2016年09月25日

青島

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 11
青島

 今回が最終回になる。
 8月22日の午後8時頃、青島(チンタオ)に着いた。これも15分くらい遅れた。
 夕食は海鮮料理である。これが最後の宴になる。
 ガイドの王さんから、かめに入った紹興酒「女児紅」の差し入れがあった。そして「わたしの方が岡崎さんにガイドされました」と挨拶。

 翌朝、23日(火)はからりと晴れていた。

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 朝食前に散歩に出た。まだ日も差さないうちに海に入っている人が多い。その向こうが小魚山公園だ。今日の観光予定。

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 右の最上階が丸く回転する建物が泊まったホテルだ。

 朝食のため、ホテルに戻り最上階の回転レストランに行こうとしたら、エレベーターが途中で止まってしまう。まだ時間前だった。

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 これは最上階より。
 朝食後に小魚山公園にむかう。昔の町並みなので道がわかりにくい。しかも途中から大型車が入れなくなっていて、歩くことになる。

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 青島は昔ドイツの領土だったことがある。そのときの町並みが今も保存されている。ドイツが引き上げても、次に建築する人たちはドイツの町並みをまねた。

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 この道もドイツ的。

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小魚山公園は有料である。

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 手前はドイツふうの町並み。向こうは高層ビルが建ち並ぶ。

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 日本が占領したとき、水族館を造ったという。半分隠れてそっと顔を出しているのが日本的(^_^)。

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 けさ散歩した海岸。

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 信号山公園。詳しいことは忘れてしまったが、歴史がある。

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 小魚山公園を下ると、道路工事をしていた。その発電機。重慶の会社が製作したようだが。

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 海岸に出て大桟橋を見る。バスは込んでいて入れず、少し離れたところで降りて歩く。

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 青島を占領しようとする軍は必ずこの桟橋から上陸するとか。

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 青島の名前のもとになったという青い島。本当かどうかは……。
 写真を撮っただけで終わってしまった。バスに戻り、これから青島ビール工場へ。
 途中で大渋滞に巻き込まれた。交差点で身動きがとれなくなってしまったのだ。駐車している車があって車線が狭くなっているのに、あとから来た自動車がなんと反対車線に入り込む。あちこちの車の運転手が出てきて、交通整理に当たる。パズルを解くような車の移動だった。

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 有名な青島ビールの工場見学。
 王さん曰く、
「水がうまくないと、ビールもうまくない。今は雨期なのでここの水が一番うまいとき。この工場以外で造られた青島ビールは、名前は青島ビールでもうまくない」
 青島では、一年の降雨量の半分はこの2ヶ月に降る。

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 庭の様子

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 博物館に入る。昔の工場設備の見学である。

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 世界中のビールだ。

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 文字通りの生ビール。

 さてビール工場をあとにして、空港に向かおうとしたら、ここでもまた渋滞、道路に駐車しているバスがあって…、とにかく反対車線に入ってくる車は困りもの。運転手も焦っているようだった。
 空港に着いたときの余裕は約1時間。ぎりぎりセーフといったところ。旅行社から事情を連絡してくれていたので、到着と同時に私たちのためにカウンターを開いた。
 成田行きは30分ほど遅れた。その分空港内で余裕が出来た。
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2016年09月22日

岱廟(たいびょう)

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 10
岱廟(たいびょう)

 8月22日(月)の午後は、泰山の南の泰安市にある岱廟(たいびょう)見学である。
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 泰山を祀る廟である。泰山の別名を岱山といったので岱廟となった。
 中国の三大宮殿の一つといわれる。あらためて言うと、北京の紫禁城と至聖廟と岱廟である。
 前回にも書いたようにカメラの電池が切れたので、自分の写真はない。写真がないと思い出せないものだ。他の人の写真が手に入ったので、紹介する。

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 何陽街を城壁に沿って正陽門に向かって歩く。

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 岱廟の城壁の高さは10メートルほど。

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 正陽門の前には岱廟坊がある。

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 正陽門から入る。

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 最初に見える建物は配天門。

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 宣和重修泰岳廟記碑
 宣和年間の岱廟の修復作業の様子が記されている。

