2006年05月02日

北京を想う

 1994年記(この項、写真はありません)

 禹域(中国)の中心が殷や商をうろうろしていたころ、北京は国の外であった。

 春秋の時代、楚公は「楚は中国に非ず」と王を名乗った。淮河の南側、長江の一帯を領有する超大国が国の外というのなら、国土のほとんどを万里の長城の北方に有する燕も国の外である。北京はこの燕の地にあり、別名の燕京はここからきている。
 秦の始皇帝によって中国は統一され、遼東半島まで支配がおよび、ようやく北京も国の中になるが、それでも長い間辺境の地であった。
 古代の中国語では中国とは国の中を意味したという。この国とは文明のあるところであり、すなわち王の支配する地域である。
 念のため付け加えると、中国の神話では次のようになる。
 神(天)はこの世を治めるため、世界を四つに分けて、それぞれに自らの代理を当てて王とした。これを天命という。
 水の世界、ご存じの竜が王である。
 空の世界、王は鳳凰である。手塚治虫の火の鳥のモデルとなったが、その前に、日本人なら賞状などに書かれている尾の長い鳥を見たことがあるはずだ。十円銅貨の平等院の屋根にも二羽いる。
 地上を走る獣の世界、王は麒麟である。知らない人もいるが、キリンビールのマークといえばわかるのではないか。
 そして人の世界、神(天)は特定の家系を子とし、人の世界の王(皇帝)とした。それゆえ王の別名を天子という。これは契約による養子である。もしこの天子が悪政をはたらけば、神は別の家系の人を天子とし王とする。これが革命(天命が革まる)である。
 北宋の末期、北京周辺は水滸伝の舞台となるが、宋の領土と主張するところはここまでで、万里の長城の北側は、塞外民族の住む国の外であった。しかも、宋は領有権を主張していただけであり、現実には北京周辺は宋の建国のときから遼の支配下にあった。
 北宋は塞外民族の金によって滅ぶことになるが、はたして金を外国と意識していたかどうか。北京の北方が中国として意識されるのは、そこに興った満州族の清によって中国が占領されてからと聞いた。
 現在の中国は北京の北方を中国領としている。これは現政府は清の後を継いだという意識からであろうか、それとも満州族の清を故国に追い返し、ついでにその故国まで奪って領土に組み入れたと考えているのだろうか。そうでなければ、そこは満州族の住む外国と認識するはずだ。
 いやいや、この考え方は日本的であった。「文明のあるところすべて中国」の考え方からすれば、「現在、東北部は文明化されている。だから中国領である」と思っているかもしれない。もともと勢力の消長によって内になったり外になったりしている微妙な地域だ。
 金・元・清朝は塞外民族が中国を占領したのであるが、金は元が滅ぼし、元は草原に追い返された。しかし、清はいつの間にか逆に漢民族に飲み込まれ、中国の王朝となっている。
 清が中国の王朝と認められて以来、二百五十年近い支配を考えれば、東北部を中国領とすることは決して理不尽ではない。
 厳密に言えば夏・殷(商)・周・秦・隋・唐も異民族王朝である。
 陳舜臣氏は、中国人が外国を意識したのは清朝末期であろうという。清朝末期に、国の外にも別な国(イギリス)があることを知って驚いたという。
 ともあれ、北京は別名を燕京というように、燕の中心であった。本来なら中国の東の外れという偏った位置にあるが、今では東北三省や内蒙古がその東北にあるため、地理的にもかたよらず、中国の首都として機能し、現在に至っている。

 前置きが長くなったが、わたしは今、初めて北京の地を踏むことになった。足立中国語学習会の会員による団体旅行であるが、自由時間もある。
 わたしがまず行きたいところは故宮博物院である。昔の紫禁城であり、皇帝の住居であると同時に政治の中心でもあった。
 わたしは台北の故宮博物院には何度も足を運んでいる。この素晴らしさは嫌気がさすほどである。
 豪華さについては嫌気がさす日本人は多い。それは、いかに民からの収奪が凄まじかったかを考えさせるからである。しかし、わたしは素晴らしさについても同じことを考えるのだ。
 わたしの一番好きなものは、玉でできた『きりぎりすのとまった白菜』である。もしこれを中心に数十点の展示なら、その美しさにみとれるだけだ。だが、あまりに大量の作品に囲まれていると、豪華さとは違う素晴らしさにさえ嫌気がさすのである。
 一点の作品に三代も四代もかかった話には気が重くなる。その奴隷は一生かかっても、自分の作品を見ることができなかったことになる。まして、一生を穴蔵で過ごし青銅器を作り続けた人には、ただただ悲惨としかいいようがない。
 これが商の時代の青銅器が最も優れている理由だが、他の宝物にはそのようなことがなかったのだろうか。
 しかし‥‥。
 しかし、わたしはそれでも故宮博物院を見ておきたいと思う。北京の故宮博物院は戦後の出土品が中心であると聞く。台北とはかなりイメージが違うのではないかと思う。なにより故宮全体が貴重な宝の一つである。
 なお、付け加える。紫禁城にあるはずの宝物がなぜ台北にあるか。
 それは日中戦争の混乱から守るため、1933年に上海に運んだ(13491箱)。そして南京をえて成都などに分散し、第二次大戦後(1948〜1949)、国民党によって台湾に運び出されたのである(2972箱)。
 その理由として、『共産党の反乱による略奪から国民の財産を守るため』とある。共産党では『国民の財産を持ち逃げした』という。だが、現在はどうであろうか。台湾では民主化が進み、すでに独裁国家ではなくなっている。大陸も解放政策によって、内外の情報が国民に知られるようになっている。もはや『交戦中』ではない。どちらも世界の宝物として、双方の中国人がいつでも見られるようになるのも近いと思う。
     資料 中国文物図説 (台湾 国立故宮博物院)

