水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 5
至聖林(孔林)
至聖林(孔林)は孔子とその一族の墓所である。ここも紅墻に囲まれている。
孔林の広さは2平方キロ。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に孔廟、孔府とともに三孔として登録されている。
歩いている後ろの方向。木の陰になってしまったが、万古長春と書かれた坊。そこから歩いた。柏(コノテガシワ)の並木が続く。
三輪タクシーが多い。馬車も走っている。
至聖林門から入る。

下から
万古長春坊
至聖林門
二林門 ここから紅墻内に入る。
至聖林の紅墻内は東西約1.9キロ、南北約1.2キロ。この中に十万を越える墓があるという。ここも徐々に大きくなり、清代に今の大きさとなっている。
至聖林門での説明では、この門から孔子の墓まで1キロ、往復2キロを歩くか、周囲10キロをカートで行くか。この2コース。カートで行くことにした。
二林門の写真を撮ることが出来なかった。二林門から右にまがって、山中の道を行く。
見たところかなり空き地がある。ただの土まんじゅうもあちこちにある。
時々整備されたところを見る。
墓道にまで坊があった。
乾隆帝の娘の墓地らしい。
ほぼ一周し、図の二林門の少し左でカートを降りた。そこから北へ(地図では上へ)歩く。
まず沫水橋を渡る。この辺りが昔の魯と斉の国境であった。至聖林は国境を跨がっている。
沫水河といっても小川程度。この川には始皇帝の伝説がある。焚書坑儒のとき、この川を赤く染めることによって、墓所の存在を許したという。そのような助言をした人がいた。
この幸せそうな顔。聖地を守っているせいか。

享殿

享殿の裏側には子貢が植えた楷(かいのき)があったという説明がある。
このときガイドの王さんから、子貢ってどんな人だか知っていますかと訊かれた。
わたしは「商人で全国を回って商売をし、行った先々で、うちの先生(孔子のこと)は偉いと宣伝した。それで孔子が偉いということになってしまった」と答えた。
子貢の財力は桁外れで、孔子一門の生活を支えたこともあったという。もし子貢がいなければ孔子は諸子百家のひとりで終わっていたであろう。
わたしは孔子よりも兼愛(博愛)と墨守(専守防衛)を説いた、墨子のほうを高く評価している。
しかし、王さんの言いたいことと、わたしの答えとは少しずれていた。
孔子の墓であるが、仮の墓である。遺骨などはない。
大成至聖文宣王墓の王の字に注目、俗界の王に遠慮したという。後ろの小さいものが本来のもの。

孔子が亡くなったとき、子貢がここで三年の喪にさらに3年、6年喪に服したので、この前に墓があったのではないかと思われ、墓の位置を想定した。
子貢はそんな人であったのである。これが王さんが言いたかったことだった。
なお、「三年の喪」はあしかけ三年で、実際は2年1ヶ月程度といわれる。これはあしかけ三年も働かなくても生活できる人の話。庶民では飢え死にするであろう。
享殿前から沫水橋方向。
またカートに乗って至聖林門まで行く。
ここから馬車に乗って、ホテルまで帰ることになった。一台に13人なのでぎゅう詰めである。
大通りを馬車で通る。数人しか乗っていない向こうの馬車を追い越した。この馬は蒙古野馬で、体は小さいが力は強い。
そういえば大通りを「馬路」という。馬が通るのは当然か。
馬車が方向転換して戻っていく。