2006年05月02日

北京 この新しくて古い街

1 故宮
2 万里の長城
3 老舎茶館
4 頤和園
5 景山公園
6 晋陽飯荘と経済
7 雍和宮など
8 祝福
 当然ながら、登場する人名は全て仮名です。1994年8月。
1 故 宮

 足立中国語学習会の有志六人は、二十四日の朝早く成田に向かった。犬飼会長が教えている太極拳の会の人たち四人とは上野と成田で合流した。一行十名であった。
 北京空港から迎えのマイクロバスで市内に向かう。高速道路から普通の道に下りると、中国へ来たなと思う。ワクワクするのが半分。そしてじつは気が重いのが半分なのだ。これはちょっと説明がないとわからないだろう。
 北京市民の五パーセントの人は年収が日本円で一千万円以上あるという。だが、道の両側の家はとてもそんな雰囲気ではない。以前台湾に行ったときも感じたことなのであるが、メンテナンスがどこかおかしいのだ。
 はじめ家を建てたときは立派な家だったと思う。しかし、あそこが剥げ、ここが壊れたりしているうちにみすぼらしくなってくる。そしてそれがそのままなのだ。おそらく内部は、わたしの住まいよりきちんとしているのだろう。だが、見たところまるでスラムのようだ。これが故宮まで続いた。
 そして故宮。
 広い。ただただ広い。
 当然、宮殿も広い。そしてそれが台の上の石畳であるとはいえ土間(?)なのだ。スラム街に囲まれた、豪華な土間、ひたすら巨大な堀っ立て小屋。
 これが北京故宮の第一印象であった。こういう印象を受けるのは、床のないせいらしい。もっとも、彼の地の人は、もしかしたら、日本の家をテントのように頼りないと思っているかも知れない。
 そして入った珍宝館の宝物の少なさ。わたしは十数年前に東京で開かれた北京故宮博物院展を見たことがある。そのときは、この珍宝館よりはるかに素晴らしかった。もし田舎町の博物館なら、目を見張るに違いない。だがここは北京故宮博物院なのだ。
 第二の印象は樹木の少ないことである。樹木のない広大な石畳、人を拒絶する城壁、床のない巨大な建物。振り返ると、これらが廃墟のイメージとなる。

 さて、ガイドは二十三歳の好青年である。
 故宮の見学中のことであった。処々に巨大な水瓶がある。昔は防火用水をためておいたという。表面には引っ掻き傷が一面についていた。少し金メッキの跡も残っている。
「これは昔、フランスやイギリスなどの侵略軍が、表面の金を削り取っていった跡です。中国にとっては屈辱的なことですが、わたしたちのような若い世代に歴史を教えるために、こうして展示しています」
 このとき石山さんが訊いた。
「それは、義和団の事件のときですか」
「そうです」
「それでは、日本もいたのではないのですか」
「‥‥、ええ‥‥、いました」
 犬飼会長がひきとった。
「我々に気を使ってくれたんだよ」
この晩、わたしたちは北京ダックを食べた。確かに美味であるが、喧伝されるほどではない。
 
       追 記
 調べたところではこの時の略奪に日本軍はいなかった。そのため市民に信用され、身の危険を感じた市民は、日本租界に逃げてきたほどである。日本軍も最初はまともだったのだ。

