西暦と年号では一ヶ月以上ずれていている。そのため一年のずれが生じることがある。
西暦、年号 (李清照年齢)
主な出来事 ☆印は李清照関連 ★印は宋関連
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1084 元豊7(1歳) 司馬光 資治通鑑を著す。
☆李清照生まれる。山東省済南。なお「李清照詞析賞」では元豊6年となっている。
この表は「政和4年31歳」と「建中靖国元年18歳」を基準にした。年齢は数え年である。
1085 元豊8(2) ★哲宗(在位1085−1100) 3月に即位、10歳。
★司馬光 宰相になる。
この後、哲宗が親政するまでの間、旧法派が権力を得て、王安石の新法を廃す。新法派を弾圧する。国家経営が行き詰まり、新法が始まったのだが、それを元に戻したので、当然ながら行き詰まったままである。
司馬光は、高官の地位は特権ではなく、努力や能力によって手に入れたのである。と考えていた。このころまでは、新旧の争いは政策論争であったが、この後は党派の争い(権力争い)になる。
☆李清照の父李格非は旧法派に属していた。
1086 元祐1(3) 4月王安石死す。9月司馬光死す。
1087 元祐2(4)
1088 元祐3(5)
1089 元祐4(6)
1090 元祐5(7)
1091 元祐6(8)
1092 元祐7(9)
1093 元祐8(10) ★哲宗親政。太皇太后高氏没す。 新法を復活させる。
1094 紹聖1(11) ★章惇 宰相になる。 章惇は新法派であり、元祐年間に旧法に戻した者たちを元祐姦党として弾圧した。
1095 紹聖2(12)
1096 紹聖3(13)
1097 紹聖4(14)
1098 元符1(15)
1099 元符2(16)
1100 元符3(17) ★徽宗(在位1100−1125) 即位。 章惇をやめさせる。
1101 建中靖国1(18) ★徽宗 親政。
新帝が即位すると、擁立した旧法派の高官が力をえる。しかし、新帝が権力を手にすると、改革を考え新法になる。この繰り返しにより、宋は力を弱めた。
唐末期の牛李の争いは、力をえた者が、相手を壊滅させることを繰り返し、人材が払底して、国が滅んだ。宋はマイナスの人材も温存したのが仇となって滅んだといえよう。
☆李清照、嫁ぐ(18歳)。
☆夫の趙明誠は当時太学生であり、すでに金石学で高名であった。
(余建中辛巳始歸趙氏時、先君作禮部員外郎、丞相時作吏部侍郎、侯年二十一在太学作学生 わたしは、建中靖国元年に趙氏に嫁いだ。そのとき先君(父)は礼部員外郎であった。丞相(趙挺之)は吏部侍郎(次官)であった。侯(趙明誠)は二十一歳で太学生であった。)
☆夫の父の趙挺之は新法派で大臣であった。 正しくは次官であるが大臣がいないため、事実上は大臣である。
1102 崇寧1(19) ★蔡京宰相になる。この蔡京は、水滸伝の悪役である。
この年、再び新法派が旧法派を弾圧した。司馬光・蘇軾・李格非など120人を元祐姦党とし、名を刻んだ元祐姦党碑を太学の端礼門外に立てた。地方にも立てた。
☆趙挺之は僅かの間だが宰相になった。ただし、実権は蔡京にあった。旧法派の弾圧に力を注いでいる。
☆李清照が宰相に手紙を書いて父の命を救ったという話がある。言論では殺さない国是なので疑わしい。しかもその宰相とは義父である趙挺之。
1103 崇寧2(20) ☆徳父(趙明誠)出仕。科挙に合格した記録は見たことがないので、高官の子弟という特権で出仕したようだ。
1104 崇寧3(21) ☆義父の趙挺之が、この年に亡くなった。その3日後、趙一族は追放され青州に帰る。
☆徳父と郷里に在り(青州)。この後10年間青州にいた。徳父は後年、莱州と青州の郡守となった。
1105 崇寧4(22)
1106 崇寧5(23)
1107 大観1(24)
1108 大観2(25)
1109 大観3(26)
1110 大観4(27)
1111 政和1(28)
1112 政和2(29)
1113 政和3(30)
1114 政和4(31) ☆絵に徳父が賛を書く(清照31歳)。 政和甲午新秋徳父題於帰来堂
