2007年11月22日

杭州 12 岳王廟(岳飛)

 岳王廟は西湖の北岸に建つ。曲院風荷の近くである。
 岳王廟の前は道路を隔てて碧血丹心坊。
 坊は地域。碧血丹心は、このうえない真心の意。また、このうえない忠誠心のこと。
 碧血とは、「義に殉じて流した武人の血は三年経つと碧色になる」という中国の故事に基づく。
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 下の方に「一九九五年十月」という文字がある。

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 岳王廟の門は立派、ここから入る。二十五元。今は廟というより観光地の性格が強い。

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 岳王廟、この中に岳飛の像がある。
 なお、廟とは拝殿のようなもので、墓ではない。墓は別なところにある。巨大な仏壇と思えばよいだろう。
 岳王廟の現在の基礎は1918年(民国七年)にできたが、文革期に徹底的に破壊された。現在の岳王廟は、1979年に建設されたもので、比較的新しい建築が多い。

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 岳飛像。上の文字は「山河我◯」であろうか。これ以外は右から読んでいるのに、これだけ左から? 「◯我河山」では意味が??
 この件について、若い女性の中国人に尋ねた。写真を見て、当然右から読むという。ただし、最初の字は判らない。「◯我河山」である、という。
 河山は河と山で、転じて国土を意味する。
追記:“還我河山”と教えてくれた方がいました。「還」は帰る。いろいろの意味が考えられるが、「還れ我国土」がまともかな。

 岳飛(1103〜1141)は南宋の武将。字は鵬挙。
 紹興年間に秦檜(しんかい1090〜1155)に謀殺されており、しばらくは罪人として扱われた。一人の獄卒が、岳飛の遺体を密かに運び出して埋めたという。その後二十余年を経て孝宗の代になって、ようやく生前の爵位に戻された。その後1204年に鄂王とされた。そして岳王廟が建てられた。
現代でも中国の歴史上の英雄と言えば、まず岳飛の名前が挙がるほどである。
 二十一歳の時に義勇軍に参加している。1134年(三十三歳?)のときに節度使となった。南宋の中心的軍閥である。
 ここで問題なのは岳飛軍の性格である。これは国軍ではない。岳飛の私軍であった。
 岳飛にはそれだけの兵力を保持する財力があった。
(この問題はいつの時代にもある。最近でも、中国軍とは国軍ではなく共産党軍であった)

 1130年に南宋に戻った秦檜は、高宗のもと、和平工作を続けていた。江南は豊かとはいえ、1127年に北半分を失って国を再興したばかり。都を杭州としたのも1132年である。それまでは金軍に追われて、高宗も流浪の生活をしていたのだ。全土を制圧されて、海上に逃げたこともある。
 金と全面戦争になれば、亡国は避けられない。その南宋にとって、抗戦を叫ぶ軍閥は困りものであった。しかも国軍より強力な地方軍閥である。
 秦檜は1138年に宰相になる。
 結局岳飛は1141年に、秦檜によって無実(?)の罪で獄死する。これが秦檜悪役を決定づけた。

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 廟から少し離れたところにある岳飛の墓。岳鄂王となっている。隣は岳雲、岳飛の養子であった。

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 墓の前には両側に三人づつ六人の石像、この人たちは誰だろう。

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 秦檜とその妻王氏
 上に「痰を吐かないで下さい」。今でもそのような扱いである。
 ただし、この像は誤解で、秦檜は亡くなるまで宰相であった。このような姿になったことはない。
 秦檜は北宋が滅びるとき(1126または1127)、金の捕虜となったが、1130年に逃げてきた。ここで金との密約説が噂される。
 その後軍閥の力を削ぎ、岳飛を謀殺し、和平に反対するする主戦派を弾圧し、強権政治を貫いた。
 南宋が形だけでも国家となれたのは秦檜の力が大きい。
 妻の王氏の名は、王家から嫁いできたという意味。「氏」という名ではない。李清照のいとこであるという(李清照の母は王氏)。岳飛を殺すことを躊躇した秦檜に、殺すことを進言したといわれている。

 岳飛は現在では民族英雄として有名であるが、このイメージの形成には、小説や講談や演劇の影響が大きいだろう。「忠臣岳飛」対「悪宰相秦檜」だが、わたしは、軍閥と軍閥の暴走を抑えようとする政府の対立とみた。秦檜の強権も高宗の支持がなければできなかったのだ。

参考
岳飛伝
臨安水滸伝
李清照年表
posted by たくせん(謫仙) at 08:51| Comment(6) | TrackBack(0) | 江南 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
高宗、秦檜、岳飛
高宗はきいたことがある程度・・・
先日、謫仙さんの「臨安水滸伝」の記事、興味深く読ませていただき
秦檜、岳飛を知りました。
歴史をどう読むか、難しいですね。
真実だけであまりに味気なく、フィクションでは歴史と無関係・・・

でも、歴史を理解したうえでファンタジーの世界に惹かれますね。

「墓の前には両側に三人づつ六人の石像、この人たちは誰だろう。」
こういうの良いですね。

Posted by オコジョ at 2007年11月23日 20:02
あの臨安水滸伝は、この記事のためにアップしたのですが(^_^)。
歴史は間違って読んではいけないが、公式記録を盲信してもいけない。
特に後に美化された話は、疑ってかかる必要がありますね。
孔明の名軍師説もおかしいし。
日本でも、長篠の戦いでは鉄砲の三段撃ちはなかったとか、桶狭間の戦いは奇襲ではなかったとか、いろいろ言われています。
歴史小説は、判っていることをどう解釈するか、その間をどう埋めるか、にかかっているのでしょう。
井上祐美子さんは無理なく埋めていると思います。
Posted by 謫仙 at 2007年11月24日 08:01
歴史ではありえない秦檜の姿を、このように作ってあるのですね。
なんとなく「歴史の創作」という言葉が浮かびます。
今は本当の歴史といわれているものが伝わっていますが、もしそれが分からなくて、この像だけが伝わると、秦檜は「密約がばれて、処刑された」などという歴史になりそう。案外中国史はそのようなことが、あったのではないかなという気がします。
歴史小説は、このような像に左右されないように気を付けなればならないでしょう。小説家を尊敬してしまいます。
Posted by mino at 2007年11月26日 20:00
たとえば戦国時代、あちこちの国で、歴史を書いています。
ところがその中に食い違いがある。同一人物が二百年もずれている。あるいは兄のほうが弟より五十年遅く生まれている。
正確な記録が失われるとこいう現象が生じます。
これらは意図的なものではなくて、記録の不確かさに依るものですが、秦檜の像は意図的。ただ、歴史が判っているので間違わない。
小説家は、こういう所をきちんと調べて、隙間を創作するわけですが、できない作家もいますねえ。
歴史小説家の調査力にわたしも感服します。
Posted by 謫仙 at 2007年11月27日 08:54
“還我河山”
Posted by Nothing at 2008年09月04日 18:23
Nothingさん。
ありがとうございます納得しました。本文も訂正しておきます。
Posted by 謫仙 at 2008年09月05日 17:28
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