いったいどうして、クドゥがだまし討ちをしたのを知っているのか。原作小説ではどうだったのだろうか覚えていない。設定を変えきれなかったのか。
李莫愁が情花(茎の棘には毒がある)畑の真ん中で外に出られなくなる。しかし、この10メートルくらいの距離ならひとっ飛びで越えられるはず。この物語の冒頭は李莫愁が広い池を越えるシーンだったではないか。矛盾。
洪七公は射G英雄伝では、貧乏神を思わせるスタイルだった。それが太ったおじいさんで出てくるのがおかしい。英雄伝を知らなければ何ともないが。
楊過が小龍女と結婚すると宣言するや、郭靖をはじめ回り中が反対し、罵りだす人もいる。DVDではわかりにくいが、江湖世界(中国社会も?)では師匠と弟子は親子の関係で、師と弟子の結婚は親子が結婚するように扱われた。非中華社会ではそんなことはないので、原作では楊過は侵略者の蒙古人に親しみを覚えるが、そのシーンはなかった。こうして金庸は、中国社会の勝手な思いこみにも、鋭くメスを入れている。
後半、神Gが登場した。恐竜のような体で鳥としては不自然。着ぐるみ(と、それをもとにしたCG)のようだが、もう少し鳥らしくできなかったものか。短い羽毛をつけるだけでも、かなり不自然さを隠すことができる。これでは鳥スタイルのコスプレだ。
神Gは空を飛んだ。体と翼の大きさのバランスが合わないが、これは内力で飛ぶとするか。
最後の襄陽の戦いは圧巻。もっとも原作を読んだ人には物足りない感じがするかもしれない。撮影の状況を知るとまあ仕方ないかな。
わたしのお気に入りは郭襄である。郭靖と黄蓉の間に生まれた。楊過と小龍女が別れる時に生まれ、16年後に再会するときに物語の中心となる心優しい少女だ。奇怪な顔をしている人にも普通に接し、それが後に襄陽を救うことに繋がる。
こんな紅葉のシーンがよく出てくる。まるで常秋の国のよう。
物語の終わったあとに、物語とは別に撮影の話がある。この41話34時間ほどの話を半年で撮影している。それは冬を中心とした寒い時期だ。美しい紅葉と吐く息が白いシーンが多いのも頷ける。
凍りつくような寒さの中で、何度も水中シーンが撮影された。スタッフは厚い防寒服を着ているのに、俳優は例えば公孫緑萼は夏のような薄着だ。ずいぶん無茶な撮影だったらしい。公孫緑萼(役)がこごえて動けなくなり、楊過(役)が助けたとか、黄蓉の乗っている馬が爆発音に驚いて暴走し、黄蓉(役)は無事だったものの涙ぐんでしまったり、一灯大師(役)が落馬して大怪我をしたり、楊過の子どものころの子役があまりの寒さに脱ぐのを拒否するのを、叩いて無理矢理脱がせたり、プロデューサーの張紀中が寝転がったまま横柄に「なぜ俺にたてつく」と指示するところや指示の内容などまるで暴力団の組長。
わたしの常識外のことが多い。わたしはけっこう楽しんでそんな話を見ているし、これが目玉でもあるのだが、それでいながら、作品の裏話は本来見せるものではないと思う。苦労はプロとして当然の話なのだ。わたしも徹夜で仕事をしたことがあるが、お客様には絶対に言わない。冬の撮影で大変だったというが、物語は冬ばかりではない。暖かい時期に撮影すれば済むこと。わざわざ冬に撮影し、大変だったというのはおかしくないか。少なくとも冬でなければならない理由を示せ。
裏話を知ると批判しにくくなるが、見る人はそんな裏話に関係なく、まずいところは批判してよい。強行日程など、それは日程を組んだ人が悪いのであって、だから粗悪品で我慢しろと言うのはおかしいのだ(そう言っているわけではないし、粗悪品でもないが)。同じく予算が足りないのも、それは予算ミスなのだ。
この物語は空前絶後のラブストーリーであって、武侠はその舞台である。小龍女の姉弟子で悪の権化のような李莫愁も恋に苦しんでいる女であり、ラストは哀れ。
えせ君子の公孫止の邪な愛もあり、その娘公孫緑萼のように楊過に恋をしながら、楊過と小龍女のために命を捨てる人もいる。
韓国ドラマを見てる最中ですが、やはり気性が激しいという印象がありますが中国人はどうなんでしょうね(^.^)
内力というのが出てきますが、これは普通にいえば超能力。エスパーの戦いなんですね。日本でいえば、昔の忍術漫画みたいなものです。
真田忍術軍団対徳川忍術軍団それに紀州の根来忍者や小田原の風魔一族が加わって暗闘する。
そう考えたら、おそらく疑問が解けるのではないかと思います。
金庸の場合は、これを歴史上の事件にうまく当てはめているので、歴史の勉強にもなりますよ。
中国の場合、たとえば共通のルールを作っても、自分だけは例外で適用しないと考えるような、尊大なイメージがします。