2006年05月06日

仮の都台北

 1980〜1981
 高度成長前の台北である。台北5日間というツアーであった。
 なお、次回からはツアーに頼らず、飛行機の切符のみで台湾に行き、自分でホテルを探した。
 台北の定宿は駅前のYMCAであるが、この時は「統一大飯店」であった。ホテルに着いて、ホテルの近くを散歩しようと外に出た。まず、目に入ったのが、「毋忘在きょ.gif」の文字である。

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「毋忘在きょ.gif」は台湾を象徴する。
「キョにあるを忘るなかれ」と読む

 その昔、斉の国は燕の名将楽毅によって滅ぼされそうになった。最後にはきょ.gifと即墨の二つの城市しか残っていなかった。そこからまた回復して国を元の大きさに戻したのである。今の台湾をその斉になぞらえたのである。

さて、バスでの市内観光が始まった。

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     総統府

 総統府は当然首都にあるはずだが、台北は首都ではない。首都は南京である。それが共産党に占領されてしまったので、仮に台北に置いた。国会は選挙ができないため、終戦当時の議員がそのまま居座り、わずかに台湾省選出議員のみが改選されていた。事実上国会は改選がなかったのを、後に李登輝が総統になって、国会を改選した。終身議員を引退させたのだ。
 当時、省議会は遠い田舎に追いやられ名のみであった。李登輝はそれも解散し、二つの政府状態を解消した。

 つぎは龍山寺である。庶民の街にあり、東京の浅草寺にたとえられる。屋根上の像・室内の装飾・柱の彫刻など、かなり装飾過剰である。
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 二日目
 忠烈祠は衛兵の交代式が有名であり、それに選ばれることは名誉であるのだが、失礼ながら、わたしには人形遊びにしか思えない。

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        忠烈祠

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            本物の銃剣である。

そして故宮博物院
ここに中国の宝物が集中している理由は「北京を想う」に書いた。

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      故宮博物院

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 中國文物圖説より

 手前の芝生は下のように整備されており、右側手前は後に庭園となっている。
 後ろの山に洞窟がありその中に文物が収納されている。それを三ヶ月ごとに順繰りに展示するのだが、全部見るには60年かかるとか。ただし、代表的なものは常設展示されている。

 以下は、二日後一人で博物館に行った時の写真です。

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    空襲があったときはここに逃げよという案内。

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   館から門のほうを見る。

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      門の守り


 2日目の午後は自由時間。地図を頼りにホテルの近くを一人で歩いた。以下、帰国するまで夕食以外は自由時間であった。
そのため、以下の写真は何日目かはっきりしない。

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     住宅街であろう。正面は公園(孔子廟)の門。

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     圓山大飯店(グランドホテル)


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        動物園の説明
 開放時間
  午前9時から午後5時(月曜は休み)
 全票 5元
  身長1.45メートル以上
 半票 3元
  制服の軍人と警察 および
  身長1.45メートル以下1.15メートル以上
  身長1.15以下の子供は免票

 これは鉄道・バス・映画館・博物館など、どこでもそうで、軍人と警官は優遇されていた。現在はどうなんだろう。

 動物園ではわたしの隣には若い女性がいた。門前でナンパされたのだ。日本語はうまかった。何度か、♪♪根なし足なし浮き草の〜〜、と唄っていた。話の様子では、夜の仕事をしているらしい。それがお茶を引いてしまって、案内役を買って出たようだった。
 昼食をおごったが、その女性の案内する店で、二人で120元。日本円にして500円くらいか。夕方近くなって、「これから仕事だから、さよなら」「サイチェン」

 台北駅の南側に行く。

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     二枚は台北新公園

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      南門
 城門というが、城とは町(城市)のこと。町の門と思って下さい。日本の城は、牙城(軍事的将軍のいるところ)に相当する。

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  中正記念館の門。中正とは蒋介石の号である。

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       中正記念館に向かって。
 前の黒服は女子学生である。当時、学生は黒服が義務づけられていた。共産党軍の空襲があったら、素早く逃げるためである。故宮博物院にあった、逃げる道の表示も同じ。   
 そうは言ってもそれはたてまえで、一般の人たちは自由な服装をしている。
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 この門の両側には今では音楽堂などが建てられている。
posted by たくせん(謫仙) at 07:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 台湾 八十年代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんわ。
はじめて書き込みさせていただきます。
自分の見た最近の台北と比べながら楽しく拝見させていただきました。
Posted by にいやん at 2007年01月23日 18:18
にいやんさん。お早うございます。
台北も高度成長をえて、かなり様子か変わってしまったでしょうね。
にいやんさんの旅行記は、「そうそう、そうなんだよな」と「そんなになったのか」と思う部分が半ば。おもしろく読みましたよ。
またいらしてください(^_^)。
Posted by たくせん at 2007年01月24日 07:32
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