中国古代社会はよく判っていないことが多く、記録があっても現代人には理解に苦しむことが多い。それらを大方の小説家は現代の感覚で処理してしてしまう。宮城谷昌光は古代の感覚を想定し処理するため、首を傾げてしまうことが多々ある。
例えば、戦闘中に敵の大将を見ると、戦車をおりて礼をする。それを三度繰り返したため助かる。それによって兵が大勢戦死しても、問題外である。
敵将に向かって矢を射るのは失礼と非難される。
突然死んだのも、数年前に礼を欠いたため、と説明される。
まさか、と思いながらも、最後までこのような感覚で書かれているので、引きずり込まれてしまう。古代社会とはこういうものかも知れない。
思わぬ発見をすることもある。
商という国があった。後に殷と言われた古代帝国である。この国は酒を飲み過ぎて滅んだと思っていた。
中国史上最高レベルの青銅器が、この時代に大量に作られている。そしてほとんどが酒の器なのだ。貴族の階級として有名な爵位、つまり伯爵とか子爵男爵などの爵とは酒を飲むカップのことである。ほとんどの日が祝祭日になり、毎日酒を飲んで働かなかったという。
今の日本では祝祭日が1年に十数日あるが、これが300日もあったと考えれば判りやすい。これでどうして国を保つことができよう。
だが、「天空の舟」を読んで考えが変わった。
古代は呪術社会なのだ。最近でもこんな話がある。アマゾンの奥地の部落で、いつも春を呼ぶ呪術家が、病に倒れ春を呼ぶことができなかった。それにもかかわらず、春が来た。以後、この呪術家は、権威が失墜したという。
商は他民族を征服すると祭器をとりあげ、商王が祀った。神を奪ったのである。
日本を征服するならば、三種の神器を取り上げ、天皇をなくし、自国で祭祀を行えば、日本を従えることができる、と考えればよいだろう。
しかし、これで他国を従えるには、自分がその国の主として祭祀を絶やさないことが、絶対の条件である。これを怠れば、その国を従えることはできない。
商の時代は都市国家である。300の国を従えるには、300回お祀りをしなければならない。これが商の国が酒ばかり飲んでいた理由である。商王が他国を押さえるための仕事であった。戦争の時も、卑弥呼のような女を軍の先頭に並ばせる。
商の初期の王は短命であることが多い。先王の死後三年間の忌中に、体力を消耗してしまうからだ。
長男がその家系の祭祀を行うことは、つい最近まで、というより今でも続いている。特に韓国では顕著である。日本でも形を変えて残っている。その裏でどれほどの女や部屋住みが犠牲になったか、計り知れない。
現代ではそんな組織に隷属していなくても生きることができるため、犠牲になることを拒否することが多く、逆に長男の重荷になっている場合が多い。
書庫に書名をあげるが、実をいえば文が難しい。大概の人はそれで音を上げてしまう。ここで例をあげようとしたが、どれもワープロでは出てこない。
疑懼(ぎく)を覚えた
孑然(けつぜん)と黙省した
杖(たの)んで
晒笑(しんしょう)した
こんな言葉が次々と出てくる。2度目に読んだときはほとんど感じなかったので、これも慣れであろう。
漢字には慣れたが、慣れないものがある。時々次のようなことがある。
甲はいった。
「〇〇〇〇〇〇」
乙は答えた。
「〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇」
甲は
「〇〇〇〇〇〇〇〇」
とはいわなかった。
言わなかったのなら、言わせるな!!
