2019年08月29日

周伯通の年齢

2013.3.10記
2019.8.29改訂

周伯通(老頑童)の年齢

 女の子と老人が元気な金庸小説でも周伯通はきわだつ。老頑童といわれ、誰にでも好かれる人物だ。
 老頑童は関西弁を話す。これで江南なまりをあらわすが、他に関西弁は天龍八部の阿碧たちぐらいか。
 岡崎さんは「わたしの手元に翻訳原稿が上がってきたとき、関西弁になっていて、それが大変おもしろかったので、そのまま使うことにした」と言っていた。
 少し智慧が足りないようだが、精神構造が子どものまま大人になったと考えれば判りやすい。もちろん文字は読めるし知識もある。それなりに頭はよい。武術は超一流。郭靖のことを「アホや」と言うが、その郭靖が老頑童をなんとかあやしている感じだ。
 ここの西暦は計算のための目安である。金庸小説では、年齢は満年齢を使っている。また、当時の年の切り替えは西暦とは一ヶ月以上ずれていて、年数は切り上げ切り捨てがあり正確ではない。1〜2年ずれることがある。しかも史実とは大きくずれる。

以下4行は史実。
全真教の開祖王重陽(1112〜1170)の享年は五十九くらい。
1164 王重陽は活死人墓を作り、そこで修行をはじめる。
1167 活死人墓を出る。3年ほど活死人墓にいた。
1170 死去。58歳か。

   …………………………
 以下は小説、射G英雄伝と神G侠侶(神G剣侠)より
1199慶元五年秋、射G英雄伝が始まる。これを基準とする。

郭靖が17歳(秋には18歳になる)のとき、桃花島で周伯通(老頑童)と出会う。そして
☆周伯通は、「王重陽が出家する前からいい友だちであった」と言う。(射G英雄伝)
九十にもなろうという老人の、あまりにも素早い身のこなしに、趙志敬は舌を巻いた。(神G、文庫第四巻、P9)
☆第五巻「めぐり逢い」では、「開慶元年」に話が始まる。この年、郭襄16歳の誕生日、再び襄陽城の戦いが起こる。周伯通106歳(90+16)
☆第五巻P120では、「百歳近くになっても矍鑠としている」とあり、百歳前の扱い。

 老頑童の年齢についてはこの五行が手かがりである。王重陽はいろいろと数字があるため、比較しながら老頑童の年齢を考察した。王重陽の年齢は変えても矛盾しないが、このままで58歳で亡くなったとする。
 活死人墓に入ったのは、史実では52歳のとき。小説では逆算して、26歳のとき。
  
1150 周伯通の誕生。慶元五年(1199)から逆算する。
1153 開慶元年(1259)に106歳とすればこの年誕生だが、この説は採らない。(開慶元年は一カ所で、その他はすべて慶元五年を基にしている)
1160 (周伯通10歳)

1167(慶元五年秋から逆算、王重陽26歳・周伯通17歳)
 王重陽は活死人墓を作り、そこで修行をはじめる。8年間。
1170(周伯通20歳)

1175(王重陽34歳・周伯通25歳)
 古墓派の開祖である林朝英が古墓に入る。林朝英が死去する十年余前。(文庫本第一巻P208)
 全真教の開祖王重陽は古墓を出る。出家して道観(重陽宮の前身)を建てる。
 周伯通はこの(出家して道観を建てる)前からの付き合いということになる。
1180(周伯通30歳)

1185(王重陽44歳・周伯通35歳)
 林朝英が死去。第一次華山論剣の13年前。(文庫本第一巻P364)

     ……… ここまでは神G侠侶の話、以下は射G英雄伝の話 ………

1190(王重陽49歳・周伯通40歳)
1197(王重陽56歳・周伯通47歳)
 王重陽と周伯通は大理に行く。ここで周伯通と劉貴妃との間に子ができる。これが周伯通の生涯の汚点となる。劉貴妃に頭が上がらなくなっていつも逃げている。第一次華山論剣の1年前

1198(王重陽57歳・周伯通48歳)郭靖と黄蓉が出会う20年前
 第一次華山論剣。王重陽が勝ち九陰真経を得る。

1199(王重陽58歳・周伯通49歳)
 ★慶元五年秋、射G英雄伝の始まり。高宗即位後72年目になる。
 冬、丘処機が杭州郊外牛家村に現れ、郭嘯天と楊鉄心と知り合う。
 第一次華山論剣の翌年、王重陽亡くなる。(第4巻雲南大理の帝王)
★この年表はこれを基準にしている。射G英雄伝で年号がはっきり書かれているのはここだけ。
 周伯通、王重陽の死後「九陰真経」の下巻を黄薬師に騙し取られる。その後5年修行し、桃花島に行き、洞窟に閉じこめられる。