注:浅田次郎の「珍妃の井戸」を読むとそうでもないらしい。この追記は再確認の必要がある。


2 万里の長城

 二十五日、北京郊外へ向かう。
 明の十三陵はさほどのことはなく、ニュースは、高木さんが写真を撮って罰金を取られたことくらいか。領収証を要求した。要求した理由は職員の倫理観念の問題である。
 万里の長城に行く前に昼食にしたが、ここでも例のメンテナンスの悪さを思う。
 ガイドは食堂は新しいところだといった。しかし、玄関の柱をうっかり触ると、反り返ったペンキが剥がれ落ちる。よく見ると半分以上は無残にも剥がれていた。いったいどれほどの時の経過があったのだろうか。中の土産物屋が豪華なのが、さらにそれを強調する。
 万里の長城、これは見る者を圧倒する。
 八達嶺は北京北方の天然の城である。その山々の、尾根から尾根へ頂から頂へ、延々と連なっているのだ。材料はその土地で産出される物を用いているという。八達嶺の長城は石の城である。
 ただし、前文と矛盾するようだが、意外に小さい。わたしでもその気になれば越えられそうだ。
 北方中国の戦いは騎馬戦である。長城は馬止めの柵と同じなのだ。戦士はいくら越えても、馬が越えられなければ、もはや戦力とはならないのだ。
 北京側からみたこの地域の入り口に、居庸関があった。昔、元軍が、孤立した金の北京城を睨んでここに入ったという。ここから先、元軍を阻む物は北京城の城壁しかない。北京を攻める格好の基地であることを実感する。
 長城の上は歩くことができる。右が女坂、左が男坂である。わたしは高木さんと石山さんの三人で男坂を登る。幅二間ほどの半分階段半分急坂の道を十五分で最初の頂に着く。そこから先は今までの雑踏が嘘のように静かで風が心地よい。むかいの山は女坂である。芋を洗うような人ごみが見えた。
 記念写真を撮る。中国語が必要なときは高木さんに頼っていたが、このときもシヤッターを押すのを頼んだのは高木さんである。
「エクスキューズミィ‥‥‥」
 長城は月から見えるただ一つの建造物という。そう思わせる迫力があるが、実際には砂漠に溶け込んで見えないのではないか。
 本を一冊買う。

3 老舎茶館

 この晩、わたしたちは五人で老舎茶館に入った。お茶を飲みながら演芸を楽しむところだ。寄席を思えばよい。
 長城の帰りのバスの中でガイドはいった。
「老舎茶館は日本人は行かないところです。知らないので。中国人も行かないところです。入場料が高いので。一流の芸人が義務として出演しています」
 前門付近で老舎茶館を探してうろうろしていたところ、乞食の親子にまとわりつかれた。特に子供が石山さんの手を握って離さないのだ。ようやくふりほどいたが、子供も必死であろう。なお乞食をするにも政府の許可がいる。
 六時半ごろホテルを出て七時二十分にようやく老舎茶館に着く。ビルの三階である。演芸時間は七時四十分から九時二十分まで、出し物は京劇が目玉らしい。
テーブルによって料金が異なる。わたしたちは前から二番目の、料金が一人百元(1元=約12円)のテーブルについた。まもなく大勢の客が入ってきて、いっばいになる。わたしたちはちょうどよい時間に来たようだ。
 お茶を飲みお菓子を食べながら芸を見る。
 まず、京劇のおはやしである。そしてそれが定位地に移動すると、本番の京劇が始まった。若い女性の独り舞台である。ほとんどわからない。
 わたしは「中国おてもやん」と題をつけた。傍らに歌詞が映し出されているが、かなり早い。それをチラチラ見ながらの観劇である。今でも覚えている文がある。毎月のことを歌って、九月のとき「九月里九是重陽」と甲高い声で歌った。中国人も聞いているだけでは意味がわからないらしい。
 歌を忘れて困ったり(もちろん演出である)、コミカルに動いたりして、わからなくても楽しめた。
 この後、三組は「歌う漫談」とでもいおうか。年配の女性が歌い、男性が胡弓らしいもので伴奏する。ときどき男性も歌う。男性が歌ったときドッと笑い声がおこる。こんな感じであろうか。

「♪ あんたの浮気性にはあきれかえってしまうわ。どうしていつもあんなくだらない女に引っ掛かるのかしら。どうせ浮気をするのなら、もう少しましなのを選んだらどうなのよ。まったく。‥‥‥中略‥‥‥‥。こんなにひどい浮気性だとは思わなかったわ。どんな女でもかまわないんだから」
「♪ だからお前と結婚するはめになったんや」
  笑い。

