の杭州編である。
紹興から杭州は近い。杭州に入るとバスはメイン道路の延安路を通り、武林広場から曙光路を通って、百合花飯店でトイレ休憩する。
わたしはガイド(中国側添乗員)と一緒にフロントに行って、明日以降の宿泊予約を確認。このころ陽がさして晴れていた。
それから間もなく、雲松書舎につく。杭州植物園の一部である。ここは金庸さんの別荘になるはずの所だった。建てたのは1996年、もう10年以上たつ。

ここは植物園の土地だが、「雲松書舎」の碑がある。この碑がないと、雲松書舎の入り口であることが判らなそう。
「双峰挿雲」の碑もある。双峰挿雲は西湖十景のひとつ。この後ろの二つの峰に雲がかかる様子が美しいとか。ここからは見えない。見るには西湖の島か船上から。

この門を入ると、小さいが帰雲荘のように衝立のような屏がある。
その裏側は金庸さんの説明の碑になっている。自分の別荘にそのようなもの書くか?

門の脇の案内板。
松風明月楼が二階建ての中心の建物。賞心斎は書斎。聴松亭はあずまや。
左上には小さな棋室がある。
門右の接待室は各種の団体の事務所になっているようだ。
耕耘軒はなんだろう。接客室かな。
全体的な設計は中国的だが松風明月楼は洋館。面積3200平方メートル。

まずは耕耘軒、柱の連は作品の題名が使われている。
右 飛雪連天射白鹿
飛狐外伝・雪山飛狐・連城訣・天龍八部・射G英雄伝・白馬嘯西風・鹿鼎記
左 咲書神侠倚碧鴛 (咲は笑と同じ)
秘曲笑傲江湖・書剣恩仇録・神G侠侶・侠客行・倚天屠龍記・碧血剣・鴛鴦刀

耕耘軒の前の庭、この形にも八卦の意味があるのだが説明を覚えていない。右が衝立の裏の金庸さんについての説明。
ここで撮った集合写真が、岡崎先生訪問紀年として、飾られるかも。
図の左の方へ行く。

四阿(あずまや)は聴松亭、ここは行かなかった。

池の向こうに松風明月楼、二階は寝室などが並んでいる。
左は賞心斎。

池は結構広い。水は濁っている。大雨の影響か。

賞心斎は書斎である。金庸先生の本が並んでいた。間もなく日本語訳五十数冊も並ぶことだろう。隣の庭の石畳は巴模様。
次は棋室、小さいといっても八畳くらいはあったか。廊下からいきなり中に入ってしまったため、外側の写真が撮れなかった。

ガラス窓のそばにあり、椅子がこちらを向いている。

この部屋に入ったのはわたしだけだった。碁石は丸餅のように片面が平ら、なんとなく持ちにくい。

碁盤・碁笥・碁石とも三流品に思える。その他の造りと比べてバランスが悪い。これは金庸さんが揃えたとは思えない。誰でも自由にさわれるよう三流品にしたのか。
岡崎さんは碁を打てないのであるが、
「聞くところによると、金庸さんはプロ並みに強いそうです」
1924年生まれ、すでに八十歳を越えるので、今ではそんなに打てないだろうが、「プロ並み」というのは微妙な表現だ。プロ並みになるには、子供のときに、一日十時間十年の勉強が必要という。金庸さんがそれほど碁に打ち込めたか疑問だ。もちろん例外はあるし金庸さんは天才なので、なんともいえない。日本なら地方の県代表クラスと考えたい。一度金庸さんの碁を見てみたいものだ。

