2006年05月20日

王昭君 −匈奴で得た幸せ−

 青史に見える王昭君の物語は悲劇である。
 簡単になぞってみよう。時代は漢の元帝の時という。
 宮女の一人を匈奴の王に娶せることになった。この人選にあたり、元帝は宮廷画家に全宮女の肖像画を描かせた。この時、宮女たちは画家に賄賂を贈り美女に描かせた。が、王昭君は自信があったので賄賂を贈らず、不美人に描かれてしまった。元帝はその肖像画を比べて、匈奴に送る女を王昭君に決めた。
 別れの日、王昭君が絶世の美女であることを知った元帝は悲嘆にくれたが、もはや変えることはできない。涙の別れをしたあと、画家を全員処分したという。
 王昭君は匈奴で三人の子を産んだが、望郷の念は絶えず、悲しみの一生を過ごした。
 この話、かなり嘘っぽい。疑問を並べてみよう。
 なぜ肖像画を描かせたか。宮女を並べて直接見た方がはやかろう。
 なぜ不美人を選んだか。それにしては選び方が大げさすぎないか。
 なぜ変えられないのか。その事情はなにか。
 なぜ涙の別れをしたのか。

 これらの疑問を解く鍵は、なぜ宮女を匈奴に送ることになったかである。
 多くの場合、異民族の侵略によって独立を脅かされた中国王朝は、不可侵条約を結び、その人質ないし贈り物として女をその異民族に送っている。王昭君のことも、そう考えると納得がいくのである。
 それならば、漢土を代表する美女でなければならず、絵を描かせたのは選ばせるためであろう。これを拒否すれば条約は破談である。それに何年も女を放っておいて、名前を見ても思い出せないのに、今更涙の別れもないだろう。
 宋代の王安石は、漢の恩は薄く匈奴の恩は厚い、王昭君は匈奴に行って幸せになったであろうと言っている。
 漢土から来た王妃として大切に扱われ、三人の子を生み、二人の子供は無事に成人している。一人は年頃に亡くなったようだ。夫に名前も顔も覚えてもらえない漢の宮廷生活より、よほど幸せだったのではないか。
 中華思想によって、王昭君は不幸であったとされてしまったのである。漢土を代表するような美女が犠牲になって、ようやく独立を保つことができるという、漢のお寒い現状の粉飾であろう。
 わたしは王昭君は幸せであったと思う。
posted by たくせん(謫仙) at 08:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 人物像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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