第四十一回
皇帝に天地会の香主であることがばれてしまい、城内の旧居に軟禁状態になる。小説を読んでいれば、なぜばれているのか判るが、ここまでは一度臭わしているだけ。小説でもこんな感じだったかな。皇帝もかなりの情報網を持っている。
城内の旧居には係りの宦官がいるのに、まるで掃除をしていない。机や椅子にまで蜘蛛の巣があり、あたりを叩けばほこりが舞い上がる。それでいながら沢山の蝋燭が煌々と照らす。このギャップはなんだろう。そういえば海大富が生きていたときも、大事な仏壇に蜘蛛の巣があった。
第四十二回
なんか、だんだん問題が出てきたなあ。みんなで蓮田を逃げ回っているがそれが普通の畑。蓮の花が咲く所は畑ではない、池のような田だ。歩けるわけがない。他の畑にできなかったかな。
こうなってくると、今まで見過ごしていた場面も心配になってくる。韋小宝などがよく午門の真ん中を通り、金水橋の真ん中の橋を通り、大和門に行く。出てくるときもそうだ。あの真ん中の橋は皇帝しか通れない。大臣でも通ると死刑。知らないでドラマを作っているとは思えないのだが。
第四十四回
通吃島の戦いで、陳金南が鄭克ソウに殺されてしまう。主筋としてかばってきた鄭克ソウに殺される陳金南の心はいかばかり。これを悲しむ韋小宝は実の父親を亡くしたような嘆きぶり。無理もない。私生児として育ち、母以外に初めて肉親的な感情を持った人だった。
韋小宝はあとで、鄭克ソウと馮錫範を徹底的にいじめ抜くことになる。
第四十五〜六回
通吃島は、巨大サボテンが生えていて、雪が降る土地。祭壇のような壇とそこに行く階段があって、柵もなく危険な壇上で生活している。雪が降るところをみると屋外だろう。
いったいどのような土地を想定したのか。「現実には存在しない土地」を意味しているのか。
七人の美女との甘い生活のようで、それなりに現実は厳しい。生活物資は船で運んでくるはずだが、それでも退屈しているだろうな。なにしろ七人の美女相手では博奕ができない(^_^)。
それから不思議なのは、この間に子供ができなかったこと。三人の児はいずれも島に来る前から母胎にいた。そのうち二人はたった一度の過ち(?)で。それなのに二度と子供ができないのはとうしたんだろうか。
第四十七回
韋小宝が台湾に乗り込んだあと、聖旨が届く。韋小宝が港に迎えに行くが、その港の名は「臺湾雄碼頭」。
重箱の隅をつつくようだが、当時の台湾の中心地は台南。雄は港こそあったが中心地ではなく、名前は「打狗」。日本領のとき、1920年に高雄と命名。戦後中華民国政府もそれを受け継いだ。つまり当時は高雄という地名がなかった。
この後はだいたい原作通り。
…………………………
いつもの如く特典映像がある。今回は、黄暁明と岡崎由美先生との対談が面白い。08年の8月に東京での対談である。それなのにスタッフが写ったりすると、黄暁明が注意したりして気を遣っている。会場の主催者は中国側なのか。そこへ岡崎先生がゲストとして来て、黄暁明にインタビューをした様子だ。
黄暁明は好青年という印象がそのまま。
岡崎さんは金庸を翻訳するとき、初めの書剣恩仇録とこの鹿鼎記は自らペンを執り、これ以外は他の人の翻訳を監修する立場だ。思い入れもあったことだろう。話しぶりは楽しそう。
黄暁明はかなり緊張しているように見受けられる。
特典映像も楽しい。
韋小宝役はもっと小柄な人を探していたとか。
俳優と契約するとき、役を決めず契約したとか。
康煕帝は別な人を予定していたとか。
双児は何琢言にピッタリだとか。わたしもそう思う。
いくつか無修正版というのがあったが、どこが修正されたのか、判らなかった。しかし、比べてみる気はしなかった。
数ヶ月先におそらくもう一度見るだろう。
あの陳近南の亡くなるシーン、思わずもらい泣きをしました。
私は、日本版を持っていなくて、日本版はケーブルテレビで見ています。
台湾旅行で台湾版を買ってきたので、それで楽しんでいます。
小宝が、皇上と再会するシーンも涙の落ちる(ポチャ)と言う音が無ければとても感動的だったんですけどね(笑)
日本版のラストはまだ見ていません。多分今週の金曜日の昼の再放送を見る事になるでしょう。
台湾版のラストに向けて、燃え残った船の上で「小玄子」と「小桂子」との掛け合いがなんとも言えませんでした。
「小玄子己経死了」と言う皇上は、自分は皇帝なのだと言うことを自分にも言い聞かせているようでした。私は本の方が第二巻のラストになります。
ドラマのお陰で今度は挫折せずに読めそうです。(カットになったシーンを見つけ出しつつ)
>皇上と再会するシーンも涙の落ちる(ポチャ)と言う音が無ければ
ウワー芸が細かい(^_^)。
わたしが、「臺湾雄碼頭」を見つけたのと同じかな(^_^)。
ドラマではラストは揚州で行方不明ですが、小説では雲南に逃げ込みますね。
昆明には呉三桂ゆかりの寺もあります。王となりながら、いつ取りつぶされるかも知れない、外様大名の心境。
このドラマでは呉三桂は悪役に近い扱いですが、呉三桂を狙う人たちの方がさらに悪役。金庸先生の人物評価眼の鋭さを感じさせます。
カットのシーンは、しっかり説明していますので、「なるほどそういうわけだったのか」と思いますよ。