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 漢柏
 説明に、別名「連理柏」と言い、「水経注」に「漢武帝が定植したものなり」と記載されており、2100年以上の樹齢があると言われています。
 とある。

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 これも乾隆帝が書いた漢柏に関する石碑。

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 北宋時代の書道家米芾の石碑「第一山」

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 多くの碑文がある。
 李斯の碑文があるのにびっくりした。ただし残っているのは10文字だけ。始皇帝の時代である。
 本来は泰山山頂にあったものを移した。

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 東御座
 岱廟は歴代の皇帝が、泰山を訪問した折に立ち寄る、行宮としても使われた。
 乾隆帝も泰山に登るときはいつも、岱廟にお参りして、数日泊まっていく。泰山に登ること6回、東御座は8回使用した。

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 中心となる天貺殿は工事中。中には入れた。

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 銅亭
 全体が銅でできている。1615年に鋳造された。

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 後ろの門。「厚載門」のはずだが上の地図では「后宰門」と読める。
 この門を出ると、まっすぐ泰山の登り口に至る。

 岱廟は、南北約520メートル、東西約230メートル、至聖廟より少し小さい。
 ある場所でガイドの王さんが、「これも……あの人が…、」これだけで笑い声が上がる。
「皇帝をあの人なんて言ってはいけませんね」
 つまり乾隆帝が…である。結局、乾隆帝の足跡をたどる旅になってしまった。
 王さんは説明するとき、キシュウとかゲンシュウとかいう。とっさに誰だか判らなかった。
 岱廟をダイビョウと言ったとき、岡崎先生が注意というか、訂正を言った。
「岱廟は日本ではふつうタイビョウといいます。ダイビョウでは判りません」
 又、
「キシュウやゲンシュウもシュウではなくてソウと読みます。だからキソウ・ゲンソウといいます」
 徽宗・玄宗のことである。岡崎先生はこういう意味のことを言ったのだ。それでわたしはその前の説明の意味が通じた。

 この名の読み方は微妙な問題がある。日本語ではどう読むかは習慣に近いだろう。中国語でも現代語と、当時の読み方とでは違う。また地方によっても違うだろう。
 隋に煬帝という皇帝がいた。普通に読めばヨウテイであるが習慣的にヨウダイと読む。ダイと読まれるのはこの皇帝一人だけだ。辞書もそうしているが、ある研究者が「日本だけの習慣で何の根拠もない。ヨウテイでよい」と書いていた。

「7 水滸影視城」のところで、「済水(せいすい)」と書いたが、ウィキでは「さいすい」と仮名を振っている。「さいすい」という読み方は初めて見た。
 天龍八部の第一巻P92に、段誉が、「字は和誉」と言うが、「かよ」と仮名を振っている。これは小説の主人公なのでどうでもいいが、いつも「わよ」と読んでしまう。
 その他でも仮名を振るのが少し怖くなる。

 一時間ほどで見学を終えて、バスで高速鉄道の駅まで行く。

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 まるで在来線のような雰囲気の泰安駅ホーム。

 泰安発 16:35
 青島についたのは19:55
 15分ほど遅れている。窓外の景色は田園地帯が続く。見渡す限りハウス栽培の所もあった。はじめに書いたように、この辺りは華北の食料庫だ。7月8月しか雨が降らないので(たとえば青島では、一年の雨量の半分がこの二ヶ月に降る)、みな雨の降ることを願っている。私たちの行く先々が晴れていたのは例外的で、前後で豪雨のニュースがあった。
 そのことが判ってみると、黄河の水が途中で少なくなり、海まで達しないことがあっても納得できる。
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2016年09月20日

泰山

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 9
泰山

8月22日(月)
 世界遺産の東岳・泰山といえば名前は有名だが、案外どこにあるか知られていない。
 意外に低く、海抜1545メートル。単独の山ではなく山塊である。
 歴代の皇帝が、封禅の儀式を行ったことで有名な山である。
 ネットで地図など参照しているのだが、どこからどう行ったのか、なかなか判らない。
 アースでは、日本では歩道を歩いている人さえ特定できるほどなのに、中国では道さえはっきりしないのだ。
 その麓の町泰安市からバスで出発する。
 
