何紅薬が金蛇郎君の遺骨を抱く場面がある。その骨が頭から足まで全部繋がっているのに吹き出してしまう。こういう些細なところでボロが出て来る。
それはともかく何紅薬と金蛇郎君の過去は壮絶。何紅薬の哀れなこと。
それから北京郊外の場面があるのだが、それが南画の世界。北京郊外にそんな景色はない。知らなければ通り過ぎてしまうが、やり過ぎ。こんなことを考えるわたしは、この世界の理解の限界か。
第三十話
木桑道人が袁承志に言う、「まだ囲碁の勝負はついておらんぞ。いずれ続きを指しにこよう。」
前にもどこかに書いたが、碁は打つといい、指すとは言わない。
「いずれ続きを指しにこよう」の原文は「到時候我会再来找的」(いつかまたお前に会いにこよう)とでも訳すところ。 前に書いた三子が三目というのは意味が判っていたのだろうか。
李岩夫妻が自決し、袁承志が金蛇営に戻ると、そこに洪勝海が「あの方から」と二枚の竹の葉を差し出す。阿九が何度か笹笛を吹いていたので阿九と判る。そしてすぐに会いに出かけるが、竹藪を抜けるとそこは砂漠だった(爆)。地の底が黄色になった。
いったい袁承志たちはどこにいるんだ。西安の近くのはずだろう。そもそも、阿九はなんで砂漠なんかを歩いているのだ。
ブルネイから来た張朝唐は再登場しない。それでも最後は袁承志や夏青青たち南の島に渡る。では南方の島に渡るのは、どうして思いついたのか。省略したが、大砲を運んできたイギリス人によってその島を知らされた。張朝唐が再登場しない伏線だったのだ。
メイキング
ここではこのドラマを作成する心構えなど語っている。
全体的に殺陣は抑えている。ありえない動きやダンスのような剣捌きは少ない(少しはあるが)。
歴史的経緯を充分にふまえて編成しており、歴史が主人公ともいえる。袁承志はあくまでも時代に流される。そういう自分の能力をわきまえている。
夏青青は武芸の達人で、辛い環境で育ったものの世間の苦労とは少し違うので、精神的には子どものまま。
逆に阿九は皇帝の娘ながら、子供のときに民間で育ったため、早く大人になってしまった。この俳優はダンスの出身だった。新体操ではなかった。
実は岡崎由美さんたちの訳で知られる金庸小説は古い。
金庸小説のほとんどは最初は新聞に発表した連載ものであり、後に大幅に改編して、単行本にした。これを岡崎由美さんたちが翻訳して日本に紹介した。わたしはこれを読んだ。ところがそのころから金庸先生は再び改編した。この碧血剣はその再改編を基に作られていた。破綻が少ないわけだ。
この再改編小説について岡崎さんに訊いたところ、「翻訳する気はない」と言う。
なお撮影場所は福建省武夷山。漓江ではないようだ。そこでも竹の筏を使っているのかな。
金庸小説に限らず、中国では一般大衆は無視される。人を殺しても、「かわいそうに」で済んでしまう。「これからは、そんなことはするな」と訓戒を受けて終わりだ。大衆は犬の子程度の扱い。
だがこの碧血剣は、民衆の悲しみや苦しみを取りあげている。それがあるのでテーマは重いし、現実離れした武術を少なくしている。懐に手を入れれば馬蹄銀が湧き出すということもない。
農民の李自成は庶民に希望を与えて明を倒したが、皇帝になった後のことは考えていなかった。李自成には計画して政治を行う能力がなかった。それ故に自壊するのが当然だったのだ。
おそらく庶民は、李自成が崇禎帝にも及ばないくだらない人物と判って、結果、規律のある清朝をありがたく迎えたのではないかとおもう。
崇禎帝についていえば、平時ならば暗君と言われることはなかったのではないか。その苦しみを高虎が好演している。
紫禁城は破壊されて再建されたはずだが、鹿鼎記では、阿九(九難)は地理が判っていた。してみると宮殿などはほとんど残っていて、清朝ではそれを利用したという設定なのか。