といわれた。
 贈賄全盛の時代に贈賄を拒否し、実力で官になろうとする人だった。また栄利は求めなかった。
 元祐年間(1086〜1093)に旧派が王安石の新法を覆したことがある。
 崇寧元年に蔡京は、新法を覆した人たちを元祐奸党として弾圧した。
 その時李格非は罷免されている。
 深い学問のある学者であったが、著作はほとんど失われ、「洛陽名園記」のみが伝わっている。
 当時の有力者たち(皇帝・蔡京・司馬光など)が民家を壊して庭園を造ることに対して、「洛陽の盛衰は、天下治乱のきざしなり」と批判している。間もなく金との戦争でこれらの庭園は消失した。
 散文が出色だったが、詩詞にもすぐれていた。それらの才能は李清照に伝わったといわれる。
 母は漢国公王準の孫という。文化的素養は深かった。当然、李清照にも影響は及んだであろう。
 このように李清照は文学的雰囲気が濃厚な家庭で育ち、豊富な歴史と文学資料の中から栄養を吸収した。
 なお、何人かの姉妹と弟がいた。

   …………………………
生涯
 中国では一般に女性を教育することは少ない。その中で李清照は子供のときから文藝に親しみ当時の詞も険韻を好んだという。険韻とは韻が限定されて相当する文字が少ないもの。当然難しい。これで腕を磨いた。

 数え18歳の時、趙明誠に嫁ぐ。趙明誠は子供のとき、謎の夢を見たという。
 あるとき、本の夢を見て目を覚ましたとき、「言と司が会う、安の上すでに脱す、芝芙の草を抜く」という言葉だけを憶えていた。
 父はこう解釈した。
   言と司が合えば  詞
   安の上を脱せば  女
   芝芙の草を抜けば 之夫
   故に「詞女之夫」 となる
 後に夢のお告げのとおり詞女李清照の夫となった。
 こんな伝説が作られるほどの夫婦であったということであろう。

 新婚時代の苦しい生活の話もあるが、それはお金があると金石書画を買い込んだため。金石書画を買うお金はあったのだ。決して貧しいわけではない。
 間もなく趙明誠は出仕し、家を空けることが多くなる。その出張先に詞「酔花陰」を送った。感激した趙明誠は三日かけて、五十数編の詞を作ったが、その中に李清照の詞の一部を使った。友人の陸徳夫に見せると、「この三句がすばらしい」と褒めたが、それが李清照の詞を使った部分だった。

 このころ政界は新派と旧派のあらそいがあり、その争いに巻き込まれる。実父は旧派である。夫の父は新派で、旧派の弾圧に力を注いだ。
 李清照が21歳の時、義父の趙挺之が亡くなり、趙一族は追放され青州に帰ることになる。それからの10年が最も幸せだったのではないか。夫婦揃って金石書画の収集研究に没頭した。
 その後、趙明誠は莱州と青州の郡守となった。このころが水滸伝の時代である。43歳の時、靖康の変があり北宋が滅んだ。
 北方は金となり、宋は南に逃れ南宋となるも定まらず、皇帝さえ流浪の生活を送る。李清照も流浪の生活となる。

 46歳の時、夫趙明誠は亡くなり、玉壺事件が起こった。趙明誠の生前に張飛卿がa(みん=玉に似た石)の壺を持ってきた。そして没後に趙明誠が「金」に玉壺を贈ったとデマが流された。趙明誠は建康(南京)の知(長官)として金と交渉し、そのときaを贈ったらしい。玉なら問題だがaなら問題は小さい。李清照はaであると主張しているところを見ると、贈ったことは事実のようだ。
 このころ金は江南まで来ており、建康は最前線である。間もなく李清照は残っていた蔵書二万巻も全て失うことになる。
 このころの流浪の様子は、拙文の年表を見て頂きたい。

 49歳の時、ようやく南宋の都が杭州に定まった。それまでは皇帝も転々としていた。
 李清照は再婚することになった。結婚相手は張汝舟である。張汝舟の目的は李清照の財産であった。
 再婚と同時に李清照の財が張汝舟に取りあげられ、あっという間に婚姻は破綻した。約百日間であった。
 李清照から離婚を申し出たが、当時は夫に責任があっても、女が離婚を申し出れば二年の徒刑となった。幸い親戚の高官の計らいで、九日間に減らすことができた。

 紹興四年(はっきりしない)ころ「金石録後序」を書いている。それによって、李清照の半生が判る。これ以外には「打馬図序」などがあり、江南の生活の様子が書かれている。このころ鋭い評論も書いている。
 晩年ははっきりしない。亡くなった年さえ判っていない。68歳ごろと思われる。

06年5月20日記
10年2月21日追記 
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2008年05月21日

嫦娥 −月宮に住む美女−

 月に住む孤独な美女である。かぐや姫のモデルともいわれている。
 嫦娥(Chang e)は「じょうが」と読むことが多く、わたしもそう読むが、「こうが」とも読む。書くときはgou.gif娥と書くこともある。これならコウガと読みたい。
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2006年05月20日

朱鎔基 −普通に退任した首相−

 2000年12月に書いた文
 中国の朱鎔基首相が来日し日本人民衆との対話を試みた。これは録画放送された。
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宮城谷昌光 −古代史の案内人−

 もちろん日本の住人である。おそらく国籍もそうであろう。しかし、古代中国に焦点を当て、陸続と長編小説を発表しており、この部屋にふさわしい。
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李登輝 −中国最初の民主政治家−