この記録は貴重である。この記録と嫁いだ時の記録によって、李清照の年齢が決定される。
政和四年というような年号は、数字を間違えやすい。しかし、干支は間違いが少なく、歴史資料の確定に使われる。政和の甲午は、政和4年(1114)である。
徳父 ……趙明誠の号。
帰来堂……趙家の図書館、青州にあった。
1115 政和5(32) 金の建国。
1116 政和6(33)
1117 政和7(34)
1118 重和1(35) ★蔡京 太師となる。太師となる前も、実権は握っていた。
1119 宣和1(36)
1120 宣和2(37) 方臘の乱
1121 宣和3(38)
1122 宣和4(39)
1123 宣和5(40)
1124 宣和6(41) 西夏、金の属国となる。
1125 宣和7(42) ★欽宗(在位1125−1127) 即位。徽宗は引退したが、宋は滅びる寸前であった。
1126 靖康1(43) 靖康の変。 金は徽宗と欽宗を捕虜とした。靖康の変という。
☆徳父溜川をまもる。
1127 建炎1(44) ★高宗(在位1127−1162) 即位、南宋となる。
★高宗 南京王天府 → 揚州
金は徽宗と欽宗を北へ連れ去った。ここで北宋は終わった。
高宗は、徽宗と欽宗の救出に消極的であったという。
☆(3月)徳父の母、死す。
李清照は趙家の図書館「帰来堂」の文物のうち、良い物だけを選んで船で建康まで運んだ。書だけでも15車という。12月に青州に残した物を全て戦火で焼失した。十余屋。
この年から記録がゴチャゴチャしてくるが、李清照の流浪の時である。
1128 建炎2(45) ★高宗 → 鎮江 → 杭州
☆徳父、建康(南京)の知となる。
1129 建炎3(46) ★高宗 → 建康 → 鎮江 → 常州 → 杭州→ 越州 → 明州 → 定海 → 温州沿岸
☆建康 → 池陽 → 衛 → 洪州
☆3月 徳父、建康の知を辞す。
☆5月 清照、池陽に行く。徳父、湖州の知となる。
☆7月 徳父、病む。
☆8月18日、徳父死す。葬儀の後、清照病む。
☆このときでも、蔵書は二万巻・金石刻二千巻を持っていた。
☆衛から洪州にいくが、12月にここも金に攻め取られ、蔵書のほとんどを失なってしまう。
☆徳父の死後、玉壺事件が起こっている。
1130 建炎4(47) ★高宗 → 越州
秦檜が南宋に帰国。
☆現在の浙江省内を転々とする。
1131 紹興1(48) ★秦檜が宰相になる。
☆3月越に戻る
1132 紹興2(49) ★高宗 → 杭州 ここを都とする。
☆再婚した。百日ほどで離婚。九日間の徒刑。
当時は夫に責任があっても、女が離婚を申し出れば二年の徒刑となった。幸い親戚の高官の計らいで、九日間に減らすことができた。
1133 紹興3(50)
1134 紹興4(51)
1135 紹興5(52) ☆8月 金石録後序を撰す。
この年表の李清照の項は、ほとんどこの金石録後序による。
鳴呼、余自少陸機作賦之二年、至過蘧瑗知非之両歳三十四年之間、……紹興二年
陸機作賦……二十歳。
蘧瑗知非……五十歳。(蘧瑗(キョエン)、蘧伯玉、よく反省する人で、五十歳になって、四十九年間の非を知った)
ああ、わたしは、陸機が作賦した二十歳より二年若いときから、蘧瑗が非を知った五十歳より二歳過ぎるまで三十四年の間、……紹興二年
「18歳から52歳まで34年間‥‥‥」の意味である。18歳は嫁いだ歳であり、52歳はこの文を書いた歳であると思える。
しかし五十二歳は紹興二年ではない。紹興四年の間違いかと言う人もいるがはっきりしない。
1136 紹興6(53)
1137 紹興7(54)
1138 紹興8(55)
1139 紹興9(56)
1140 紹興10(57)
1141 紹興11(58) 岳飛獄死。秦檜が主戦派を粛正。
1142 紹興12(59)
1143 紹興13(60) ☆この年までの生存は確認されている。
1151 紹興21(68) ☆死去説がある。ただしはっきりしない。
1279 南宋が滅び元が全土を支配。
参考
たくせんの中国世界−李清照 −詞后の哀しみ−
雲外の峰−書庫−李清照 その人と文学
雲外の峰−書庫−中国の女詩人
雲外の峰−書庫−新譯漱玉詞
雲外の峰−書庫−李清照後主詞欣賞 中文