2007年10月20日

寧波 1 河姆渡遺跡

 岡崎由美先生と行く中国の旅
武侠小説「射G英雄伝」ロケ地と寧波をめぐる旅
に参加した。
 具体的には10月6日から10日まで、桃花島・寧波(ニンポー)・杭州の旅である。
 この企画を知ったのは8月。
 けっこう高い。去年の桃花島旅行の2倍である。その代わりわたしには豪華旅行であった。なにより岡崎さんの解説付きというのが嬉しい。
 予定では、
 6日 出発 河姆渡遺跡見学 寧波宿泊。
 7日 天一閣・天童寺・阿育王寺見学 寧波宿泊
 8日 フェリーで桃花島へ 桃花塞見学 桃花島宿泊
 9日 射雕英雄伝旅游城見学 フェリーで寧波へ戻り杭州まで 杭州宿泊
10日 市内観光(復活老街) 帰国
 この後、ひとりでまた寧波に行き、「神G侠侶城」を見て、杭州で数日過ごし、16日に帰国する予定で申し込んだ。
 添乗員と岡崎さんを含めて16名であった。

 出発の数日前台風15号が発生し、その予定進路が8日ごろ桃花島、我々とぶつかってしまう。
 成田の集合時間ぎりぎりに間に合ったが、岡崎さんが遅れていた。すぐに出国手続きを済ませ、中で集合した。
 岡崎さんは「旅行社からこの話があったとき、そのようなツアーが成り立つのかしらと心配した。大勢来てくれてありがとうございます。それにしても皆さん好きですねえ」
と挨拶。

 杭州空港は小さくて、入国は簡単だった。もっとも添乗員が必要な書類を次々と指示したので、迷わなかったのが大きい。
 別な便で来た3人と合流し、1時過ぎに寧波に向かって出発。このバスは帰国まで同じ。
 高速道路が渋滞しているので不思議に思っていると、間もなく、ひっくり返って腹を上にしたトラックが見える。明らかに荷物の積み過ぎ。

 紹興近くの農民は裕福な家が多い。三階建て、小さなマンションと思えるのに、これで一軒の家だという。若夫婦は都会で仕事をし、老人と子供で、生活しているとか。ほとんどが空き部屋といった感じである。そこまでは「へエー」で済んでしまうが、その家のデザインや色彩感覚がラブホテルを思わせて、見ていてなんか落ち着かない(^_^)。

 寧波(ニンポー)が近づくと雨が降り出した。
 途中、河姆渡(カボト)遺跡博物館を見学。ここに行くのに、細い道に入っていき、後戻りした。なんと運転手が道に迷ったのだ。ここからは舟で対岸に渡らねばならない。
 広い通りまで戻ると、通りかかったバイクに案内してもらう。江沢民が来るとき作ったという立派な橋を渡ってコの字型に行った。川の対岸が先ほど迷った所である。
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 ここには先史時代、7000年前の遺跡がある。1973年に発見された。古さといい、レベルの高さといい、黄河文明に匹敵する。なお、杭州の浙江省博物館でも「河姆渡遺跡展(正式名は浙江省7000年展)」が開かれていた。
 外側からレクチャールームに連れて行かれる。ビデオが写っていたが、途中で打ち切り初めからやり直す。日本語の説明であった。
 それにしても、途中まで見ていた中国人には申し訳なかった。
 以下写真が多くて重いと思いますが、我慢して……。
 暗い中、ガラスを通しての撮影。
 
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 これは鏃。弓でパチンコ玉を飛ばすその球もあった。
 針もある、かなり細い。糸は麻を使った。

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 以下陶器が並ぶ。

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 皿には模様が入っている。

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 写真では見えないが豚の絵が描かれている。

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 これには稲穂の模様である。

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 これはかなり大きい。浙江省博物館で見たもの。以下(浙博)とする。

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 釜であろうか。(浙博)

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 籾。このころから稲作を行っていた。(浙博)