 李登輝を語るには、台湾の特殊性を考えねばならない。
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金庸 −中国最高のPRマン−

 わたしは今、金庸の武侠小説に夢中である。 武侠小説は「任侠東海道」+「伊賀の影丸」に近い。そして金庸の武侠小説は歴史的事実を踏まえており、まるで歴史小説のようだ。
 そうはいっても、仮定世界であり、この世界の約束事を承知できないとむなしい。SF小説を楽しめる人ならば、武侠小説も楽しめるはずだ。その中でも金庸作品は群を抜いている。
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余秋雨 −現代中国の案内人−

 わたしの手元に余秋雨の書いた本がある。ある中国人留学生からプレゼントされたものである。
     山居筆記
   作者 余秋雨
   発行 文匯出版社
   印刷 1999年6月 復旦大学印刷厰
   定価 22元

 日本の出版物の常識からすれば、粗末に思える。紙は薄く裏写りし、逆目に紙を使い、折が悪くページごとに位置が踊っている。ただし印刷はきれいで読みやすい。
 その留学生から、わたしの書いた旅行記は、まるで余秋雨が書いたようだ、と賛辞をいただいた。もちろんお世辞である。   続きを読む
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陳舜臣 −現代中国の扉を開く−

 中国を語るのに、この人を漏らしてはなるまい。
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夏姫 −春秋の妖花−

 中国を代表する女を一人あげよ。と言われたら、わたしは夏姫をあげたい。武則天ではなく、楊貴妃でもなく、西太后でもなく、夏姫である。
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李後主 −詞帝−

 李Uは唐の三代目である。あの有名な唐ではなく、後に南唐といわれた、五代十国の時代に金陵すなわち南京を都とした唐である。
 昔から中国は江南を植民地化し、江南の生産力で国を維持していた。その江南の生産力を南唐だけで使うことができたため、空前の経済力を持ったと思うが、李Uはその経済力のほとんどを芸術のために使ってしまい、国を滅ぼしてしまう。故に李後主といわれる。
 後主とは二代または三代目の亡国の王のことである。唐様で売家と書く三代目であった。
 絵画音楽書などに優れ、特に詞は最高の評価をえて、詞帝といわれている。亡国後、宋の都ベンケイに囚われの身となるが、故郷を想い詞を作った。「虞美人」に歌う。
 問君能有幾多愁  君は問う幾多の愁い有りやと
 恰似一江春水   恰も似たり一江の春水の
 向東流      東を向して流るるに

 春水の流れるとき、長江の中流では水面が五十メートルも高くなるという。今でも毎年のように氾濫し、洪水が移動しているといわれるほどの水量である。自分の愁いをそれにたとえたのである。
 それほどであるならば国防や外交に力を入れればと、あきれてしまう。
 「陝西省十大博物館」によれば、こんな言葉があるそうだ。
江南は才子を生み、山東は将を生み、咸陽は皇帝を埋める。
(江南出才子 山東出大将 咸陽原上埋皇上)
 李Uはまさに江南の才子であった。王の器ではなかったのだ。
李Uが作らせた南唐の文房具は、あきれるほどの最高級品であった。特に墨は今でも国宝のお墨付きであり、紙は澄心堂紙といわれ、これも一幅が百金の折紙付きである。
 最大の功績は詞を芸術に高めたことであろうか。政治演説のような従来の詩は読むものであるが、心情を述べた詞は庶民も気軽に歌うことができるものであった。それ故に低く見られていたのを、格調の高い詞をつくることにより、文芸の主流に引き上げたのである。
 つぎの漁歌子は私が最も好きな詞である。
 浪花有意千重雪   浪の花は意有り千重の雪
 桃李無言一隊春   桃李は言無し一隊の春
 一壷酒       一壷の酒
 一竿綸       一竿の綸
 世上如儂有幾人   世上儂の如き幾人か有る

 李Uは王としては最低であるが、わたしはそれでも憎めないと思う。
 李Uにとって芸術は国の存亡より大事なことであった。現在李Uの芸術は残っているが、李Uの軍事力はなにも残っていないのだ。
 無理に国を守ろうとすれば、これらの芸術は灰燼に帰したであろう。なによりも多数の庶民の命が助かったことが大きい。

 王としては落第であったが、投了することは知っていた。

 庶民は兵として死ぬばかりでなく、戦火に遭い餓えて死に、あるいは戦後も、働き手を失って残された家族は苦しみ死ぬ。
 李Uが強い抵抗をせずに降伏したのは、これらの苦しみを救ったといえる。意図したことではないにしても、それなりの評価をしたい。
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王安石 −改革半ばにして−

 人によっては北宋の王安石を中国史上最高の政治家という。中国におけるこの種の評価は時代を反映して揺れる。最高かどうかはともかく、希有の政治家であることはまちがいない。
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王昭君 −匈奴で得た幸せ−

 青史に見える王昭君の物語は悲劇である。
 簡単になぞってみよう。時代は漢の元帝の時という。
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蔡文姫 −曹操が激賞した天才−

 蔡文姫は漢代末期のひとである。父は学者であり、文姫は子供の時から書物に親しんでいた。
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香妃 −砂漠の花−

 公式には香妃の記録はないそうだ。
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上官婉児 −選択肢なき悲しみ−

 姓は上官(じょうかん)名は婉児(えんじ)。この恵まれたように見える女を、かわいそうと評価しては、他の人から非難の声が来そうだ。
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posted by たくせん(謫仙) at 07:31| Comment(3) | TrackBack(0) | 人物像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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