「♪ ゆうべはいったい何を食べたのよ。毎日まいにち宮廷料理だ、日本料理だ、フランス料理だ、お客様の奢りだ、‥‥‥中略‥‥‥。グルメだかなんだか知らないが、ろくな舌も持ってないくせに。すこしは自分の懐具合を考えたらどうなのよ」
「♪ お前の料理を食う者の身にもなってくれ」
  笑い。

 ともかく、中国語が判らないことには話にならないのであった。
 棒をくわえて歌を歌うのは、腹話術の変形か。
 これらの女声はすべて甲高い声である。
 奇術はつまらなかった。わたしはアダチ竜光の奇術を何度も見ている。それに比べるとまるで素人である。
 物まね。これは圧巻である。小鳥の声・馬の走り・自動車の運転・犬のほえ声とその喧嘩。物まねだけで芸になっており、漫談不要であった。
 トリは漫才。ボケがほとんどしゃべり、つっこみはあいのてを入れるだけだ。大夫と才蔵の関係を思わせる。
 ときどき、大山さんらしき笑い声が聞こえる。
 普通語と上海語、それに少し北京語も入れて、お互い通じないための失敗談ないし滑稽談をしゃべっていたが、大変おもしろいらしく、一部の客はわいていた。しかし、これも言葉が判らなくては話にならない。どうやら中国人でも判らない人がいるようだ。わたしたちの斜め前に座った白人男性もつまらなそうな顔をしていた。
 犬飼「北京語と普通話が通じないと言っていたな」
 大山「上海語が判らない人にはおもしろくないみたい」
 わたしはガイドの言葉を思い出した。
「老舎茶館は一流の芸人が義務として出演しています」
 どのような義務か判らないが、奇術以外はわたしも一流の芸人だと思う。ただマイクの使い方が下手なのが気になった。スピーカーを通すと声が大きすぎて割れてしまうのだ。本来マイクなどないところでやる芸なので、声が大きいのは必要条件だが、今後はマイク技術をマスターしないと一流の芸人とはいえなくなるのではなかろうか。
 日本の寄席との差。お茶や菓子が出ること、言葉の判らない客人も入ること、前座が出ないこと。

 帰り道、眼鏡を落としてしまった。そろそろ替えどきだったので、粗末に扱っていたためだ。しかし、なければ仕事に困る。
 地下道で本を一冊買った。

   点心を口にしながら話せない
         中国語を聞く老舎茶館


3 頤和園

 三日目は六人で頤和園に行った。土屋さんは世界公園に行き、大山さんも別行動である。
 この日も相変わらず暑い。頤和園は昆明湖も入れると大変な広さだ。
 入場券売り場で十元を出していう。
「一張」
 しかし、切符売り場のおばさんは隣の窓口に行くよう指示を出す。隣では三十五元だといわれた。隣は外国人専用で、なんと三十五元なのであった。たいした金額ではないが、気分が壊れる。
 まず昆明湖の縁に出た。池はかなり大きい。右に折れ、池に沿った長廊を歩く。この長廊の両側の欄間には絵が画かれている。関羽が碁を打ちながら腕を手術させている図・首枷をはめた囚人の図・四季の草花・小鳥・仙人など題材は多い。色も鮮やかである。
 長廊の長さは七百二十八メートルもあるため、まともに見ていては首が痛くなってしまう。この長廊半ばの右手の山の上に仏香閣がある。
 長廊をつきあたりまで行き、そこから遊覧船に乗って南湖島まで往復した。船から見ると仏香閣がこの園の中心のようだ。この仏香閣に登るのが一仕事であった。それでも万里の長城に比べれば楽だが‥‥。
 わたしたちは長廊を往復したが、山の上や裏側にも見どころはあるようだ。
『天まで届く古木、清流はくねくねと続き、格別な趣がある。諧趣園は園中の園といわれている』
 なお、見なかったが、中国を救った名宰相耶律楚材の墓も入口の近くにある。
(追記:通説では、耶律家は遼の滅亡後代々金に仕えており、楚材は蒙古に仇討ちを勧められるが「金は代々重用してくれた」と拒否する。また蒙古の虐殺を止めたことでも有名。ただし、宰相だったというのは、肩書きが「中書令」であったための誤解で、これは中国では宰相だが、蒙古では書記官であったらしい。権限はあまりなかったという)

