古龍の小説はいつもながら人物設定が際だっている。個性があるのだ。
大草原の小さな町、その郊外にある巨大な牧場。そこに集まる正体不明の風来坊たち。そればかりではない。町の人たちもいわく因縁のある人が多い。そして牧場の主やその配下たちも一筋縄ではいかない人ばかり。
こう書くと、あれっと思うであろう。固有名詞を替えれば、そのまま西部劇になる。そもそも中国の北方にこのような町がありうるのか。そう考えると、これは武侠小説の形をとった西部劇であることに気づく。
野田昌宏の小説に「銀河乞食軍団」がある。これはスペースオペラ形式の江戸時代小説なのだが、それを思い出す。そちらは、「お約束」を踏み出さないので違和感がない。
しかし、「辺城浪子」はどこか違和感がある。それは「武侠映画の快楽」に書いた古龍の立場から生ずるにしても、どこか「お約束」の設定を忘れているような感じなのだ。
この世界の権力は何処にあるのか。貨幣価値はどう維持されているのか。牧場の生産物は誰が買うのか。
金庸ではこのような問題が生じない。ドラマでは懐に手を入れると馬蹄銀が涌いてきて、荷物を持っていないのに、必要になれば生じる(たとえば小龍女の綱・各種の毒薬や解毒薬)のも、「お約束」として納得できるのだ。
だから金庸ドラマで、50メートルを飛べるお約束なのに10メートルを飛べなくて困るのは問題(お約束違反)だと言うのだ。
古龍はこのお約束がかなり曖昧で、読んでいて、いつも後出しジャンケンを食らったような気がする。
第一巻の裏表紙を紹介する。
天は黄沙に連なり、黄沙は天に連なる荒野の辺城に面妖な浪子たちがたむろしていた。
いずれ劣らぬ凶状持ちのなかで、風沙に転がされて萎れた菊を胸に挿した葉開は、ひとりの男に日を奪われた。黒ずくめの衣装に漆黒の刀剣を身につけた剣客。だが、その名は」傅紅雪といって、「俺が死んだら、棺を買え」とありあまる宿代をはずんだ。
殺意を秘めて、そんな荒くれたちが武芸猛者の砦「関東万馬堂」に招かれた夜、殺戮の嵐が始まった。
酷薄な古龍節が流れる、チャイニーズ・ウエスタン!
第4巻で終わるが、最後にどんでん返しが四五回出てくる。
この小説はミステリー性もある。だが、謎解きを最後に集める必要はないだろう。それがなぜ集まったか。
あるどんでん返しは、主人公はもちろん初めから知っていた訳だ。他の人もそれぞれどんでん返しを知っていた。
主人公は葉開、副主人公が傅紅雪だが、視点は各人に動く。心の内部にも立ち入り、「こう思った。」とか、「覚えているとも。」とかいう文が地の文で出てくる。
それなのに葉開はどんでん返しのことを言わない。つまり、謎は、作者が読者に言わなかったからであって、ある登場人物にとっては謎ではない。それを謎として最後まで引っ張る。読み終わって矛盾を感じてしまう。
ミステリーではそのためにワトソン(役)を使うのだ。ワトソンが発表する形なら、探偵が知っていることを読者に秘密にすることができる。
この小説のように登場人物が読者に秘密にするのは論外だ。このあたりが、わたしがおもしろいと思いながらものめりこめない理由である。
金庸なら、視点の持ち主が、謎を解いた時点で発表している。つまり読者と同じ視点である。
例え集中しても、謎を解いた時点なら問題ない。それを読者に隠しているのが、この小説である。
もう一つ、敵役の馬空群は、傅紅雪が仇討ちに来たと判ると、財産を牧童たちに分け与えて、逃亡する。こんな太っ腹な人物のはずなのに、その後は卑劣漢。ここで人格の変換が行われている。予定変更か。
私は,ただいま陸小鳳に夢中です。
訳(妄想訳ですが)していて思わずにんまりしてしまいます。
金庸老師の天龍八部の一部も訳しましたが、自分で読むと面白さや、感情が伝わってきますよ。金庸老師の本の方が難しいです。
では、またお邪魔しますね〜
金庸なら夢中になって食事時間も忘れて読みふけるのに、それに比べて、どこか入り込めないところがあるんですね。
結局、ストーリーを考えてしまう。だからこのシーンはこのストーリーに必要かどうか、要らないんじゃないかとか。
金庸の場合だと、何気ないシーンで気にも留めないでいると、それが実は重要な伏線となっている。天龍八部では段誉君の滝のシーンとか。
古龍は伏線かと思いきやそれで終わり。後でよけいなシーンだったと思ってしまう。
わたしは、余秋雨の「千年庭院」に取り組みましたが、一ページで挫折しました(^。^))。