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 農耕用の鋤(すき)の先。骨でできている。(浙博)

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 木材に加工が施されている。(浙博)

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数センチの小さなものである。子供のおもちゃであろうか。(浙博)
posted by たくせん(謫仙) at 10:40| Comment(6) | TrackBack(0) | 江南 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
旅の始まり・・
これからが楽しみです。

素朴な焼き物を楽しませていただきました。
素朴ですが、力強さを感じますね。
そして、生活の実感も・・・

これから陶芸の例会に出かけます。
この焼き物をみてしまうと・・・(笑)
Posted by オコジョ at 2007年10月21日 08:07
初っ端から自由奔放な中国という雰囲気が伝わり(バスの運転手さん、レクチャールームでのひとコマ)ます"^_^"

16名ほどのツアー、中型バスで移動だったのでしょうか〜コジンマリしていいでしょうね〜♪
Posted by 千春 at 2007年10月21日 13:44
オコジョさん。
文明は体に影響する。ゴリラに針仕事はできない。細かい仕事は細い指と繊細な筋肉によって可能となる。
この時代の人の体格や仕事から考えると、陶器さえ豪快な造りになりますね。素朴な力強さ、だから細い針に驚かされました。あまり細くて写真できなかったほどです。今の針の倍くらいの太さでしょうか。
器はなんのためにあるのか。ということでしょうか(^_^)。
Posted by 謫仙 at 2007年10月21日 16:38
千春さん。
中国は表面は先進国なみになっていながら、一般の水準はまだまだ。そのギャップがそんなところに現れてくるのでしょうね。
たとえばレストランでビールを注ぐとき、隣の人の向こうから隣の人越しにビールを注ぐ。
お茶を茶碗一杯に。
遠く2千キロも離れたところから出てきた少女たち。この娘たちが健康を損なう前に、一人前になれれば良いのですが。

まだ低賃金ながら見習いができるのは良いことかなとも思います。日本では見習いが難しくなりましたね。修行する期間がなくいきなり一人前の働きを要求される。就職難です。
もっとも奴隷労働とならないよう、注意が必要ですね。
Posted by 謫仙 at 2007年10月21日 16:56
私は、かぼと遺跡に行ってきた。遺跡は余よう川の河岸にあり、その位置は、海抜2mほどのところにあった。そして、この遺跡は、今から7千年前のものだとのこと。

そうすると、大きな疑問が湧く。7千年前は、縄文海進の真っ最中で、文献によりその値は異なるが、海面は今より2〜3m、あるいは10mほど高かったとのこと。

そうなると、いずれにしても、当時かぼと遺跡は海中に没してしまう。それでいいのか。

中国側の資料によると、当時ここは熱帯に近いほど暖かく云々との説明があり、どう考えても、その時代が7千年だというのには疑問が多い。だれか、この謎を解いて欲しい。
Posted by 木下崇 at 2012年03月23日 19:15
木下崇さん
わたしはそこまで考えていませんでした。ですから、この謎を解くことはできませんが、可能性を考えてみます。
>海面は今より2〜3m、あるいは10mほど高かった。
2〜3mは常識ですが、10mは参考意見でしょうね。縄文海進が一番進んだのは六千年前といいます。だから七千年前はぎりぎりでしょう。高床式の家に住んでいたのも、時々潮が床下まで来たからと思われます。水田も塩水を被るようになり、河姆渡は放棄され遺跡になりました。だからこの文化は河姆渡遺跡のあたりでは七千年前に途絶えています。人々は別な地域に移動したと思われます。
だから縄文海進によって滅んだというのは頷けます。だんだん潮が高くなり、堤防を壊し、あるいは越えてきたと思われます。
年代測定というのは、某教授のような故意の誤魔化しがなければ、案外正確なものだと思いますよ。八千年前とか九千年前とか言ったら、どこかに矛盾が生じると思います。
Posted by 謫仙 at 2012年03月24日 07:33
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