 さて、一行のなかに一人のうら若き乙女がいた。S小姐と申し上げる。
 このS小姐は些細なことでも感激し、ニコニコして右手でVマークをつくる。わたしが一冊本を買ったところ、ニコニコして「やったわね」と指を二十度くらいに広げてVマークを出した。切符を買うときや、船に乗るときなど、本当にうれしそうだ。
 このS小姐がトイレから出てきて、これ以上はないというニコニコ顔で三十度くらいのVマークをつくった。それほど我慢をしていたのかと思ったが、そうはいえず、お世辞にいった。
「どうした? あなたの中国語が通じた?」
「ううん、料金が二角だったの」
 もう一人、U小姐はS小姐とは対照的にいつも沈着冷静である。ところが思わぬとき、普通の女であることが判ってしまった。
 無料トイレに入ったときである。わたしたちが先に出て表で待っていると、血相を変えて飛び出してきた。強烈なアンモニアの匂いで気持ちが悪くなり、吐きそうになったという。有料トイレまで我慢してもらうことになった。そして他の女性はなにごともなかったように出てきたのである。
 この後、二台のタクシーで北京動物園まで行った。目的はパンダである。ここで食事をする予定であったが、適当なところがなく、動物園に入り、そこでビスケットなどを買い、昼食の代わりとする。
 パンダ舎に入るとパンダは昼寝中である。が、その寝相の悪い(?)こと。わたしにはとても口では説明できない。外にも三頭いた。写真になったのは少し小さめの一頭だけである。
 動物園の外に出てから、金絲猴がここにいるのに気がついた。これは見ておきたかった。

5 景山公園

 高木さんと石山さんとわたしの三人で、動物園の前からタクシーに乗り、景山公園に行った。
 タクシーは裏通りを通って公園の門前に着いた。しかし、どこかおかしい。道の左側のはずだが、右側についた。
 また山登りである。頂上の建物につくと風がここちよく吹いている。見下ろせば‥‥、あれ‥‥。眼下に大きな門、そして通りの両側に楼閣が並び‥‥、通りなんてあったかしら?そして突き当たりにもおおきな楼閣があり、左手には大きな池がある。ここから見えるのは北海公園の池のはずだが。
 建物を半周すると、故宮博物院の広大な屋根の群れが見えた。ようやく裏側から登ったことに気づいた。まだ、日の照っている時間であるが、全体がかすんで見える。腰を下ろしてこの絶景を眺めた。わたしにとって、このときが今回の旅行のハイライトであった。
 故宮の巨大さを実感する。手前の神武門からかすむ天安門まで、左右の角楼、文字どおり数え切れない重なる屋根、そして意外なことにかなりの樹木が見える。故宮は砂漠ではなかったのだ。
 この景山公園は石炭の山だという説があった。いざ、北京が孤立したとき、燃料に困らないように備えたという。しかし、どうも眉唾のようだ。隣に見える巨大な池を作り、そこを掘った土で山を作ったのが真相らしい。
 下山しようとしたところ、そこで写真サービスをやっている人がいた。西遊記の三人の従者がいて、観光客が玄奘三蔵となって記念写真を撮るのである。キャストがピッタリで笑ってしまう。特に猪八戒は腹が膨れてイメージどおりなのだ。
 笑いながら昨日買った本を思い出す。こんな話があった。

 待ち合わせをして、先に来た男の子が木の陰に隠れる。女の子が来たとき、男の子は両手で女の子の目を覆った。
「ボクはだーれーだ。三回言っても当たらないと、キスをしてしまうぞ」
女の子は必死で考えた。
「あなたは姜太公? 猛張飛? では唐三蔵?」
 唐三蔵は一人ではないが、この場合は玄奘三蔵に違いない。孫悟空ではなく唐三蔵、諸葛孔明ではなく張飛、文王ではなく姜太公。この人選がおかしい。

