数え18歳、つまり現代なら高校一年生であろうか。この時、三国志の幕開けとなる董卓の乱に遭って都は壊滅し、蔡家の図書館も焼失した。この混乱の中で文姫は他の女と一緒に匈奴にさらわれたのである。
匈奴の生活は不遇ではなかった。だが、文字も無く習慣もことなり、食物も変わり、生活は辛く馴染めなかったようだ。匈奴で男の子を2人産んでいる。
12年後、曹操に買われて漢に戻った。もちろん子供とは生き別れである。
中国には亡佚(ぼういつ)という言葉がある。書物を失うことである。当時の本は筆で書いたのであり、その原本ばかりでなく写本もなくし、再現できなくなることである。
文姫は子供の時の記憶を頼りに、父の本のうち六百冊ほどを復元したが、そのうち四百冊は董卓の乱のとき、亡佚していた本であった。文人曹操の喜びようが偲ばれる。
胡茄十八拍に歌う。(訳、花崎采エン)(エンは文字なし)
不謂残生兮 生き残ろうとは言わないのに
却得施帰 却って帰国することになる
撫抱胡兒 胡兒を抱きしめれば
泣下沾衣 涙に衣がぬれる
漢使迎我兮 漢の使いはわたしを迎え
四牡 ? ? 四頭の馬車は行きて止まらない (?は文字なし)
胡兒號兮 えびすの子の泣き叫ぶを
誰得知 誰も知らない
蔡文姫の時代は、漢は混乱し匈奴は分裂の時代であった。匈奴では王族といえども生活は厳しい。さらわれた身であればなおさら馴染めまい。
蔡文姫の不幸は、漢の文化生活を身につけた者が、突然混乱の時代の匈奴の生活に入らねばならなかった故の不幸であろうか。ただ、同時にさらわれた女たちは不明である。匈奴の奴隷となって一生を終えたようだ。
台北の故宮博物院とボストンに文姫帰漢図という国宝級の絵がある。これは本来一組の絵である。機会があれば本物を見てみたい。