第十二集
蒙古の汝南王が出てくる。そして娘のミンミンテムール(趙敏)も顔見せ登場。
張無忌は朱長齢が5年過ごした岩棚に戻る。食糧は張無忌が与えていたはず。
そして張無忌は崖から落とされ両足を骨折。そこで蛛児(殷離=殷野王の娘なので張無忌の従妹)に助けられる。
朱長齢はこれから先、食べ物をどうやって手に入れるつもりなんだろう。
雲海の中を落とされたが下は晴れていた。よくあることだ(?)。
第十三集
蛛児は毒の扱い方を間違え顔中に吹き出物があった。
かなり癇が強い女だ。
峨嵋派(周芷若と丁敏)に襲われ、危険を感じた蛛児は張無忌を背負ったりしてその場を逃げだす。夕刻には蛛児の顔がきれいになっている。そんなに簡単に治るものなのか。どうやら、まだ吹き出物だらけという設定らしい。
結局峨嵋派に捕らえられ、光明頂まで連れて行かれる。
第十四集
明教派対六大門派の決戦のため明教の本拠地である光明頂に結集する。
蛛児は韋一笑に捕まる。助けようとした張無忌は説不得に捕まる。
第十五集
明教は、外では六大門派に攻められ苦戦しているのに、上層部は教主の座を巡って争っている。そこへ成崑に入られて、不意打ちを食らう。みな動けなくなる。
そして、成崑の悪行の原因が語られる。成崑もそれなりの同情に値する過去があった。
肯定できるわけではないが、こうして極悪人でも弁解の余地があるのが、金庸小説の特徴。逆に出家の集まりである少林寺も武侠団体なみの扱い。決して聖者ではない。
張無忌がなんとか立ち直り、成崑は逃げだす。
逃げる成崑を追い、楊不悔の寝室に入る。ここも洞窟だった。
娘一人の寝室がこんな広大な洞窟
張無忌は小昭に遇い、二人で明教の聖なる洞窟に入っていく。そこは本来教主しか入れないところ。小昭はみにくいふりをしている。
これは別な場面の小昭
何琢言の小昭はかわいいの一語に尽きる。小間使いの役が実にピッタリした配役。かなり戦略的知識があり、いざというときは、遠慮せずその能力を発揮する。
この小昭の名前は謫仙楼対局でも使わしてもらったように、わたしは好きな登場人物だ。チィギスの娘で明教では大変な人物。ペルシャの宗家でも教主になるような特別な存在なのだ。それなのに本人は教主の小間使いの役が望み。
登場人物3
汝陽王(チャガンテムール)涂們 (笑傲江湖−左冷禅)
趙敏 (ミンミンテムール)安以軒(雪山飛狐−苗若蘭)片尾曲を歌っている。
殷離(蛛児) 張檬(エンドの演員表には張萌とある)
張無忌(青年)ケ超
周芷若 劉競
韋一笑 李明(神G侠侶−裘千尺、碧血剣−胡桂南)
説不得 周剛(神G侠侶−ダルバ、あの巨漢だ)
成崑 譚非リン
小昭 何琢言(鹿鼎記−双児)
楊不悔 路晨
第十六集
聖なる洞窟でも大技を身につけて、ついに脱出。あちらこちらで困難のたびに、新しい強力な技を身につけていくのはいつものパターン。
第十七集
光明頂の対決がある。この対決は屋内のはずだが、屋外で行われる。五派は退けたが雑派の襲撃がある。張無忌が教主になり、明教徒は聖なる洞窟に逃げることになる。
第十八集
光明頂はもとに戻し、張無忌たち主な者は、謝遜を迎えに行くことになる。
趙敏のパオ
実際にこのようなものがあったんだろうか。シンジラレナイ。大平原でしか使えない。蒙古パオは畳んで移動するもの。
そこに林檎の山があるのだが、真っ赤な色をしていて、見るからに作り物。子供のオモチャなみ。出さなっきゃいいのに。
第十九集
趙敏が出てきた。前回は顔見せのみ。明教の一行は緑柳山荘に招かれる。
そこで燗徳利から紹興酒を注いでもてなす。元の時代に燗徳利なんてあったのか(^_^)。
少林寺に行くとそこはもぬけの殻。武当山が危うい。
第二十集
張無忌は先に武当山へ行く。
そこで、張無忌は太極拳を授かり、戦うことになる。元の趙敏がじつにいい。
本名ミンミンテムールで趙敏となのる。趙敏役の安以軒は雪山飛狐の苗若蘭だ。苗若蘭の時はお姫様タイプだったので、趙敏のような野性の逞しさは無理だと思っていたが、けっこう様になっている。動きもいい。野性ではなく、上流の運動選手のイメージだ。
ここでは出てこないが、周芷若はさえない。俳優に演技力がないのか、武林の人らしい迫力が全くないのだ。後に大変な悪役として登場するのだが、これであの迫力が出せるのか心配になる。
第二十一集
張無忌は武当山に帰り、趙敏たちと争うことになる。それを退けた後、今までの経緯を語ることになる。
張三豊は言う。経典は「皿の中」にあるという「イン・克西」の言葉は、正しくは「猿の中」に、と言ったのを聞き間違えたのだと。
このことは最初に書いた。
これが武当山(山号)だが、前の図とは矛盾する。
このように山頂にあったはず。
いつものこととはいえ、こういうところは無頓着。というか平気。
さて江湖の大集会を武当山でやるという。小説では胡蝶谷だ。
ここで前半が終わった。後半は12月の終わりごろ来る予定。
今頃後半をごらんになっているころでしょうか。私は大陸版をしばらく前に見ましたが、最後に失速したな、惜しい、と思いました。趙敏が「愛を取るべきか、故国を取るべきか…」と悩みだすところから、なんだかなあ、ちょっとベタすぎやしないか、と。ラストシーンときたら、論外です。あれは張無忌がモンゴルの保護下に入った、という意味でしょうか。ありえない。鹿鼎記もそうでしたが、少数民族と漢族との軋轢が大きくなっている中国国内の状況が反映されているのかなと思いました。
また、細かいことですが、大陸版では「少林寺」という固有名詞は一言も出てこず、「弊派」だったか、または「弊寺」だか「われわれ」だったか、少林寺を特定できないような言葉に置き換えられていました。しかも後からむりやり別の声でかぶせたようでした。最近少林寺は大規模に各種事業を展開していると聞いたので、商標権やなにやらの関係でしょうか。チャンネルネコの日本語版では原作どおりに「少林寺」を連呼していたので、翻訳にかかわった方たちの態度に非常に好感が持てました。
たくせん様のご感想を楽しみにしています。
ようやく後半の一枚目が終わりました。気になることがあって、本と比べて確認しています。
峨嵋派の滅絶師太が周芷若を次の掌門に指定するあたり、なんか記憶と違う。
それが終わってから二枚目へ行くつもりです。
最後まではまだかなり時間がかかると思います。
今までの作品では、どうも最後のところがいきなり大きく変わる点が目立ちました。これもそうなんですか。
少林寺の名前が出なくとも、小説を読んでいるので少林寺たと判っているのでしょう。
しかし、使わせないというのも解せない。この名前が権利で使用制限できるのでしょうか。
神G侠侶で、尹志平の名前が問題になった事がありました。
少し前までは、金庸小説は大陸では禁書だったのを思い出します。