 ゆっくりと下山した。途中なかなかに枝振りのよい木がある。どうせ首を吊るなら、ここで吊りたいと思う。昔、同じことを考えた皇帝がいた。考えたばかりでなく実行した。そばにそのことを書いた案内板が立っている。
 石山さんの説明によれば、明朝の最後の皇帝は、敵に攻め込まれて、従者一人を従えてここまで逃げてきたが、その従者が様子をみるため下に行っている間に、ここで首を吊って自殺してしまったらしい。最期の判らない最初にして最後の皇帝であるという。
 一度ホテルに帰り、他の人たちとも顔をあわせた。高木さんが言った。
「天安門に行きませんか」
「ええ」
「行きましょう」
「わたしが天安門の上にいるから、誰か広場から写真を撮ってくれませんか」
 当然ながら、みんな用事を思い出した。

     かくも広き天安門の広場には
         入り切れない悲しみがある


6 晋陽飯荘と経済

 二十六日の夜は、再度北京ダックを食べた。
 念のため付け加えると、いろいろな料理が出て、最後に北京ダックが出る。ローストチキンのような皮を、小さく切って食べやすくしてある。これを、ネギのようなものを千切りのようにして醤油のようなタレをつけ、ギョウザの皮のようなものでくるみ、小さな手巻き寿司のような形にして、手でつまんで食べるのだ。
 ‥‥ような‥‥ような‥‥が続くが、つまり、わたしのような知識のない者が料理を説明するのがそもそも無理なようなのである。
 土屋さんの仕事関係の方で北京に駐在している商社マンと、土屋さんの元中国語の先生の両親による接待を受けた。
 ラクダの足やサソリなど、二度と食べることはないかも知れない。
 サソリは、小さな饅頭のようなものの上に‥‥。
 この餐庁に行くときは、商社マンが北京飯店まで迎えに来てくれた。タクシーに分乗してに餐庁に向かう。かなり遠かった。
「北京はどうですか」
「ずいぶん、経済発展しているようですね。なんでも北京の五パーセントの人は一千万円以上の収入があると聞きました」
「そうなんですよ。ひとつき百万とか二百万とか、日本人が聞いてもびっくりするような収入の人がいくらでもいます。でも、残りの九十パーセントの人は一万円にもならないのです」
 中国ではそれでも生活できるのだ。家賃は無料に近く、野菜など数十円で山のように買える。ただ、その野菜を供給する農家は、当然、高収入は望めない。高収入の人は結局商人なのである。
「なにしろ、こちらでは倒産がありませんからね」
「公共企業だから?」
「いえいえ、私企業でも。払えなくなると、お金がないから払えない、で終わりです。だから中国で商売をするのは難しいんです」
 倒産とは、振り出した手形を落とせなく(支払えなく)なり、銀行取引を停止されることだから、たしかに倒産はないだろう。そういうことを平気でできる人だから、高収入を得られるのかと、ちょっと複雑な気持ちになる。
「この辺り、古い家が多いですねえ。取り壊して建て替えるようなことはしないのですか」
「とてもそこまで手が回りません。とにかく家が足りないので、新しい家を建てるのでせいいっぱいですよ」
 晋陽飯荘は間口が一間半ほどのめだたない構えだ。しかし、入り口にあるその名前をかいた額(というのかな)は郭沫若の筆になる見事なものだ。彼もよく利用した店のようだ。
 鰻の寝床のような家で、奥が広い。北京ビールを飲みながら、見たこともない料理を食べる。メニューを見てなんとか見当をつける。今回の旅行ではよくビールを飲むが、ビールの値段は水と同じくらいである。味道鮮美。
 ホテルに帰ってから、王府井を散歩するが、ただの道であった。眼鏡を買う。百三十元也。
 夜、土屋さんがいただいたスイカをみんなで食べる。かなり甘い。
わたしはなんと餐庁の名を忘れてしまった。
「高木さん、名前なんといったかしら、なんとか飯館」
「晋陽飯荘、飯館ではなく飯荘よ」
「荘だったのか」
「そうだったのよ」