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 ホテルから見える泰山。

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 バスは左に回り、桃花源つまり裏側から登る形。

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 50分で泰山桃花峪游人中心につき、そこでシャトルバスに乗り換え。

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 桃花源に行き、さらにロープウェイに乗る。
 荷物専用のロープウェイもあった。

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 10時頃に山頂駅に着く。
 そこから少し歩くと南天門だ。

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 南天門、泰山の写真では、下からこの門までの長い階段がよく使われている。
 私たちは中から外へ出て、また中に入る。

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 この上は商店街となっている。天街という。

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 天街は結構広い。それだけ大勢の観光客が訪れることを示す。

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 上の地図でも判るように、泰山は3路線のロープウェイがある。私たちは桃花源の路線を利用した。これは南からの路線。

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 天地
 幅1メートル長さ10メートルほどの小さな池、水は涸れていた。昔は広かっただろう。ここで発見されたという金色の魚(赤鱗魚か)がいた。高地でしか生られない。もちろん今では養殖している。

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 昨日の夕食で、唐揚げを食べた。 

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 五嶽の説明。

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 いよいよ最後の急登

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 登って内側から門を見る。これも身過ぎ世過ぎのため。

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 碧霞祠
 ここは碧霞元君などを祀っているが、乾隆帝の命により、取り壊して新たな祠にすることになった。ところが惜しむ声があり、乾隆帝はその声を受け入れて、祠を幕で覆い、この祠の前に新たな祠を建てて済ますことになった。二重に祠がある。

 また少し登る。

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 紀泰山銘碑
 碧霞祠の斜め後ろにある。いろいろな時代の書である。
 右端の金色の字は、玄宗皇帝の字である。玄宗皇帝は以前に書かれていた字を消して、自書を彫らせた。よく見ると古い文字が薄く見える。貴重な資料だったのに。

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 玉皇頂に着いた。

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 廟の建設前はこの無字碑が山頂より高かった。

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 玉皇廟、玉皇大帝の像が奉られている。

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 あちこちで見る愛の誓い。重さで崩れても有効なんだろうか?

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 仏教の尼さんらしき団体も来ている。未成年者と思える人も。昨晩は私たちと同じホテルに泊まった人たちだ。食事の仕方が仏教徒らしいと思った。
 ここは道教の聖地だが、近辺には仏教寺院もある。

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 となりの峰。東からのロープウェイがこの先ではないか。

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 下界の人家や道路が見える。

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 紅墻内を一週する。ガイドの王さんが、これだけ天気のよいのは珍しい、と言っていた。
 雲の様子から数時間で雨になるだろうと。

 ここでカメラの電池が切れてしまった。
 ここからは下山である。登りの逆コースだ。ロープウェイがなぜか遅い。登りと下りでは速さが違うのだ。
 どんな仕組みなんだろう。ガイドの王さんもはじめはびっくりして、ロープウェイの会社に確認したところ、本当に下りは遅かったと言う。
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2016年09月15日

水泊梁山

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 8
水泊梁山

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8月21日(日)
 水滸影視城を見学して昼食後、水滸影視城に戻らず、別な撮影所である水泊梁山に行くことになった。直線距離で二十キロほど。一時間以上かかって、水泊梁山に到着。
 ここも古い水滸伝のドラマ撮影所であった。ただしそのドラマは不評であったという。
 この梁山は梁山泊のあったところとされている。旅行当初は予定になかったが、時間が余ったので行くことになった。

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 梁山塞門
 ここは撮影所というより撮影場所といった方が判りやすい。
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 水滸伝の作者施耐庵像だが、羅貫中説もあり、作者は特定できない。

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わかりにくいが参考図
左下の梁山塞門から、右上の赤い丸印まで往復した。

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 いきなり階段登り。

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 ここで一息。せっかくの遺跡をこうして汚して、いや飾ってしまうのが中国流。ここでも乾隆帝のなんとか。

