2006年11月26日

慎重考慮1

 襄陽城の戦いの後、楊過の最後の科白「30年前、重陽宮に連れて行き教え諭してくれた…」
 あのとき13歳とすれば43歳ということになる。これは微妙だ。
 神G剣侠を再読していたら、古墓に来てから2年経って16歳になった、とある。それから1年ほどで最初の別離。18歳で二度目の別離。三度目の別離から16年後で36歳。この時老頑童は90歳。
 全真教の四代目丘処機は郭靖や楊康が生まれる前からすでに名を成していた。仮に30歳だったとすれば、それから楊康が生まれ、楊康が20歳ころに楊過が生まれ、それから36年。丘処機(全真七子も)はすでに85歳を越えていることになる。
  小龍女は楊過より年上だが、十代のまま。歳を取らないのは問題とは思わない。小龍女はそういう設定なのだ。
 慈恩が死ぬとき、一灯大師は「慈恩が弟子になってから30年」という意味のことを言っている。あれは楊過が生まれたころだ。それからすれば楊過は30歳くらいになる。誤差の範囲とみるか。

 神Gの大きさも問題。普通のイヌワシではなく、特別な鷲なのだが、大きさは楊過くらいのはず(小説では楊過より大きいとある)。
 翼は小さくて飛べない。しかしDVDでは、立った姿は楊過の三倍ほどあり、確かに楊過より大きい(笑)。比率では普通の鷲ほどの翼を持つ。これでは飛べるはずがない。三倍としても体積は27倍、重さは2トンほどか、鳥の骨は軽いので体重は軽いとしても1トンは越えよう。アホウドリでさえ、羽ばたきでは飛べないのだ。
   sinchou1.jpg
 ここでは二倍程度に見える。それでも体積は八倍、重さは500キロほど。しかも楊過は神G侠侶として有名なのだ。同じ程度の大きさなら問題が少ないが、馬ほどもある巨Gでは、世界を現世に設定した以上問題ではないか。金庸は飛べないと設定し、大きさも楊過と同じくらいにしたので、存在が保たれていると見るべきであろう。特別な鳥云々と説明しているが、うまくできなかった言い訳にしか思えない。
 羽ばたかず楊過と同じように内力で飛ぶとすれば一応クリアする。

 それからフビライが中国語で普通に話している。当然モンゴル語で話すところ。漢人と話すときは中国語でもかまわない。まるで初めて地球にきた宇宙人が英語で話をしているようなもの。

 再掲するが、李莫愁が情花(茎の棘には毒がある)畑の真ん中で外に出られなくなる。しかし、この十メートルくらいの距離ならひとっ飛びで越えられるはずだ。この物語の冒頭は李莫愁が広い池を越えるシーンだったではないか。その時は蓮の葉の上をちょんちょんと蹴りながら行く。それができるなら情花の畑もそうして飛べばよい。それなら百メートルでも問題ないだろうに。なにしろ、そこまで飛んで入れたのだから。
 小説では絶情谷の弟子たちが情花をまわりに置く。それで飛んで出られないほどの幅になり、飛ぶ力もその程度。
 そもそも古墓にしても(小説では普通の洞窟)、居住空間の天井に出入り口があり、高さ十メートルくらいを飛んで出入りしている。戦いのシーンでは数十メートルを飛び越えるのは珍しくない。整合性が欲しい。
    kobo3.jpg
 居住空間。キノコの頭のようなところが中心で、石の棺桶が6つくらい並んでいる。右の明るいところが出入口。下は池。居住空間は他にもある。
 古墓の中は至る所水がしたたり、水たまりがある。水でいろいろな情景を表現したというが、本来食料の貯蔵庫だ。それでは役目を果たせまい。最初の設定を忘れてしまっている。断龍石の問題もある。
    kobo2.jpg
 この入り口を塞ぐ巨石(断龍石)が上から下りてくる。どこにあったのか。
       danlyuseki.jpg
   この入り口を塞いだ岩が断龍石
 どうもSFと童話との区別が付いていないようだ。原作者の金庸ははっきり区別していると思えるのだ。それが原作にないことをやろうとすると、とたんに整合性がなくなる。すごいシーンさえ撮れれば、その前後のつながりはどうでもよいと考えている。

 と、いろいろ書いたが、このドラマの良さは、小龍女の純粋な美しさとその情をうまく表現できたことだろう。白い衣装と優雅なダンスのような武芸。新体操のようなしなやかさと力強さも表現している。楊過の一途さもそれを引き立てている。それに古墓の舞台もだ。
 上に書いた様々なキズも、小龍女の神仙的なイメージの造成に役立っているかも知れない(本当はそんなことは思っていない。これだけすごいドラマをつくりながら、肝心な所がメチャクチャじゃないかと思ってる。価値は半減した。そもそも整合性のことなど考えていないのではないか)
 科白では、字幕には「楊過」と出てくるが発音では「過児(guor)」である。身内に使う。過児では日本人には通じないと思ったか。「楊過」では少し離れるだろう。楊大哥となれば、親しいが遠慮がいる。楊改之となれば他人行儀。
 もっと長かったものを日本語版を作るとき編集し直したらしい。そのせいか、たとえば、郭扶たちが古墓に入って、楊過たちに会ってから出るまで、切れ切れの画面が続き、意味が判らない。

 結論、このドラマは、原作小説を読んでいない人に意味が判るとかどうか疑問である。
posted by たくせん(謫仙) at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 神G侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がない ブログに表示されております。