この書き方は何度読んでもいらいらする。作者がミスリードを誘ってどうするのだ。
「 」を ― に変えるだけですっきりする。
―〇〇〇〇〇〇〇―
とは言わなかった。
科白の時必ず行替えするのならば、次のようにしてもなんとかなる。
甲は「〇〇〇〇〇〇〇〇」とはいわなかった。
宮城谷氏の本は、繰り返して読むことが多いので、あえて苦言を呈する。
私は宮城昌光作品のファンの一人です。
失礼な話ですが「宮本昌孝」氏の作品集を探していて、誤って宮城谷氏の作品を購入したのが最初の作品との出会いでした。
集英社文庫から出版されています「青雲はるかに(上下巻)」でした。
その後、「講談社」「文芸春秋」と文庫本ばかりを読み継いで、現在18冊を読破したところです。(先は長いですが、楽しみでもあります)
宮城谷氏の作品はご存じの通り「時代小説・歴史小説作家」です。私はその中でも中国の古代(春秋時代前後)をテーマにした作品を読んでいます。
この作家の作品の虜になり、読みあさるようになりましたが、その魅力は何と言ってもテンポです。
確かに見たことも無いような漢字や語彙が多数でてきますので、読み下すのは難解ではありますが、わからなくても読み進んで行くようにしています。
文章から受ける「ドキドキ感」や「わくわく感」を大事にしたいからです。
「金文」や「甲骨文字」で書かれた古い文献を読み、そこから時代や事象を類推し、現代に生きる我々に、その時代に居たかのような錯覚を起こさせる筆力は本当に凄いと思いました。
難しい漢字や語彙も気にならなくなってしまいます。
むしろ、古代中国歴史小説には必然性があるように感じます。そうでなければ表現が不可能なのではないでしょうか?・・・
古代の英雄や偉人の行動や言葉は、現代でも十分に通用する含みを持っており、立身出世欲や妬み、誹謗中傷などは何ら変わるところはありません。
先ほどの行変えにつきましては、私は全然気になりません。むしろ、科白は科白ではっきりしますし、適当な余白が生じ読みやすいです。
気に入った作家の本はすべて確保し、読みあさる癖がありまして、「金庸」作品も既に四十余冊持っております。
宮城谷作品が広く知られ、多くの方に愛読されんことを祈ります。
宮城谷作品、その様子では夢中になって読んでいますね(^。^)。
わたし「重耳」を最初に読みました。発表されたとき、即買いました。
その時過去にあったという「天空の舟」と「王家の風日」を読みたくて探しましたが、手に入りません。しばらくしたら新たに文庫本が出て、読むことができました。
それ以来、いろいろと読みましたが、三国志にいたって、読めなくなりました。
「星雲はるかに」は范雎の物語でしたか。
漢字について、実はわたしはなんとも思いませんでした。ふりがながありましたし、その場の雰囲気でなんとか理解できます。ところがまわりのひとに見せると、数頁で音を上げてしまいます。「なにを言っているのか判らない」。
ただし、語彙に必然性があるとは思えませんでしたね。極論を言えば「こけおどし」。
苦情を言っているのは「行替えについては」、ではなくて、言っていないのに言ったように「 」で囲むことなんです。だから−−で囲むとかして、これは考えたことであって、言ったことではないと判るようにして欲しい。一度言ったように書いて、わざわざその後で否定するのなら言わせなければよい。思ったことであると判るように書きなさい。と言う意味です。
金庸作品は、長編は全部揃えています。初めのうちは図書館で借りたため持っていなくて、その後、図書館を待ちきれなくなって買い求めました。だから半数は上製本です。前半は最近文庫本を買いました。
いまは「書剣恩仇録」を読んでいます。4回目。ことしの九月に嘉興や海寧に旅行するための予備知識です。(^。^))。
最近では、中国最古の「夏王朝」を倒し、「商国」の湯王を補佐し、その長期王朝の礎を築いた「摯」<し>(伊尹<いいん>)が主人公の「天空の舟 上下巻」を読み、続けて、その商王朝を倒す周公を補佐し、「周王朝」建国の立役者「望」(太公望呂尚)が主人公の「太公望 上中下巻」を読破したところです。
この二冊(総数は五巻)は、年代的には六百余年の開きがありますが、話には継続性がありましたので、まだ読みやすかったです。
しかし、年代が古いこともあり、相変わらず見たこともない漢字のオンパレードで、ご指摘の通り振り仮名が打ってはありますが、頭が悪いのか直ぐに忘れてしまいますので、苦労しながら読みました。
ある程度知っている漢字でしたら意味は何とか理解できますが、漢検1級にも出ないのでは?と思われるような熟語や語彙の連続ですから、人によっては宮城谷作品の魅力を感じる前に、諦める人も多数おられるのではないかと想像しています。
「天空の舟」では、主人公の「摯」がノアの方舟を想像させる大洪水が起きた時、神のお告げに従った母親が、「桑の大木の空洞」に赤ん坊を入れ、下流に流されて行くところから始まり、どんな話になるのだろうかと、その後の展開をわくわくさせる書き出しになっています。