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 断金亭、屋根のある四阿である。そこには講釈士がいた。まるっきり無視した母子。
 演目は判らない。断金亭は、林冲が晁蓋とあって、好漢の仲間入りをしたところ。

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 向かいの山も険しそう。

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 ここで一休み。店には入らず。

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 道は整備されている。ここを登れば最初の頂上。

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 黒旋風の李逵(りき)、何をしているのか。居るだけでいいのかな(^_^)。

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 琴を奏でる風流人も。

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 ようやく忠義堂に到着、標高200メートル差の山登りだが、一時間近くかかった。

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 忠義堂の中。英雄女侠の椅子がずらりと並んでいる。

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 以下、忠義堂のうしろの高みから。

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 梁山の南にある池、グー地図にないがアースでははっきり見える。
 横1.5キロほど

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 忠義堂の前でショーをやっていたが、おもしろみに欠ける。

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 ここに老婆が来て、椅子を持ってきた男が声をかけると、前の男たちが場所を空けた。この日、一番感動したシーンだった。
 大理では一番前の人たちが日傘を広げてうしろの人の目を塞いだものだ。

 17:15 泰安に向かって出発した。予定していた道が工事中で迂回することになった。運転手もスマホをナビにして道を探す。2時間くらいの予定が、3時間半かかった。

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 途中にあった仏教寺院。かなり格のある寺らしい。
 午後9時近くホテル到着。
 慌ただしかったので、カメラの充電を忘れてしまった。
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2016年09月12日

水滸影視城

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 7
水滸影視城

 8月21日(日)バスで水滸伝の撮影所、東平に向かう。
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 バスの窓外は、このような景色がいつまでも続く。一時間半ほどで、水滸影視城につく。
 10時頃から水滸影視城を見学する。

 大河ドラマを作ろうとすると、こうして撮影所づくりから始める。ここで作られたドラマが、2011年作成の 水滸伝 だ。
     兄弟無数
   ♪兄弟壹貳参肆伍
   ♪兄弟個拾百千万
   ♪兄弟が出会えば三椀の酒
   ♪兄弟と語れば二杯の茶


 その後は他のドラマでも使われているはずだが、全体の熱気はいまひとつかな。まあ暑い盛りでもある。

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 この門から入ってガイドを待つ。
 水滸は水のほとりの意味、そこは鉅野沢(きょやたく)といい、湿地帯であったはず。周囲八百里といわれている。約400キロだ。細長い琵琶湖が約240キロ、面積では琵琶湖の10倍はありそうだ。
 1128年に黄河は山東半島の南側に流れを変えた。そのため、鉅野沢はほとんど干上がってしまった。
 1855年に黄河の河道が山東半島の北側に変わり、この近くを流れるようになった。現在は少し恢復した。
 済水(せいすい)は独自の大河であったが、1855年に黄河の下流になった。だから現在の地図にはない。

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 正門の入り口。左に万寿門がありそこが出口になる。

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 右上が出入り口、左の外側が東平湖。水滸影視城はかなり広いが、中央の大通りの下側が主な観光地。
 見たのは(見るところは)全体の4分の一くらいか。
 ガイドの王さんが訊いた。「一番の人気者は誰だと思いますか」
 2番目くらいに「武松」の名が上がった。
「武松です。そのためここでは武松の一画が一番広くて充実しています」
 逆に不人気なのは、呉用だという、「呉用(wu yong)は無用(wu yong)だ」と言われていると。

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 当時の図。左下の鄆城(うんじょう)が宋江のいたところ。

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 門を入ると両側は広場で道にはマニアックな武器が並ぶ。

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 この辺りは東平府といった。

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 立派な門だが、中には入らない。広い撮影所だが、こうして誰も見学していないところが多く、見学する所は狭い。

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 宋代の戦車、中に人が入って押した。使い勝手はどうだろう。

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 これは自然の岩。

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 文明鎮に入る。
 この二階の真ん中の部屋で、武松が西門慶と潘金蓮を殺し、兄武大郎の仇を討った。
 潘金蓮は前回紹介した「女子読み水滸伝」の語り手。

