四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 7
朝食の時、外は雷雨であった。
七時前、雨の中を出発、2時間ほどで都江堰(とこうえん)につく。曇ってはいたが、雨はやんでいた。
薄暗い中で、入場券を買う添乗員とガイド。
入る前に、ガイドは入り口の案内図を示して、都江堰のシステムを説明。
岷江をここで分流し、水不足だった成都周辺を潤した。
都江堰は秦の始皇帝の時代より少し前に築かれた。始皇帝の巨大建築などは無くなってしまったが、この都江堰は二千三百年後の今でも機能を果たしている。
この灌漑設備によって、成都平原は「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となった。
ただし、システムは同じでも始皇帝の時代の都江堰ではない。先端の「魚嘴」が当時はもう2キロほど上流にあったという。
この図は、入り口にあった案内図ではない。
中央の中州4が人工の堤防で、先端の魚嘴2で川を左右に分水する。
左3が岷江本流、右5が灌江。
図の中で特に重要なのは2の「魚嘴」である。
灌江を深く、岷江を浅くした。そのため水の少ない時は、灌江6割、岷江4割。
川幅は、灌江を狭く岷江を広くした。水の多いときは、灌江4割、岷江6割。
構造によりそのように分かれる。これにより灌江に分流される水量が安定する。それでも多すぎたときは、図の7で本流に戻す。それによって、必要な水量をいつでも灌漑水路に流せる。
このように竹籠に石を積めて、堰を作った。
秦堰楼から、都江堰を眺望する。
向こう側が霞んでいるが、上流である。左右中央から右にかけて細長く中州状になっているが、その先端あたりが始皇帝の時代の魚嘴のあったところらしい。
この中州が人工の施設。右の先端の低いところが、魚嘴といわれる。
その向こうの岷江本流側に1974年に閘門が完成した。今はこれで灌江の水量を調節できる。
吊り橋である。人が多いとかなり揺れる。
下流方向も工夫があって、灌江に取りすぎた水を岷江本流に戻し、水量の調節をしている。
二王廟、ここまで下って見学。
二王廟
李冰は秦の昭襄王から銀十万両を与えられ、4年の歳月で完成させた。その後8年で運河を切り開いた。李冰は完成前に亡くなり、息子の李二郎が引き継いで完成させた。
二王とはこの親子である。
2008年の四川大震災の時に一部は壊れたが、3年をかけて復旧した。
二王廟の本堂。
この一階部分が入り口、下から上がってくる。私たちは裏口から入ったようなもの。
サルスベリが目を引く。
本堂をもう一度見て、階段を下りる。
階段の下から見上げる。
下まで下りてきた。水の流れはかなり速い。
「貴君は何本の香を焚くや」
「三本なり」
この台詞の意味が判る人はお仲間だ。
何先徳夫妻
1804年、何先徳が橋を架ける工事を始めた。事故の責任を取らされ死罪となったが、妻がその意志を継いで吊り橋を完成させた。
吊り橋は夫妻橋ともいわれるとか。
安瀾索橋つまり吊り橋の上から。
渡り終えて振り返る。
魚嘴の上の水が岷江から灌江へ流れ込んでいるのが判る。
岷江にはこの水門がある。1974年に完成した。さらに四キロほど上流には大きなダムがある。
岷江本流
先ほどの吊り橋を渡って戻り、出口に向かう。
外から。こちらが表門であろう。
焚く香は一本かもしれませんが、意味は判ります。
歓迎です。一本か二本かは関係ないですね(^_^)
もう一つお仲間が。
判ります、で「判る」を使ったこと。意識したのか偶然か判りませんが、これもお仲間です。