中国史に名高い武則天の時代であった。上官儀は、武則天を廃しようとして武則天に殺されたが、上官婉児はその孫娘である。
さすがに、生まれたばかりの婉児までは殺されず、後宮で育てられた。たぐいまれな才女であったため、武則天に見込まれて、秘書役を務めることになった。武則天の文学サロンの行司役にもなる。清少納言にも似た環境であった。のちに中宗の寵愛を受け、官位も昭容になった。
赤ん坊の時から、後宮という牢獄のようなところで、つねにまわりの顔色をうかがう生活をしていた。そして十四歳(おそらく満十二歳)のとき武則天に訊かれる。
「祖父や父を殺したわたしを怨んでいるか」
「怨めば不忠、怨まねば不孝」
これ以外どのように答えれば命が助かるのだろうか。
「命を助けて、養ってやった恩を知らぬか」
と武則天は怒り、入れ墨の刑にする。ただし、役人には小さくせよと命じ、黒子のようであったという。
武則天は女ながら皇帝となり、国号を周とする。高齢になったとき、張柬子(ちょうかんし)のクーデターによって唐王朝は復活し、中宗が即位した。ただし実力はない。このことあるを予期し、中宗に近づいていた上官婉児は殺されずに済んでいる。
その後、皇太子李重俊のクーデターが起こる。上官婉児を殺害することを目指していた皇太子が迫ったとき、「わたしが殺されれば、次は皇后、その次は皇帝」と大声で叫び、皇帝の中宗に対処を呼びかけている。結局、中宗は皇太子を謀反人と宣言したので、上官婉児は助かった。
当時の実力者は韋后であったが、上官婉児は次の実力者は相王李旦と見抜き、かなりの助力をしている。
三年後、またクーデターが起こったが、首謀者は李旦ではなく、李旦の三男の李隆基であった。上官婉児は、中宗の死後、実権が李旦に渡るよう画策した書類を李隆基に提出したのであるが、英明な李隆基は、その書類を見ることなく、上官婉児を処刑した。享年47。この李隆基が後の玄宗皇帝である。
クーデターの4日後、李旦は即位し、李隆基を皇太子にしている。
これらを考えると、猛獣の檻に入れられた子羊が、綱渡りをしながら必死に生き抜いている様子が想像される。猛獣は自由に檻を出入りしているのに、子羊だけはその檻から出ることを許されない、厳しい状況である。
唐はこうしてクーデターを繰り返している。幾つかの王朝の連なりと考えてもよい。(謫仙 独自の見解です)
第一次 初代高祖
第二次 二代太宗以下
第三次 武則天の周
第四次 唐に戻った中宗
第五次 睿宗以下(皇太子玄宗)
資料 「中国の歴史7隋唐の興亡」
陳舜臣 1981.12 平凡社
陳舜臣氏のある小説があった。舞台や時代は記憶にないが、次のような話である。
ある娼館育ちの娼婦が、戦後に解放された。
−さあ、これからは自由に生活していいのですよ−
そうして、娼館の外へ第一歩を踏み出した。しかし、娼婦としての生活以外、何も知らない女に何ができようか。その娼館を出たその足で、近くにある別の娼館に行くしかなかった。
これは自分の意志によるものか、強制か。わたしは強制と思う。彼女に見える選択肢はそれだけだったのだ。せめて、数日だけでも住む場所をあてがい、他の選択肢があることを教えてやれないものか。これを自由意志とするのは、他の選択肢が見える人の傲慢である。
この娼婦と上官婉児がダブって見えた。
このセリフ、どちらからの出典ですか?
一次資料から探しましたが、みつけられずにおります。
このセリフ、どちらからの出典ですか?
新旧唐書から探しましたが、みつけられずにおります。
わたしの原文は、陳舜臣さんの中国の歴史だったと思います。
それを読んだのは20年以上前で、当時、陳舜臣さんの歴史書をいろいろ読みました。
この文全体の資料が陳舜臣さんの「隋唐の興亡」なので、そこに書かれていたと思います。
わたしはその原典までは、考えませんでした。
いまグーグルで検索しましたが、「………といわれている。」としか出てきませんね。
もしかすると、「隋唐の興亡」に書いてあるかも知れませんが、手元に本がないので、確認できません。