      わが友は三度を五元で賄いぬ
           北京ビールは六元である



7 雍和宮など

 二十七日、朝食を済ませてから、学習会の六人で前門まで歩く。地下鉄に乗って雍和宮に行く予定なのである。
 地下鉄の切符売り場は混んでいた。しかし、切符の買い方がそれに輪をかけた。誰も並びはしない。小さな窓口に四五人が五角をもって手をつっこむ。駅員はお金を取って切符を渡す。最初は経験である。しかし、おそらく二三回は我慢できても、その後は耐えられないだろう。できればタクシーで次の駅まで行き、そこから乗りたい。
 通勤ばかりでなく、地下鉄見学のためにお上りさんも乗り込み、一日中混んでいるそうだ。しかも、前門駅は故宮見学の下車駅だ。
 雍和宮の駅はほとんど人がいなかった。地上に出るとそこが雍和宮だが、塀に沿って入り口までかなり歩く。
 門を入ってから建物まで、短いながら両側に木を植えてある。建物はかなり派手な色彩であるが、掃き清められた感じがして、落ち着いた雰囲気でもある。香が焚かれ、僧侶もおり、お賽銭をあげる人も多く、信仰は今も生きている。
 雍和宮はラマ教寺院だ。建物は多い。一番奥の建物は黄金の大仏が立っている。顔は天井より高く外の光が当たる。
 大山さんが言った。
「文革のときよく壊されなかったわね。信者が守ったのかしら」
「ラマ教従は信仰心が強いから、命懸けで守ったのかもしれないな」
 建物は中国的でも、どこか日本的な雰囲気のするところであった。
 ここで犬飼会長と別れる。
 近くの首都博物館へ行く。道の両側は昔風の家が並ぶ。大きな塀に囲まれ、一族郎党が住む。ちょっと近寄り難い雰囲気である。博物館はもと孔子廟であった。
 入ったとき、古楽器の演奏をしていた。こんな音がしますという程度だ。『へ』の字型をした石板は澄んだ音がする。
 釣り鐘を並べた楽器、琴瑟など、わたしはたいへん興味を持って見た。その他も、もし本物ならかなりのものと思うが、残念ながら、みな埃を被り、近寄って見ることもできず、博物館の名に値しない。
 石山さんの希望で、わたしたちもその指にとまって、見学に行ったのであるが、本人はあてが外れたようだ。わたしも予想とはだいぶ違った。それでも、はじめての人には見るだけの価値があると思う。
 昼食は北海公園で宮廷料理を食べた。
 服務小姐がメニューを広げて大山さんに渡す。高木さんも覗く。緊張の色が走る。他のページをめくる。
「一人五百元なのでびっくりした」
 服務小姐は一人五百元のところを広げて渡してくれたが、百元・百五十元・二百元などいろいろあった。
「二百元くらいでどうかしら」
 日本円で二千四百円ならよかろう。
 石山さんが言った。
「杏仁豆腐があるので百五十元のにしよう」
 またもや、みな石山さんの指にとまった。
 あまり油を使わず、味は日本料理のようで食べやすい。北京ビールを飲みながら食べる。
 服務小姐は宮廷的服装でかわいい。沓は下がポックリのような形をしている。頭には冠を戴き、ゆっくり歩く。どのような身分の人をどの程度正確に模しているのだろうか。
 話は飛ぶが、この夜北京飯店で日本料理を食べた。この服務小姐の服装がなぜか違和感があるのだ。左前でもないし‥‥。女性陣が解説してくれた。
「あの着物は上下が別々で、帯は子供用だから。五六歳くらいまであのような結び方をするでしょう。それにあの歩き方では」
 それを大人が着たら当然違和感がある。なかにきちんと着物を着ている人がいたが、その人が一言言うと、小姐たちはサッと反応した。
 昼食後、一人でタクシーに乗り、天安門に行く。目的は門前の博物館である。しかしタクシーは午門に着いた。天安門はここからの方が行きやすいという。この日は晴れていたので午門が輝いていた。天安門はすぐ近くだ。
 中国革命歴史博物館は世界自然科学博覧会と称していた。十元で入ってみると子供の遊び場であった。隣の一元の写真展を見た。
 天安門は中国人十元・外国人三十元である。切符売り場で百元を出し、「一個」と声を出すと、九十元のお釣りをくれた。腹の中でVマークを出しながら、門に入る門に行くと、服務員に「荷物だめ」と日本語で言われてしまった。荷物を預け、天安門に上った。
 この後、始皇帝の兵馬俑八体と現地の模型を見る。
 この晩一人で東安夜市を見た。屋台が並び、すさまじい迫力だ。大山さんはここで食べたことがあると言っていたが、わたしにはとても手が出ない。
 かなり前のことだが、台湾で食べて下痢をおこし、ホテルの服務小姐(五十歳くらい)に、日本人は絶対に屋台の料理は食べてはいけませんと、言われたことを思い出した。おおげさであろうが、日本人は必ず下痢になると言う。
 この夜もスイカを食べた。

