西暦と年号では一ヶ月以上ずれていている。そのため一年のずれが生じることがある。
参考 たくせんの中国世界−李清照 −詞后の哀しみ−
西暦、年号 (李清照年齢)
主な出来事 ☆印は李清照関連 ★印は宋関連
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907 朱全忠、唐を滅ぼす。五代十国の始まり。
916 契丹の耶律阿保機、皇帝を称した。
937 契丹は国号を遼と改めた。タイ族の段氏、雲南に大理国を建国。南唐建国。
958 南唐二代目李m、帝号を去り王となる。皇帝として即位したが王に格下げした。外圧による。
960 ★宋太祖(在位960−976)趙匡胤(ちょうきょういん) 帝位につく。
この年から宋朝となるが、その国是として、「言論で人を殺さず北周柴氏の祭祀を絶やさず」とした。意見の差によって死刑にされることがなくなり、宋はきわめて言論が自由な国であった。
この対極にあるのが明である。一言の失言で死刑になるため、重臣たちは毎朝死の準備をして出仕したという。結局ほとんどの建国の重臣は殺されてしまう。
北周柴氏とは、趙匡胤に国を禅譲した前王朝の主である。従来の王朝では、機会をみてこのような人と一族を殺してしまうのだが、宋は滅びるまで柴氏を厚遇している。
961 建隆1 南唐後主李U、王となる。李Uは後に詞帝と称される。
参照 たくせんの中国世界−李後主 −詞帝−
973 開宝6 ★はじめて講武殿にて覆試を行う。殿試はじまる。
唐代から始まった科挙が定着した。唐代は実質貴族のみであった。実質的な科挙の始まりである。後に弊害が生まれたものの、この制度は他にないすばらしい制度であった。あまりにすばらしすぎたので、弊害が生じても止めることができず、中国近代化の妨げとなってしまった。
975 開宝8 南唐を滅ぼす。南唐後主李Uは、首都汴京(ベンケイ(開封))に囚われの身となった。そこでも数々の優れた詞を作ったが、結局汴京で没した。
976 開宝9 太平興国1 ★太宗(在位976−997) 10月に即位。
2代太宗は初代太祖の弟である。初代の即位も太宗の辣腕に負うところが多く、太祖の死にも疑わしいところがあるといわれている。
977 太平興国2
978 太平興国3 南唐後主 李U死す 42歳。一説に毒殺されたという。言論では殺さない宋の例外ともいわれ、はっきりしない。なお中国の高官の死刑は毒死である。江戸時代の切腹に相当するか。
979 太平興国4 ★宋によって中国統一 北漢が滅び十国終わる。
★太祖の子 趙徳昭(951−979)自殺。
980 太平興国5
981 太平興国6 ★太祖の子 趙徳芳(959−981)没す。ここに太祖の子は二人とも死んだことになる。かなり問題のある死に方であった。
997 至道3 ★真宗(在位997−1022)即位 太宗の子。
1001 咸平4 ★天下の冗士19万5千余人を減ぜん。大量の解雇である。役人の数は唐代の倍もいたという。
1004 景徳1 ★澶淵の盟(せんえんの盟)、遼と講和条約を結ぶ。歳費として絹20万匹・銀10万両を、宋から遼に支払うことになった。
1019 天禧3 司馬光 生まれる。旧派の筆頭である。王安石の改革を覆した。しかし、自ら改革案を出せず、宋を亡国に導く。
1021 天禧5 王安石 生まれる。後に国政改革を断行する。
参考 たくせん中国世界−王安石 −改革半ばにして−
1022 乾興1 ★仁宗(在位1022−1063)即位。仁宗は即位するまで生母を知らなかった。知ったときは生母はすでに死去していた。
1038 宝元1 李元昊 夏(西夏)を建国、皇帝を称す。
1042 慶暦2 ★遼への歳費が絹30万匹・銀20万両となる。
1044 慶暦4 ★西夏への歳費 絹13万匹・銀5万両・茶2万斤となる。平和も購ったことになるが、遼と西夏への歳費は財政を圧迫した。役人の多いことに加え、租税負担層が薄くなり、税収が減ったことも原因で、亡国の道を歩み始める。
このころ活字印刷術が発明される。
1060 嘉祐5 王安石「万言書」を奉る(1058年説あり)
1063 嘉祐8 ★英宗(在位1063−1067)即位。
1067 治平4 ★神宗(在位1067−1085)即位。
1069 煕寧2 ★王安石、参知政事となる。
形式的には副宰相だが、事実上の宰相に相当する。財政危機に当たり、新法を実施した。以後、科挙の上位合格者による特権グループの旧法派と、改革を目指す新法派の間に、新旧の争いが起こり、王安石の改革は覆される。
1074 煕寧7 王安石 下野。
1075 煕寧8 王安石 また宰相になる。
1076 煕寧9 王安石 辞職。
1079 元豊2 蘇軾 左遷される。
1084 元豊7(1歳) 司馬光 資治通鑑を著す。
☆李清照生まれる。山東省済南。なお「李清照詞析賞」では元豊6年となっている。
この表は政和4年31歳を基準にした。年齢は数え年である。
つづく
HPにあったものをここに移動しました。
今までは、普通では表現できない漢字が多く、HPではちょっとした一般的でないやり方で、無理に入れていたのですが、今のブログではほとんどの漢字が表現できるようになりましたので、移すことにしました。
長いので、唐末から李清照出生までを(前)、出生以後を(後)として前後に分けました。