松風明月楼の一階。
二階に昇る階段には、参観禁止の文字がある。しかし、岡崎さんの一行ということで許される。許されるどころではない。是非見て下さいと言わんばかり(実際に言ったであろう)。
岡崎さんは金庸小説の文字通りの第一人者だ。金庸小説を日本に初めて紹介し、訳本すべてを監修している。
初めての翻訳「書剣恩仇録」では、主人公陳家洛を「チンカラク」にするか「チェンジャールォ」にするか迷ったという。結局は時代劇なのでチンカラクにした。回族の霍青桐はホチントンとする。こちらは漢字の日本語読みではおかしいので妥当な読みだ。
寝室はまるでホテル。
寝室の天井はこんな照明が。
ここには隠し部屋があると言うのでみんなで探した。本箱の裏側にあった。強盗などに入られたとき、一時的に避難する場所である。狭いが電話がある。
奥様の寝室も別にある。

二階から池を見下ろす。
西湖に近く杭州植物園の中に土地を提供され(3200平方メートル)、千四百万元(二億円ほど)のお金をかけて、1996年に別荘を建てたが、そのまま使わず杭州に寄附。ローカルな観光地になっている。ちょっと「できレース」の気もするが、追求しないことにしよう。もっとも一晩は泊まったことがあるらしい。そうでなければ元別荘と名乗ることもできない。
「できレース」でなくても、このような土地を個人で所有することには問題がある。まるで主席や首相並みである。庶民の反発もあろう。
わたしは02年に西湖に来たことがある。その時は、蘇堤の西側は庶民の船が入ることは禁止されていた。政府トップクラスの別荘が並んでいるからだ。今は入れるようになっていた。それに近いような一等地である。
−彼はなんの資格があって、この土地を私有できたのだ。−
金庸さんが、建ててはみたものの、すぐに寄附してしまったのは、この問題に気か付いたためかも知れない。
参考
金庸 −中国最高のPRマン−
書庫−金庸
書庫−武侠
武侠の碁
すごいですね。
私の知っている中国人は都会ではほとんど、アパートか、マンション住まいでした。
庶民にとっては、夢のまた、夢なんでしょうね。
庭も、家の中も、気品に満ちた落ち着きが感じられますね。
住む(住もうとしたかな)人の品格を感じます。
天一閣を建てた範欽のようなものでしょうか。
わたしには杭州に寄附することを念頭に置いて建物の設計をしたように思えます。
逆に書舎の計画が先にあって、ではここに……と、場所を提供されたのではないか。
本来は自分の書いた本を収める程度の、賞心斎のような建物を考えていたのに、広大な土地なので別荘形式にしたと。
これはわたしの想像で根拠は何もありません。
とにかく品格のある人のようです。岡崎由美さんが、翻訳の始まりにあたり、許可を取るために訪問したときの様子を書いていますが、生活まで品格を感じます。
生涯を500ヶ月としても40人分の生涯給ですよ。
この数字は当時は給料が低かったための見せかけでしょう。
それでも、土地代がかからないので、金額以上の建物ができたと思います。
それにしても、首相や主席並みの待遇。日本では考えられませんね。
驚きました。
つまり、そんな時代の2億円です。
>生涯を500ヶ月としても40人分の生涯給ですよ。
見かけは変わっても、実質はそれくらいあったのではないかと思いますね。
個人が公共の物を作る。一部の金持ちが富を独占する社会では時々あるようです。
特筆するのは金庸さんは自分で得たお金を使っていること。組織のお金を自分の物にした訳ではないことでしょうか。
小生、’93年から’97年にかけて、公私で数回杭州に行きました。
’97年にこの植物園の中のレストランで昼食を食べた記憶があります。
そのころは、金庸は翻訳も無く、映画「東方不敗」の原作者らしい位しかしらず。このような別荘を建てていたとは全く気がつきませんでした。
今思えば・・・ですね。
敦煌や大理・麗江にもいかれてらっしゃるようですね。
私も、中国の辺境好き(笑)でして・・・。
今後ともよろしくお願いします。
97年なら建てたばかり、一般には知られていなかったと思います。
>今思えば…
当時は日本では名を知られていませんし、たとえ言われても重みがなかったでしょう。
また行く機会があったら是非いらしてください。
敦煌の先もあるのですが、今回の旅があって中断してしまいました。
いまは「鹿鼎記」、その後は「碧血剣」に話題が移る予定(^_^)。
それが終わったら再開する予定です。