気温は連日四十度を超え
旅人は水害に心を痛める
西陵峡の途中で船を下りてバスに乗り換えた。増水により、船では三峡ダムの工事現場を通ることができないのだ。通常の水位は70メートル、ダムの完成によりこれが175メートルとなる。遠くに見える長江大橋は吊り橋であるが、その柱の高さになるという。
「あの橋も水没するんですか」と聞いた人がいた。
「よくそう言われるけど誤解してますよ。あちらは下流。水が高くなるのはダムの上流だけですよ」
葛洲覇ダムは増水により水没していて、見ることはできなかった。
バスで沙市に向かう。中国を代表する穀倉地帯である。一面の田には緑の稲が多いが、一部は黄色に変色しており、採り入れが済んだ田もある。所々に家がある。
「この辺りの農家はみんな豊かですよ。立派な家に住んでるでしょう。年収はだいたい六千元。私の三分の二くらいです。神農渓の人たちは二〜三百元ですよ」
このガイドの給料は建前である。これ以上になると税金がかかるので、ボーナスとして現物支給される。それは本給の何倍にもなり、おそらく月給は五千元を越えていると思われる。多い人は一万元に達するという。9月になって、このような税金逃れを禁ずるという二ユースが流れた。

沙市に近い長江の支流 様子がよく判る。
2時間で沙市に到着する。市内に『大哥大(おおあにい)』の看板があった。携帯電話のことであり、渡世人の事務所ではない。今では携帯電話も小型化して小姐小(おじょうちゃん)という。現在(2006)では「手機」が一般的。
荊州古城の城門を見学する。その昔関羽が守っていたところである。ご存知のごとく中国の城とは城壁で囲まれた町のことであり、天守閣のようなものはない。

荊州故城 その昔関羽が守っていた所
ここは門であるが、この城壁に囲まれた所が街(城市)になる。

門の外側には堀割があった。
夕食をここで済ませ、バスで武漢に向かう。武漢の街に入ると、歩道に台を置き親子五人で寝ている人がいた。子供三人は裸でかたまって寝ている。そのような家族が何組かいる。
24日の朝、Sさんと市街を散歩した。歩道橋の上に、横たわり腕を振るわせて小箱を持つ物乞いがいた。帰りにもう一度見たが、なんと普通に歩いている。
酷暑の中をバスで東湖と黄鶴楼の見学に向かった。
長江の水位は街より1メートル以上高くなっている。堤防ぎりぎりの濁流を見るとすぐに切れそうに思える。水に沈んでいる家もある。すでに数千万人が被災し避難所生活を余儀なくされ、二万人(公式発表は二千人)が死に、損害額は千億元を超えたというのに、武漢のガイドの説明はいたってのんきだ。
「天気予報は39度です。しかし、40度になります。なぜかというと40度と予報を出すと仕事を休んでしまうから」
新聞やテレビは、ほとんどが洪水のニュースで占められている割には、庶民の生活は穏やかである。
「堤防は大丈夫ですよ。皆さんは心配しすぎです。それに常に四百万人の解放軍が見守っています」
そうはいっても大型の船は通行を禁止されてる。船のたてる波が怖いのだ。

黄鶴楼 幾たびか詩にうたわれている。

黄鶴楼より長江を見下ろす。水面は市街地より高い。
渇水期と増水期では水位が五十メートルも違うというのは、もっと上流地帯の話だったと思うが、そうでなくとも、この辺りは毎年のように洪水が繰り返されているという地域である。慣れているのか、我々の心配をよそにいつものような生活が行われている。
東湖は淡水真珠の養殖をはじめ各種の養殖場に区切られ、浅い池の集まりのようだ。だが広さは琵琶湖に匹敵するという。
黄鶴楼は三国時代に曹操の軍団を見るために建設されたといわれるだけあって、市街を一望でき、長江を目の当たりにする。五階建て八角形の黄鶴楼は最近再建されたものであり、高さも形も前とは異なる。武漢は漢水との合流地点でもあり、水上交通の要所である。
昼食に向かうバスの中で、女性が水害に対する寄付を呼びかけた。職業柄見過ごすことができなかった、ガイドたちにも相談済みです、と言っていた。事前に話し合っていた男性が応援した。
わたしは基本的には反対である。義援のつもりでいても義捐にしかならないことが判っているからだ。ただし趣旨は尊いので水を差すつもりはない。わずかだか喜捨もした。結局総額五万円を寄付することになった。
武漢市の民政局の方がレストランに現れ、義援の儀式を行った。
黄山行きの飛行機はすぐ近くの軍用空港から飛ぶ。1時ごろ搭乗手続きを済ませ待合室に入る。まもなくアナウンスがあり添乗員が説明した。
「ここは軍用基地であり、今は洪水対策の物資の輸送を優先しているため2時間遅れます」
『バサラ3』を読みながら待っていると、いつの間にかいなくなった我々以外のグループは、ホテルで休んでいるとのニュースが入った。一時発の広州行きが5時に延びたという。江沢民主席が視察に来て、その飛行機を徴用したらしい。我々の飛行機が本当に2時間遅れで飛べるのか動揺がはしる。特に、我々は空港で待たされ我々以外はホテルで待つ状態は、必要以上に苛立つ。
3時ごろ、ようやく飛んだ飛行機の乗客は我々だけであった。もしかすると優先されたのかもしれない。
高度の低いプロペラ機なので地上の様子がよく判る。しばらくの間各地の氾濫状況を見ることになる。間もなく山岳地帯になると、一面黒く木に覆われていて、山道がはっきりと見える。黄山に近づくと段々畑が現れたが、絵に描いたような鮮やかさだ。
空港から黄山山麓までバスでさらに2時間かかる。黄山に近づくと急斜面に茶の木が多い。山麓に着いたときはもう暗くなっていた。
このようにして各地のホテルは、夜遅く着き、朝はあわただしく出発し、ゆっくり洗濯する暇もない。大荷物は別ルートで動くため、わずかの時間に入れ替えを済ませ、また預けることになる。わたしは登山用の下着を持って行ったのが役に立った。汗をかいても着替える必要がなく、洗うときはさっと濯ぐだけで、生乾きでも着られる。
参考 雲外の峰−大洪水の義捐金