8 祝 福

 帰国の日、マイクロバスに乗って天壇公園に向かう。その後、昼食をとり、空港に向かうことになる。
 ガイドは、日本語を外語学院で学んだだけで、日本に行ったことはないと言うが、たいへんうまい。「お久しぶりです」などと冗談を言う。
 なにしろ、最初に言われたことは「道を横断するとき、何が一番必要か」で、答えは「勇気」である。この冗談が北京の交通事情を何よりも物語っている。
 自動車が多く、特に黄色の車が目につく。黄色の車、すなわちタクシーである。最低料金のミィエンティ(面的=食パンのようなタクシー)は十キロメートル以内は十元(1元=約12円)である。これには1元の表示がある。1.6元なら中級、2元なら高級車だ。
 タクシー以外の庶民の足はトローリーバスである。二台のバスをつなげたようだ。最初から連結するのなら、今とは違ったデザインになると思う。
 さらに自転車も多い。そして大通り以外には専用道路はない。もっとも、日本は大通りにも自転車専用道路はなく、歩道を自転車が通る、とんでもない交通事情の国なのだ。
 天壇公園も広い。もとは皇帝が天を祀るところである。皇帝は天子であり、天を祭るのは最も重要な仕事なのである。公園内の建物のデザインは清朝的であった。円を基調とし、色なら藍、屋根の瓦も放射状である。屋内の天井などに描かれた模様は色鮮やかである。
 この公園を通り抜けるように歩いたが、まわりに樹が多く、精神的には落ち着ける。
 朝早く、会長たち五人は太極拳をやるためにこの公園に来ている。ゆうべスイカを食べながら、S小姐は会長にハッパをかけていた。
「先生、あしたは四時起きよ。中国人に太極拳を教えるのが今回の旅行の目的なんですからね」
「早すぎるよー。六時ごろでいいじゃないか」
「ダメ、絶対に四時起きね」
 四時には起きなかったようだが、それでも朝食までに戻ってきた。例のごとくニコニコしながら、二十六度くらいのVマークを出した(と思う)。

 空港に向かい、途中で食事をする。このとき隣の部屋で結婚披露宴が行われていた。これも何かの縁であろう。わたしたちも服務小姐に相談し、十元づつ出し合って百元を包んだ。
「百元では少なくないだろうか」
「いいえ、決して少なくありません」
 そう言って袋を持ってきてくれた。
 日本語がほぼ話せるこの小姐のサービスは満点であった。
 新郎新婦がわたしたちのテーブルに来て乾杯した。記念写真を撮り、わたしたちは飴玉を貰う。こんなハプニンクがあったことも、今回の旅行をしめくくるよい思い出となることだろう。
posted by たくせん(謫仙) at 08:10| Comment(0) | TrackBack(1) | 北京 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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Weblog: 台湾ファン
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