その後、主人公の摯は苦労に苦労を重ね、次第にその実力を発揮して行く物語ですが、二頭立ての兵車(戦車)が紀元前千五百年以上前に既に存在していた等、感心させられる内容も含んでいます。
太公望では、商王朝の最後の王である受王が太子の時に、狩り(人狩り)をし、その際に羌族<きょうぞく>が襲われ、その族長の息子である「望」を含めた六人の子供達が逃げますが、「望」の勇気と知恵と神の加護によって助かるところから始まります。
「望」はその際に族長である父親を殺され、商王朝打倒への復讐心に燃え、有言実行をでもって、その六人の子供達と力を合わせて巨象の商王朝を倒し、周王朝を建国して行くまでの長編大河ロマンに仕上がっています。
兵車が六百年以上も進歩しないで、約七百年後に「望」の指摘により、三頭立て或いは四頭立ての兵車が作られますが、あまりにも長い間進歩が無かったのかと疑問が残るところもあります。
また、一年を表す「年」は、その時代では「載」<さい>と言われており、その意味を説明するのに、「千載一隅」を引き合いにして、意味と起源を紐解いています。なるほどと感心させられます。
その他、同族では結婚できないしきたりがあり、「望」を慕う、一緒に逃げた子供の中の唯一の女の子「継」が、涙を流し結婚を諦める下りや、結婚しても女性が旧姓を残す説明にもしており、多数興味のある内容が出てきます。勉強になります。
この時代は「神話」の世界であり、残されている文献の信憑性にも?が付くような内容ではないかと思われます。
しかし、宮城谷氏は多数の文献を参考に、時代と流れや繋がりを考察して長編小説に仕上げられました。
これだけ長い小説でありながら、わくわく、ドキドキしながら一気に読んでしまいました。本当に凄い。
私は、臆病なのか或いは臍曲がりなのか、新しい作家の作品にスムーズに入れません。時間がかかります。
失礼ながら、宮城谷昌光氏は、間違って購入した作品を読むまで、名前すら存じませんでした。普通なら、私の性格上読む機会は全くありえなかったかと思います。
作風が気に入りますと、発表されている作品は、全て読みたい欲求に駆られます。新刊発表まで調べて購入しています。
好き嫌いの判断は、次の作品が読みたいか否かですが、読んでいる本のページをめくるスピードと言いますか、次の行へ次の行へと欲求に駆られて読めたか否かが、私の基本になっています。
今、TVでドラマ化され注目を浴びています「堂場瞬一」氏の作品も24冊持っていますが、今は止めています。
別に堂場氏の悪口を言うつもりはありませんが、氏の作品はどれも重苦しく、気持ちが塞いでしまうからです。
最終的には全て読破していますが、読み出しから気が重く、軽快な感じで読み下せないのです。最後まで読むのにとても時間を要します。
そういう訳で、娯楽作品は楽しく後味が良い物が良くなり、どうしてもその傾向になってしまいます。
金庸作品の「書剣恩仇録一巻〜四巻」は既に読んでいます。現在は、「天龍八部」の一巻〜五巻までを読んでおり、残り三巻の発売を待っています。
金庸作品を読んでいますと、漫画の世界ですね。ワイヤーアクションが見えるような感じがしますが、あまりにも簡単に大勢の人を殺しますし、最後が悲惨な感じや、悲しい終わり方が多く、好きとまでは言えない作家の一人です。
好き勝手なことを書き連ね、失礼致しました。
何か読み易く、面白い作家か作品がございましたら、ご紹介下さい。
古代史の漢字は、読み方もさることながらその雰囲気を楽しむので、憶えなくてもいいのではないかと思います。一生に二度とお目にかからない単語のはずですから。
>兵車が六百年以上も進歩しないで、約七百年後に
このあたりは宮城谷氏の創作によるものが大部分なので、現実は判りません。
そもそも夏王朝も実際にあったのかどうか。商をモデルにして、創作したと言われています。その商もよくは判らない。
帝国といっても、夏や商も小さく、従えている国も都市国家あるいは氏族国家なので、現代の目で見た進歩はなかったと思います。文字のない時代は技術は次の世代には伝わりにくい。国が滅ぶとその新技術も滅んだことでしょう。その繰り返しではないかと思います。
金庸作品には、人の命の軽さが目立ちますね。
天龍八部は最後にばたばたと死ぬ人が出て、読むのがつらくなるほど。その他の作品も死ぬ人が多くいます。
それも夏から続いている人権感覚でしょうか。民とは奴隷のこと。奴隷とは人家畜。口蹄疫が流行ったら、まわりの牛豚を全部殺すような感覚を、民に適用したのが古代です。
少しづつよくなりながらもその名残が20世紀まで続いています。だから金庸小説の登場人物が庶民の命を軽く見ているのも、その時代の感覚としては正しいと思います。
マンガの世界と言うことかな。田中芳樹さんはお母さんに「中国の立川文庫」と言ったら納得してくれたそうですよ。
本というのは好き嫌いが激しく、読者層がかぎられていますね。だから、紹介した作家が必ず面白いとは言えません。
一応書庫目次の本は大体よかったと思いますが、中国ものでは
田中芳樹・夢枕獏・仁木英之・井上祐美子・陳舜臣あたりでしょうか。