袁承志と夏青青は華山に行き、温儀の遺骨を金蛇郎君と一緒に埋めて、南京に戻る。金蛇郎君の残した地図では南京に宝があるはずなのだ。
南京で阿九が出てくる。これは小説にはない。阿九(のモデル)はこの時(1642)十三歳ほど。もう少し上に設定してあるかもしれない。阿九はあごが細く、口元が入れ歯を取ったような感じになることがある。動きは新体操の選手を思わせる。
それ以外は、南京での話は、小説を思わせるように充分に説明していて、違和感がない。たとえば、焦公礼の話や洪勝海が袁承志の従者になる話は納得できる。
本筋とは関係ないが、袁承志が木桑道人と碁を打つ話がある。
ここではその前に、袁承志が夏青青に『可以贏他三個子』と言う科白(字幕)があって、日本語字幕は『…三目勝てた』となっていた。これだと三子が三目。どうやらこの時代は、中国でも日本ルールで碁を打ったようだ。
詳しくは、謫仙楼対局 中国ルールをどうぞ。
第九話
袁承志と夏青青が南京で見つけた宝を、李自成のために北へ運ぶとき、山東の盗賊に襲われるところ。「竹林は涼しいな」と言っているが、吐く息は白い。夏のシーンを真冬に撮ったのか。山の中の場面は、草の茂った夏では無理だったのかな。
その寸前に夏青青が、洪勝海に「きれいだ」といわれて、ひとりになってから照れまくっているところがかわいい(^。^)。
昔のテレビ番組でトニー谷が「あなたのお名前なんてえの」あの算盤捌きを思わせたのですが…。
でも、物の言い様や物腰が様になっていますね。
阿九は鹿鼎記の「九難」になるはずですが、ドラマ碧血剣の阿九は、けっこう物わかりがよく、人生を悟っているようで九難には結びつけにくい気がします。
わたしの棋友に亜Qさんという人がいて、掲示板にも何度か書いてくれましたが、わたしはそちらを思い出してしまいます(^。^))。
前にも書きましたが、碧血剣は主人公は民衆でもあるので、民衆を無視した従来のドラマとは大分印象が異なりますね。そこがよくできていると感じるのではないでしょうか。
帰辛樹・帰二娘は子どものために物事の判断基準がずれていますから。まあ、もともと、その程度の人物なんでしょう。
二人の弟子も師の影響が大きいのかな。確認もせず過剰反応をするところがあります。
銅筆鉄算盤こと黄真の一団はできている人ばかり。
兄弟弟子なのにこの差は激しすぎます。そう言えば木桑道人と弟弟子も同じような落差。
対になるので目立ちます。
兄弟弟子でありながらこの差は大きい。
小説ではこのシーンはなかったように思います。手元に内ので確認できません。
考えられる理由。
1、別々に撮影していて、矛盾することに気づかなかった。
2、承知の上でその時だけ面白ければいいと、すましてしまった。
3、金庸の原作の改編が不十分だった。
わたしは2ではないかと思うのですが…、本当のところはなんとも。
基本的に袁承志が恋しているのは阿九で、青青は妹のような扱いなんでしょう。
よく「青青」と呼んでいますが、中国語では「青弟」と言っています。この微妙な差が伝わっていません。