2006年05月08日

重慶・三峡下り

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(1998年)8月19日〜27日

 大洪水の長江流域を通る二度と経験できないであろう、貴重な旅でした。中国の広大さ、いろいろな人がいること、日本人にさえいろいろな人がいることを、改めて実感しました。
 なお、洪水の年は豊作になること、つまり食糧増産の年であることもあとで知りました。洪水にならない年は水不足になります。

筆者は意識朦朧として三峡の旅をはじめ
重慶は青天白日なれど蜀犬の声を聞かず


 五千年の歴史を流れる長江の旅は、時間の旅でもある。前日に体調をくずし、眠くなる薬を飲み、意識朦朧として成田を発った。
 前回西安を一緒に旅行したSさんも含め、総勢39人の三峡下りと黄山9日間のツアーである。旅慣れた人がほとんどで、今年だけでも五回目の海外旅行だとか、南極以外はすべて行った、あるいは東南アジアに二十年などといい、中国旅行が初めての人は二三人であった。
 日本から同行した添乗員以外に中国の添乗員(以下ガイドとする)さらに各地方のガイドがつく。ガイドの張さんは若い男性で、説明はこの張さんが中心となった。
 東京から上海まで千八百キロ、そこから重慶まで約千五百キロ、長江に沿えば三千キロ近い。ここまで汽船が遡る。
 上空から四川の土地を見る。山の上まで段々畑となり、美しい模様の風景が広がる。これがどこまでも続くのであるが、これらの山に保水力のなくなったことが、今回の洪水の原因であるといわれている。
 重慶は坂の町である。自転車はほとんどない。街に入った時は霞んでいたが、悪名高いあのスモッグではなかった。
 最初に見学した重慶博物館の文物は、石に刻まれた絵が中心で、貴重なものではあっても、興味のない人にはつまらない所かも知れない。そこから歩いて自由市場を見に行く。
 生きた鶏や家鴨は珍しくもないが、蛇や樽いっぱいの青蛙は珍しい。薬草らしいしおれた青草、糯・泰国的香米などと種類別された米、水槽から飛び出した鯉、歩きながら食事する人、街頭でミシンを踏む人、棒棒族といわれる天秤棒を持つ荷物運び、「晩報wanbao、晩報」と声を合わせる子供たち。いつものごとく、活気に満ちて少し不潔感のある下町風景である。

 高みにある鵝嶺woling公園からは南北に長江と嘉陵江が見える。両江とも黄濁し区別はつかない。水の色は茶色であるが、新聞では黄濁と表現している。通常は嘉陵江の方が濁りが少ないらしい。

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 重慶 ウォーリン公園より長江大橋を望む  

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 嘉陵江 高層ビルが建ち並ぶ

 ほとんどの日は曇っていて、晴れる日は珍しいといわれているが、この日は晴れ渡り日が射し、蜀犬が怪しんで日に向かって吠えるような晴天であった。しかしその声はどこにもない。重慶では犬を見ることはなかった。
 長江大橋を渡り南に下がってホテルに行く。
 翌朝出発前に付近を散歩する。工事中のビルが多い。細い鉄筋コンクリートの柱に煉瓦を積んで壁とする。ここ巴の地では、毎日曇るのと同じように毎夜決まって雨が降る。これを巴山夜雨という。だが昨夜は雨の降った様子はない。これも例外の日であったのか。
 直轄市となった重慶市は、人口三千万人、広さは北海道に等しいという。

客船は大増水の三峡を下り
筆者は王昭君の幸せを思う


 21日の朝、長江と嘉陵江の合流地点から四千五百トンの黄鶴号に乗り、三峡下りが始まる。添乗員は、「船では今までのようなシャオチェ(小姐=お嬢さん)のサービスは有りません。今のうちに心を入れ替えてください」と言ったが、良い方に外れた。
 ここの水位は170メートルを超え、三峡ダム完成時の高さに近い。長江を二千キロ遡って、まだ海抜170メートルしかないのだ。
 長江流域でも冬は降雨が少なく高山では雪となる。春になり、上流の四方の山々の雪が融け、水嵩増(ま)さる長江中域は水面が50メートルも高くなるという。今年はその後に大雨が降り、さらに20メートルも高くなった。黄濁した水は、いたる所で渦を巻き、湧き出すように盛り上がり、また逆流する。
 長江がこのように黄濁したのは近年のことで、原因は森林の伐採による。湖沼も小さくなり、保水力のなくなった山からは、雨水とともに大量の土が長江に流れ出す。