 中国の宝で思い出したが、火薬・羅針盤・紙・印刷を中国の四大発明という。しかし、わたしは中国の最大の発明は漢字という文字であると思う。ただ、文字を使いこなすには、相当の訓練が必要だ。
 ある日、会長が中国の小学生からの手紙をみせてくれた。
「小学生がよくこれだけの文を書くなあ」
 わたしはそのことに感心したが、先生はこういった。
「中国人の小学生は大体このくらいの文を書ける」
「日本人ではとても書けないよ」
「ほんと、日本人て文を書けない。うちの学生もなかなか書けない。わたしが日本語の文を直してやっている」
 周りにいた人たちは笑ってしまったが、さてわたしの二十歳前後ではどうだったか。おそらくこの学生たちを笑うことはできないはずだ。わたしがどうやら文章を書けるようになったのは、三十歳を過ぎたころではなかったか。今では、こうして日本語で文章を書けるのがうれしくてしかたがない。きっかけは陳舜臣氏である。
「わたしはうれしいです」
 この言葉は間違っているが、さて、正しい言葉はどうか。これはわたしの中学時代からの長い長い宿題であった。ある日、陳舜臣氏の文を読んで悟るところがあった。氏はよくですます調の文を書く。
「うれしいんです」と、いとも簡単に答えを示してくれた。
 そう、それに気がつけば、いくらでも答えがあるではないか。
「わたしはうれしい」
「わたしはうれしいんです」
「わたしはうれしいのです」
「わたしはうれしい気持ちです」
「わたしはうれしいと思います」

 まだあるが、どれでもいい。あとは前後関係からどれかを選べばよい。こうしてわたしはなんとか日本語の文をつづれるようになったのである。このように、わたしは陳舜臣氏からたいへん影響を受けている。

 故宮博物院の次は万里の長城である。
「お上りさん」と笑われようとも、
「そんなところに行かなければ好漢になれないの」とくさされようとも、
「あんなつまらないもの」とけなされようとも、
「NI没去、我不去」と先生にいわれようとも、
 なんとからかわれようとも、万里の長城は外せない。
 秦の始皇帝が築いたといわれているが、戦国時代から営々と長い年月をかけて、ようやく築き上げられたものである。もちろんその後も何度も作り替えており、現在見られる長城は戦国時代のものではない。だが、日本では決して見ることのできないものである。
 日本の城は牙城であり、千年の都平安京も城壁はなかった。内裏でさえ庶民が出入りできる国では、万里の長城など愚の骨頂である。その長城を直に見れば、必ず感ずるところがあるだろう。
 わたしはテレビで長城を見るたびに、思い出す詩がある。それは次の涼州詞だ。

  涼 州 詞   王翰
葡萄美酒夜光杯   葡萄の美酒 夜光の杯
欲飲琵琶馬上催   飲まんと欲すれば琵琶馬上より催す
酔臥沙場君莫笑   酔うて沙場に臥す君笑うこと莫れ
古来征戦幾人回   古来征戦 幾人かかえる

   …………………………
      以下の文は2012.3.5に訂正
 王翰はこの一首によって歴史に名をとどめたという。この詩は涼州詞の題のごとく、どこか西域のムードがあり、長城でも西方の崩れた長城を思わせる。
 この詩に「沙場に臥す」という言葉がある。沙場とは華北の言葉で、戦場を意味する。「戦場で臥す」つまり戦死の意味であるという。恐ろしさに耐えかねて酒を飲み、酔って戦場に出るけなげな兵士をうたった詩であるという。これが万里の長城のイメージと重なるのだ。しかし、この解釈は誤っているという説が強い。
 日本では沙場を砂漠と訳す例が多い。(例をあげれば、大岡信=折々のうた、駒田信二=漢詩百選)それゆえ、沙場に臥すは「砂漠で寝る」と訳されている。この解釈が正しいらしい。
 沙場は戦場と言う意味に使われることが多いが、全てがそうではない。この詩では砂漠の方がよいという説が強いらしい。中国ではどう解釈していたのだろう。
 ただし、文革後の中国は伝統が途切れていることが多く、正しい解釈が伝わっていない可能性もある。
 なお、夜光杯とはガラス製の杯といわれていた。現在、石で作られた夜光杯といわれる杯があるが、はたして唐の時代の夜光杯と同じものなのであろうか。それとも夜光杯を知らない人が勝手にガラス製と考えたのか。
参考  http://blog.livedoor.jp/hnnk0/archives/51479720.html
書迷博客−王翰/涼州詞(二)
     2012.3.5訂正追加はここまで。
   …………………………

 行きたいところの三番目は頤和園である。しかしそれ以外にも、北京動物園・北海公園・天壇公園・地壇公園・雍和宮・歴史博物館・民族文化宮・天安門など、行きたいところは多い。
 わたしは旅行をすると、まず書店に入って地図を買い、その地図を頼りに二本の足で歩きまわるのを定石としている。今回はすでに北京市の地図があるが、歩きまわるには広すぎる。
 もっとも二日間の自由時間ではそれほど見物できるわけではなく、結局行ってみてからの話となる。
posted by たくせん(謫仙) at 06:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 北京 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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