1200(周伯通50歳)
 牛家村が襲われ、郭嘯天が殺される。
 李萍は段天徳に掠われ北京まで行き、さらに蒙古行きの荷物運びにされ、結果蒙古に逃れ、九月には郭靖を出産する。包惜弱は金の趙王に掠われ、金で楊康を出産する。

1203(周伯通53歳)
 王重陽の死後5年であるが、実際は4年あまりと思われる。
 黄蓉生まれる。黄蓉の母は亡くなる。
 周伯通、桃花島の洞窟に閉じこめられる。15年間閉じこめられ郭靖と会うことになる。

1210(周伯通60歳)

1218(周伯通68歳、郭靖18歳(秋に18歳)、黄蓉15歳)
 牛家村が襲われてから18年後。周伯通が閉じ込められてから15年後
 郭靖と黄蓉は嘉興に向かう。時は旧暦の六月。
 続いて二人は桃花島へ渡る。郭靖ははぐれてしまい、周伯通と出会う。周伯通の年齢は不明だが、老人という。
 第一次華山論剣の翌年に王重陽が亡くなり、周伯通は5年の修行ののち、15年間桃花島の洞窟に閉じこめられた。単純合計では華山論剣から21年後だが、20年後。

 周伯通の言葉「わいと王の兄貴とは古いつきあいでな、兄貴が出家する前からもうええ友だちだった。…」。幼友達ではないようだ。
 この時の周伯通の年齢は、王重陽の9歳下の68歳あたりとすると計算が合う。王重陽は58歳で亡くなったが、小説では年齢不明。
 王重陽は出家の前8年間は活死人墓で修行していたので、周伯通とのつきあいは26歳より若いとき。周伯通は17歳以前。いい友だちだったというが、少年時代のつきあい。
 王重陽が活死人墓を出てから出家するまで少し時間があるが、その間にいい友だちになったとも考えられる。ただし王重陽は林朝英と江湖を旅していたので、可能性は小さい。

1220(周伯通70歳)
 楊過誕生。
 第一次華山論剣の22年後。
 第二次華山論剣。第一次の25年後の1223年に開かれるはずだった。年数に3年の差がある。金庸の計算違いか。

     ……… 以下は神G侠侶の話 ………

1240(周伯通90歳)
 第二次華山論剣から20年後(と計算)、襄陽城の戦い。郭襄生まれる。この年楊過20歳。
 九十にもなろうという老人の、あまりにも素早い身のこなしに、趙志敬は舌を巻いた。(文庫第四巻、P9)。

1256 (周伯通106歳、楊過36歳、郭襄16歳、郭芙32歳)
 16年後、再び襄陽城の戦いが起こる。慶元五年秋から57年後。

1259(周伯通106歳、楊過36歳、郭襄16歳、郭芙32歳)
 第五巻「めぐり逢い」では、再び襄陽城の戦いが起こるのは 開慶元年(1259)としている。
 慶元五年秋から60年後。射G英雄伝と通算すれば3年の差がある。2回の論剣の差3年が、ここで調整されることになる。

1257〜1259 は無かったことに(^_^)。1256と1259を同じ年とすればこの世界が成り立つ。

 120頁では「百歳近くになっても矍鑠としている」とあり、百歳前の扱い。
 279頁では金輪法王の台詞に郭芙35歳としているが、それなら生まれは第二次論剣の翌年となり楊過より一歳年下。第二次論剣の数年後に懐妊なので矛盾する。32歳とすべき。これは金輪法王の間違いとするか。
 330頁には楊過36歳とある。だから1256年でなければならない。

 開慶元年(1259)を基準にすれば3年ずれる。第一次論剣以降の出来事は全て3年遅くして、第一次と第二次の間を25年にすれば整合性がとれる。
 そのためには何度も出てくる、「20年前」などという台詞を「23年前」に変更しなくてはいけない。また射G英雄伝の始まりを「慶元五年秋」の3年後とすることになる。これは基準で変えられない。そこで、それまでの出来事はそのままにし第五巻を開慶元年の3年前として年表を作成した。

 モンケが亡くなったのが開慶元年なので、小説上でも、襄陽城の戦いを開慶元年にしないわけにはいかなかったか。

 別記の 古墓派の年表 では、第一次論剣と第二次論剣の間を25年としている。

     ……… 次は倚天屠龍記の話 ………

 倚天屠龍記では、
1259 襄陽城の戦いのあと、郭襄が流浪の旅に出て、襄陽城の戦いの3年後に、少林寺の近くで、周伯通の名を出す場面がある。
 してみると、109歳までは生存していたことが確認される。
posted by たくせん(謫仙) at 07:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 射G英雄伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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