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 武大郎(武松の兄)の家。潘金蓮と暮らしていた。そこに武松が同居することになった。

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 武大郎の家の一階、虎は武松が殺したが、皮は持ってこなかったはず(^_^)。
 二階は別料金だったので上がらなかった。

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 この二階の小道側の出窓から、潘金蓮が顔を出したところを西門慶に見られたのが、不倫のきっかけ。

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 王婆茶館から大通りの斜め向かいに武大郎の家があった。
 王婆茶館に金持ちの西門慶が来て、王婆が潘金蓮を呼び出す。名目は仕立てだった。
 王婆にとっても、滅多にない金儲けの機会だっただろう。

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 王婆茶館で茶を飲みながら講釈を聞く。語っているのは宋江の閻婆惜(えんばしゃく)殺しらしい。
 両手に鳴り物を持っている。

 出口方向へ向かうと小さな人だかり。

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 武大郎の炊餅売り。餅ではなく、小麦粉(あるいは米粉)を薄く引いて焼いたものらしい。

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 状元糕の作成現場。糯米に落花生を混ぜて搗いている。

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 宋代にもうこんな大砲があった。

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 土産物屋である。一階を見て二階に上がろうとしたら、向こうで撮影中だという。

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 撮影現場に遭遇。古衣装の女が歩くところを数回繰り返していた。
 一シーンが終わって、土産物屋の二階に行って二階の窓から見たら、次のシーンの準備中だった。
 これもアトラクションの一部ではなかろうか、という意見も。

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 雰囲気のある建物だが、見学者はいない。

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 まもなくここでショーが行われる。

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 ぼてふり(棒手振り)武大郎がここに荷物を置いて、ひとしきり商売をしてから、いなくなる。

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 李員外招親
 ショーの名前。員外とは金持ちに等しい。本来の意味は定員外の役人だが、無役なので給与はない。それなのに金持ちはこの地位を買った。理由は、役人になると税金を払わなくてよいからである。故に金持ちの意味で使われることがほとんど。
 招親はここでは婿選び。お嬢さんが鞠を投げ、それを受け取った者が婿になる。

 このお嬢さんはぽんと鞠を投げてしまった。味も素っ気もない。
 大理では何度か投げるふりをして、客がどよめいたものだが。宋城では婿入りで、漫才をやり大勢の観客が笑い転げていた。
 ここでは観客の数も少ないが盛り上がりがない。熱気がいまひとつとは、こんな場面に思う。
 武大郎が左の端でショーの太鼓を叩いていた。

 青石巷から高みに上がり、東平湖を見る予定であったが、土手の上の民族園は入れなかった。

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 湖を見ようと西の端の城壁に登る。階段はかなり崩れていて、やや危険状態。

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 城壁の内側では何かのショーを行うようだが、今は誰もいない。

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 周囲八百里(約400キロ)といわれた鉅野沢(きょやたく)も、黄河の流れが変わり干上がってしまった。ようやくここまで恢復した。現在は直角三角形に近く、高さ17キロ、底辺が12キロ。長辺が20キロくらいか。
 この地方は7月8月しか雨が降らないため、水不足は深刻である。

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 昼食時なので、大通りはほとんど人がいない。

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 最後に道観を見る。少し遅いが昼食の時間だ。万寿門から出た。
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2016年09月10日

孔子家宴

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 6
孔子家宴

 8月20日(土)、闕里賓舎の夕食は孔府家宴である。
 曲阜の伝統料理である。

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 一番奥の部屋に入ると、すでにいくつのかの食べ物が出ている。
 孔府菜(料理)ではなく、棗などの縁起物である。

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 食事の時はいつも撮影会になってしまう(^_^)。
 今回の旅行でわたしが紹介する食事は孔府家宴のみとする(^_^)。

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 これを岡崎先生がたたき割り……、割れなかったー。

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 中身は骨付き豚肉だった。

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 開宴となる。まずはビールで乾杯。
 岡崎先生からプレゼントがあった。