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 所々でこうして急斜面を畑にしている。

 最初の寄港地は豊都である。有名な鬼城(死者の町)を見学したのであるが、子供だましと考えてよい。休憩所では雑技を見た。この町に限らず、三峡ダムの完成によって沈む町はすべて高台へ引っ越しの準備をしており、一部は廃墟となっている。
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 三峡ダムの完成後水没する 豊都
 向こう岸のビルはこの町の引っ越し先である

 22日の朝、小舟に乗り換え白帝城を見学する。映画『大地の子』で、ガイドとなった銭波(チェンボー)が「あれが白帝城ですよ」と説明していたのを思い出す。下船した所はごみが露出し、波に洗われている。一部の人は駕籠に乗って登る。長江は急角度で曲がり、白帝城から見下ろす逆巻く濁流は、白帝城にぶつかってから左へ流れていくようだ。なお、普通白帝城と言うが、現在は中国では白帝廟というのが普通。
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白帝廟の入り口

    無辺の落木は蕭々として下ち
    不尽の長江は滾々として来る

 という杜甫の詩が紹介された。

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 白帝城より長江上流を望む

 黄鶴号に戻るとすぐに動きだし瞿塘峡に入る。今まで1キロ以上と思えた川幅が、ここでは二百メートルほどか。増水により川幅が広がっているが、それでも狭い。時間差による片道通行である。8キロの距離をわずか11分で通過した。

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 船は長江を下る。川と言うより湖を横切る感じだ。

 昼食後、救命具を着て小船に乗り換え、神農渓に入る。急に波頭が白くなった。さらに4人の漕ぎ手による手こぎの舟4艘に分乗し、神農渓を2時間遡る。
 本来は水深1〜2メートルであり、綱をつけて引っ張り上げるのであるが、20メートルもの増水によってすべて櫂によった。

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 神農渓を遡る
 神農と言えば、伝説の王であるが、この地と関係があるのか。

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 観光写真では全裸の男たちが舟を引いているが、今ではそんなことはない。
 この奥地にも畑や家がある。土産物売りの船が寄ってくるが、誰も買わない。品物がせめてここの土地の物ならば何とかなるのにと思う。警官隊の船が通った。
 両岸は百メートルを越える絶壁が連なり、オーバーハングしているところもある。その絶壁に溝を掘り、棺桶を置いてあるのが下から見える。不思議な習慣である。近年発見され研究中だそうだ。
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 船では我々以外に横浜中華街のグループがいたが、一部の人は中国語が話せる。小船で黄鶴号のガイドの王小姐と彼らの会話を聞いていたが、全然判らなかった。わたしは王小姐の口元を見つめている。発音の教科書のような口の動きであった。
 彼らが居なくなったときわたしの方を見たので、「wo ting bu dong」と言うと、にっこりしてわたしの隣に座った。
「ni shuo de zhen kuai、wo ting bu dong」(話すのが速くて聞き取れません)
 この後ゆっくりと中国語で喋ってくれたが、記録するほどの内容ではない。
 王さんは三カ月前にこの仕事を始め、上り4日下り3日で勤務して武漢の家には二カ月も帰っていない。
 黄鶴号は時々停まって錨を降ろす。この錨を上げると鎖にはびっしりとポリ袋などのごみが付いている。それを取る人がいるのだが、溜まったごみをまた長江に捨ててしまう。

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    汽船は長江を下る

 この日巫峡を通過する。
 夜は服務小姐による民族舞踊の披露があった。客席は中央のダンスの場所を取り囲むように三つのグループに分かれていた。
 わたしの隣のテーブルにいた男たちが、司会者が話しているときもダンス中でも、大声で話し笑い声を上げる。周りは非難の視線を示し、司会の王さんもいやな顔をする。わたしはいたたまれず別なグループのテーブルに移った。

 23日は西陵峡に入る。藤水名子の『王昭君』を読み終え甲板に出た。王昭君には謎が多いが、藤水名子はみごとに解決している。ここは王昭君の故郷である。また汨羅水に身を投げた屈原の故郷でもある。
「あそこが中国四大美女の一人王昭君の故郷です」
「この辺り、いつもは川幅は五十メートルしかないのですが、今は二百メートルくらいあります」
 ガイドの説明を聞きながら、いにしえの王昭君に想いを馳せる。また同じような境遇の女たちのことも想う。しばらく一人で甲板にいると、日ごろ考えていたことが纏まってくる。
 これは「人」に書きました。
posted by たくせん(謫仙) at 13:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 濁流の長江 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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