女子読み「水滸伝」
秋山久生 著 岡崎由美 編集協力 2010年 三五館
 潘金蓮と張氏が感想を交えながら解説する趣向。張氏とは林冲夫人。
 
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   書庫 女子読み「水滸伝」

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 陽関三畳
 唐詩に「西のかた 陽関を出づれば故人無からん」という有名な一節がある。この部分を三回繰り返して歌ったので三畳。 

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 聖書香
 筆は何のため、模写するのかな。

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 魯壁蔵書
 焚書坑儒の時、壁の中に書を隠したという故事による。当時は紙はなく、竹簡木簡である。こうして束ねた。
“孔子の古里、曲阜と闕里”に写真有り。

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 孔府家、52度の蒸留酒である。正しくは孔府家酒だが、どこに行っても孔府家で通用するとか。

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 少し遅れて魚料理が出ると、再び乾杯する。それがマナーだ。ということで我々も乾杯。

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 おいしいスープだ。飲む前に注意があった。
「若い人は眠れなくなるので飲まないように」

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 説明はなかったが、意味があるのかな。

 不喫孔府菜 枉来曲阜游
 説明書の文字、「孔府菜を食べなければ、曲阜に游びに来たとは言えない」とでも訳すのだろうか。

 私たちのように宴会する小部屋がいくつもあった。名目は誰々の孔子門への入学祝い。
 卒業は一生かかっても難しいかな。
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2016年09月07日

至聖林(孔林)

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 5
至聖林(孔林)

 至聖林(孔林)は孔子とその一族の墓所である。ここも紅墻に囲まれている。
 孔林の広さは2平方キロ。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に孔廟、孔府とともに三孔として登録されている。

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 歩いている後ろの方向。木の陰になってしまったが、万古長春と書かれた坊。そこから歩いた。柏(コノテガシワ)の並木が続く。

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三輪タクシーが多い。馬車も走っている。

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 至聖林門から入る。

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下から
万古長春坊
至聖林門
二林門 ここから紅墻内に入る。
 至聖林の紅墻内は東西約1.9キロ、南北約1.2キロ。この中に十万を越える墓があるという。ここも徐々に大きくなり、清代に今の大きさとなっている。
 至聖林門での説明では、この門から孔子の墓まで1キロ、往復2キロを歩くか、周囲10キロをカートで行くか。この2コース。カートで行くことにした。
 二林門の写真を撮ることが出来なかった。二林門から右にまがって、山中の道を行く。

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 見たところかなり空き地がある。ただの土まんじゅうもあちこちにある。

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 時々整備されたところを見る。

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 墓道にまで坊があった。

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 乾隆帝の娘の墓地らしい。

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 ほぼ一周し、図の二林門の少し左でカートを降りた。そこから北へ(地図では上へ)歩く。

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 まず沫水橋を渡る。この辺りが昔の魯と斉の国境であった。至聖林は国境を跨がっている。

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 沫水河といっても小川程度。この川には始皇帝の伝説がある。焚書坑儒のとき、この川を赤く染めることによって、墓所の存在を許したという。そのような助言をした人がいた。

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 この幸せそうな顔。聖地を守っているせいか。

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 享殿

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 享殿の裏側には子貢が植えた楷(かいのき)があったという説明がある。
 このときガイドの王さんから、子貢ってどんな人だか知っていますかと訊かれた。
 わたしは「商人で全国を回って商売をし、行った先々で、うちの先生(孔子のこと)は偉いと宣伝した。それで孔子が偉いということになってしまった」と答えた。
 子貢の財力は桁外れで、孔子一門の生活を支えたこともあったという。もし子貢がいなければ孔子は諸子百家のひとりで終わっていたであろう。
 わたしは孔子よりも兼愛(博愛)と墨守(専守防衛)を説いた、墨子のほうを高く評価している。
 しかし、王さんの言いたいことと、わたしの答えとは少しずれていた。

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 孔子の墓であるが、仮の墓である。遺骨などはない。

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 大成至聖文宣王墓の王の字に注目、俗界の王に遠慮したという。後ろの小さいものが本来のもの。

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 孔子が亡くなったとき、子貢がここで三年の喪にさらに3年、6年喪に服したので、この前に墓があったのではないかと思われ、墓の位置を想定した。
 子貢はそんな人であったのである。これが王さんが言いたかったことだった。
 なお、「三年の喪」はあしかけ三年で、実際は2年1ヶ月程度といわれる。これはあしかけ三年も働かなくても生活できる人の話。庶民では飢え死にするであろう。

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 享殿前から沫水橋方向。

 またカートに乗って至聖林門まで行く。

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 ここから馬車に乗って、ホテルまで帰ることになった。一台に13人なのでぎゅう詰めである。

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 大通りを馬車で通る。数人しか乗っていない向こうの馬車を追い越した。この馬は蒙古野馬で、体は小さいが力は強い。
 そういえば大通りを「馬路」という。馬が通るのは当然か。

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 馬車が方向転換して戻っていく。
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2016年09月04日

聖府(孔府)

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 4
聖府(孔府)

 聖府は孔家の住まいである。孔子の直系子孫とその家族が住んでいた。
 最初は1038年に建設されたが、至聖廟のように何度も拡大再建されている。
 1889年に今の規模になっている。建物数152、部屋数480という。
 第76代孔令貽はここで生活していたが、第77代の孔徳成は、1949年に中華人民共和国が成立すると、台湾に移住してしまった(2008年10月に亡くなっている)。現在は観光地として一般に公開されている。

 なお孔家の第76代は孔令○という名になる。第77代は孔徳○である。令・徳は昔から決められていて、輩行字(はいこうじ)という。
 下はウィキにあったもの。検証はしていない。

第56〜65代 :希言公彦承 宏闻贞尚衍
第66〜75代 :兴毓传继广 昭宪庆繁祥
第76〜85代 :令コ维垂佑 钦绍念显扬
第86〜95代 :建道敦安定 懋修肇彝常
第96〜105代:裕文焕景瑞 永锡世绪昌


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 闕里街を北に行くと、孔府入り口にいく。
 この両側の塀の中は、左が至聖廟、右は闕里賓舎である。

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 右に曲がって入り口。

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 大門である。

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 門の両脇にあった。

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 廟ほどの規模はなく、私生活の場なので見るべき物は少なく、写真も少ない。調べてもはっきりせず、大門から入ったものの、どこを通ったのか判らない。
 こんなに建物があったとは。もっとも建物数152というので、当然だが、ほとんどは見ていないことになる。

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 聖府の文字は新しそう。

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 皇帝用の門である。ネットでは皇帝の使者が通ったという説がある。

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 ここの中心となる堂である。修理中であった。いわゆる裁判所のよう建物である。孔家は治外法権があって、孔家の判断には皇帝さえ異議を挟まなかったという。

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 六代含飴、乾隆帝の筆による。この乾隆帝にちなんだ飴を売っていたが、あまりおいしいというものではない。

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 ここから水を流して、奥で受け取る。

 この右はいわゆる奥で、女性が住むところ。風水の判断から、奥では井戸を掘ることができず、ここから水を流し、中で受け止める。互いに顔を合わせないように水路は曲がっている、短い短い水道であった。

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 奥に通じる通りは、このように狭く、大きな物を持ち出せないようになっていた。

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 前堂楼
 76代孔令貽と夫人陶氏などの説明だ。ここに住んでいた。
 普通の部屋に、夫人陶氏の写真がチラッと見えた。

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 出口から北へ抜ける。
 この右の庭園は、ここに嫁いだ乾隆帝の娘のために造られた。

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 銘座杏壇賓舘
 至聖廟と聖府の見学を終えて昼食である。正面には孔子像。
 この町のほとんどの人は孔子に関連した仕事をしている。

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 部屋の壁に書かれていた。かなり大きい。

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 曲阜は春秋時代は魯の国であった。始祖は周公旦(しゅうこうたん)。小さな国だが格式は高い。現在は魯は山東省を示す。その魯の地ビールである。
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2016年09月01日

至聖廟(孔子廟)

岡崎由美先生と行く
水滸伝の舞台と世界遺産「曲阜・泰山」を訪ねる旅 3
至聖廟(孔子廟)

 説明書や地図などは、孔廟とか孔子廟と書いてあるが、正しい名前は至聖廟である。
 ガイドの王さんは半分冗談で断定する。
「正式な名前は至聖廟です。あちこちに孔子廟があるが、それは全部偽物です」
 歴史は古い。孔子の死後二年(前478年)に始まる。漢の時代にかなり整え修復されている。その後も荒れたり修復したりを繰り返している。
 特に清時代に何度も修復され今の規模になった。紫禁城に次ぐほどの規模である。だから昔はと言っても、いつの頃か言わないと正確ではない。しかし、ここではそこまでは言及はしない。
 至聖廟の入り口に行く。

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 警察の車であるが、かわいい警官の絵。

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 曲阜城はこの城壁(牆)に囲まれた町のこと。

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 はっきりしないが簡略図、赤い塀の下に下馬の文字が見える。
城壁を入ると、図では下から順に、
金声玉振坊
紅墻、つまり赤い塀があって、欞(れい)星門これが正門。
太和元気坊
至誠廟坊
紅墻と聖時門
小さな掘があり
紅墻と弘道門
紅墻と大中門
同文門
奎文閣
大聖門 ここからは「廟中の廟」状態で、小さく塀で囲まれている。
香壇
大成殿

王「山東省はもっとも治安のよいところです。とくに曲阜は孔子の地元なので、ここでは思わず慎みます」

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 金声玉振坊
 これは、闕ではなく坊という。
普通は坊はこの中の地域を指すが、門も坊という。

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 ここで下馬して、正門にむかう。

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 欞星門は正門である。ここから紅墻に囲まれた地域に入る。
 乾隆19年に石柱鉄梁に変えた。文字も乾隆帝の手筆。以後、何かにつけて乾隆帝が出てくる。ここでいちいち言及しない。
 向こうに太和元気坊と至聖廟坊が見える。

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 至聖廟坊

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 聖時門、初めての本格的な門である。
 
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 聖時門から振り返る。
 域内の至る所に植えてある大木古木のほとんどは柏である。日本名は「このてがしわ」。檜に似る。松と並び「松柏」として常緑の象徴の木。日本では小さな園芸種をよく見かける。金平糖のような灰色の実がなる。

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 道の真ん中は孔家当主以外は歩いてはいけない。まるで皇帝なみ。
 もし皇帝が来たときは……聞きそびれた。

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 小さな橋の向こうに弘道門

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 どこまでも柏の林が続く。

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 この巨大な石碑も文化大革命で二つに折られてしまった。修復のあとが見える。
 下は贔屓(ひいき)、亀に似て重きを負うことを好む。竜の子である。この考え方は明の時代なので、この石碑は明以降となる。亀ならば古い時代と見当がつく。
 もっとも贔屓と亀はどこで見分けるのか。

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 奎文閣(けいぶんかく)
 1018年に造営され、1504年と1985年に大規模改修された。
 歴代の皇帝から下賜された経書などが収められている。
 左右には武器庫などがあったが焼失した。書庫だけが残った。

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 柏の古木、半分皮が剥がれて、竜を思わせる模様になっている。右の枯れた横木は鳳凰を思わせる。
 これも乾隆帝の伝説がある。

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 大聖門を内側から見る。この木は孔子のお手植えの樹と伝わる。もちろん代を重ねているだろう。
 ここからはもっとも初期の地域である。
 香壇や大成殿の前が弟子たちの学習の場所であった。もっとも当時はもっと粗末な建物である。

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 大成殿 中心となる建物である。紫禁城の太和殿に準ずる。

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 大成殿の中はこうして、紫禁城の太和殿を思わせる。

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 大成殿の前で、雅楽のような音楽とともに儀式が行われていたが、全く見えない。

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 碑林である。近くでみることが出来ない。傾いていて危険だ。

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 ポケモンGO ?

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 出口を闕里街から。ここから出て聖府(孔府)に向かった。
posted by たくせん(謫仙) at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする