2025年06月12日

北京 1994年

1994年当時の内容に不満があり、追記や訂正をしました。かなりの長文です。

1 北京を想う

 禹域(中国)の中心が商や殷をうろうろしていたころ、北京は国の外であった。
 春秋の時代、楚公は「楚は中国に非ず」と王を名乗った。淮河の流域から、長江の一帯を領有する超大国が国の外というのなら、国土のほとんどを万里の長城の北方に有する燕も国の外である。北京はこの燕の地にあり、別名の燕京はここからきている。
 秦の始皇帝によって中国は統一され、遼東半島まで支配がおよび、ようやく北京も国の中になるが、それでも長い間辺境の地であった。
 古代の中国語では中国とは国の中を意味したという。この国と城壁に囲まれた地域であり、都市国家であった。また文明のあるところであり、すなわち王の支配する地域である。

 念のため付け加えると、中国の神話では次のようになる。
 神(天)はこの世を治めるため、世界を四つに分けて、それぞれに自らの代理を当てて王とした。これを天命という。
 水の世界、ご存じの竜が王である。
 空の世界、王は鳳凰である。手塚治虫の火の鳥のモデルとなったが、その前に、日本人なら賞状などに書かれている尾の長い鳥を見たことがあるはずだ。十円銅貨の平等院の屋根にも二羽いる。
 地上を走る獣の世界、王は麒麟(きりん)である。知らない人もいるが、キリンビールのマークといえばわかるのではないか。
 そして人の世界、神(天)は特定の家系を子とし、人の世界の王(皇帝)とした。それゆえ王の別名を天子という。これは契約による養子である。もしこの天子が悪政をはたらけば、神は別の家系の人を天子とし王とする。これが革命(天命が革まる)である。

 北宋の末期、済南地域は水滸伝の舞台となるが、宋の領土はここまでで、その北側は、遼であり宋の外であった。
 そこは燕雲十六州と言われる。現在の河北省と山西省にまたがる地域で、万里の長城の南側、北方民族の領域に接する地帯だ。具体的には、北京と大同などの主要都市を含む地域を指す。
 宋は燕雲十六州の領有権を主張して奪還を計画していたが、現実には燕雲十六州は宋の建国のときから遼の支配下にあった。

 北宋は塞外民族の金によって滅ぶことになるが、はたして金を外国と意識していたかどうか。北京の北方が中国として意識されるのは、そこに興った満州族の清によって中国が占領されてからと聞いた。
 現在の中国は北京の北方を中国領としている。これは現政府は清の後を継いだという意識からであろうか、それとも満州族の清を故国に追い返し、ついでにその故国まで奪って領土に組み入れたと考えているのだろうか。そうでなければ、そこは満州族の住む外国と認識するはずだ。
 いやいや、この考え方は日本的であった。「文明のあるところすべて中国」の考え方からすれば、「現在、東北部は文明化されている。だから中国領である」と思っているかもしれない。もともと勢力の消長によって内になったり外になったりしている微妙な地域だ。
 金元清朝は塞外民族が中国を占領したのであるが、金は元が滅ぼし、元は草原に追い返された。しかし、清はいつの間にか逆に被征服民族の漢民族に飲み込まれ、中国の王朝となっている。
 清が中国の王朝と認められて以来、二百五十年近い支配を考えれば、東北部を中国領とすることは決して理不尽ではない。
 陳舜臣氏は、中国人が外国を意識したのは清朝末期であろうという。清朝末期に、国の外にも別な国(イギリス)があることを知って驚いたという。
 ともあれ、北京は別名を燕京というように、燕の中心であった。本来なら中国の東の外れという偏った位置にあるが、今では東北三省や内蒙古がその東北にあるため、地理的にもかたよらず、中国の首都として機能し、現在に至っている。

 前置きが長くなったが、わたしは今、初めて北京の地を踏むことになった。○○中国語学習会の会員による団体旅行であるが、自由時間もある。
 わたしがまず行きたいところは故宮博物院である。昔の紫禁城であり、皇帝の住居であると同時に政治の中心でもあった。
 わたしは台北の故宮博物院には何度も足を運んでいる。この素晴らしさは嫌気がさすほどである。
 豪華さについては嫌気がさす日本人は多い。それは、いかに民からの収奪が凄まじかったかを考えさせるからである。しかし、わたしは素晴らしさについても同じことを考えるのだ。
 わたしの一番好きなものは、玉でできた『きりぎりすのとまった白菜』である。もしこれを中心に数十点の展示なら、その美しさにみとれるだけだ。だが、あまりに大量の作品に囲まれていると、豪華さとは違う素晴らしさにさえ嫌気がさすのである。
 一点の作品に三代も四代もかかった話には気が重くなる。その奴隷は一生かかっても、自分の作品を見ることができなかったことになる。まして、一生を穴蔵で過ごし青銅器を作り続けた人には、ただただ悲惨としかいいようがない。これが商の時代の青銅器が最も優れている理由だが、他の宝物にはそのようなことがなかったのだろうか。
 しかし、わたしはそれでも故宮博物院を見ておきたいと思う。北京の故宮博物院は戦後の出土品が中心であると聞く。台北とはかなりイメージが違うのではないかと思う。なにより故宮全体が貴重な宝の一つである。
 付け加える。紫禁城にあるはずの宝物がなぜ台北にあるか。
 それは日中戦争の混乱から守るため、1933年上海に運んだ(13491箱)。そして南京をえて成都などに分散し、第二次大戦後(1948〜9)、国民党によって台湾に運び出されたのである(2972箱)。
 その理由として、『共産党の反乱による略奪から国民の財産を守るため』とある。共産党では『国民の財産を持ち逃げした』という。だが、現在はどうであろうか。台湾では民主化が進み、すでに独裁国家ではなくなっている。大陸も解放政策によって、内外の情報が国民に知られるようになっている。もはや『交戦中』ではない。どちらも世界の宝物として、双方の中国人がいつでも見られるようになるのも近いと思う。

 なお付け加えたい。現在では地域名の中国(地方)と国号の中国(略称)を混同することが多い。辛亥革命以前には中国という国はない。強いていえば秦(シナ)であろう。だから地域名はシナ、国号は宋や明などが正しい。ただし辛亥革命以後は「中国」が常識的な呼称と思う。
資料 中国文物図説 (台湾 国立故宮博物院)


2 旅行前夜

 中国の宝で思い出したが、先日、先生は中国の四大発明の話をした。火薬・羅針盤・紙・印刷を中国の四大発明というそうだ。しかし、わたしは中国の最大の発明は漢字という文字であると思う。ただ、文字を使いこなすには、相当の訓練が必要だ。
 ある日、会長が中国の小学生からの手紙をみせてくれた。
「小学生がよくこれだけの文を書くなあ」
 わたしはそのことに感心したが、先生はこういった。
「中国人の小学生は大体このくらいの文を書ける」
「日本人ではとても書けないよ」
「ほんと、日本人て文を書けない。うちの学生もなかなか書けない。わたしが日本語の文を直してやっている」
 周りにいた人たちは笑ってしまったが、さてわたしの二十歳前後ではどうだったか。おそらくこの学生たちを笑うことはできないはずだ。わたしがどうやら文章を書けるようになったのは、三十歳を過ぎたころではなかったか。今では、こうして日本語で文章を書けるのがうれしくてしかたがない。きっかけは陳舜臣氏である。
「わたしはうれしいです」
 この言葉は間違っているが、さて、正しい言葉はどうか。これはわたしの中学時代からの長い長い宿題であった。ある日、陳舜臣氏の文を読んで悟るところがあった。氏はよくですます調の文を書く。「うれしいんです」と、いとも簡単に答えを示してくれた。
 そう、それに気がつけば、いくらでも答えがあるではないか。
「わたしはうれしい」
「わたしはうれしいんです」
「わたしはうれしいのです」
「わたしはうれしい気持ちです」
「わたしはうれしいと思います」
 まだあるが、どれでもいい。あとは前後関係からどれかを選べばよい。こうしてわたしはなんとか日本語の文をつづれるようになったのである。このように、わたしは陳舜臣氏からたいへん影響を受けている。

 故宮博物院の次は万里の長城である。
「お上りさん」と笑われようとも、
「そんなところに行かなければ好漢になれないの」とくさされようとも、
「あんなつまらないもの」とけなされようとも、
「你(ni)没去、我不去」と先生にいわれようとも、
なんとからかわれようとも、万里の長城は外せない。
 秦の始皇帝が作ったといわれているが、戦国時代から営々と長い年月をかけて、ようやく築き上げられたものである。もちろんその後も何度も作り替えており、現在見られる長城は戦国時代のものではない。だが、日本では決して見ることのできないものである。日本の城は牙城であり、千年の都平安京も城壁はなかった。内裏でさえ庶民が出入りできる国では、万里の長城など愚の骨頂である。その長城を直に見れば、必ず感ずるところがあるだろう。
 わたしはテレビで長城を見るたびに、思い出す詩がある。それは次の涼州詞だ。

涼州詞 王翰    涼州詞  王翰(かん)

葡萄美酒夜光杯  葡萄の美酒 夜光の杯
欲飲琵琶馬上催  飲まんと欲すれば琵琶 馬上より催す
酔臥沙場君莫笑  酔うて沙場に臥(ふ)す 君笑うこと莫(なか)れ
古来征戦幾人回  古来征戦 幾人か回(かえ)る
 

 この詩は昔から、唐詩でも一二を争うほどの名詩といわれており、王翰はこの一首によって歴史に名をとどめたという。この詩は涼州詞の題ごとく、どこか西域のムードがあり、長城でも西方の崩れた長城を思わせる。
 この詩の沙場とは華北の言葉で戦場を意味する(らしい)。だから「沙場に臥す」という言葉は戦死の意味であるという。恐ろしさに耐えかねて酒を飲み、酔って戦場に出て戦死するけなげな兵士をうたった詩であるという。これが万里の長城のイメージと重なるのだ。しかし、この解釈は誤っているという説が強い。
 日本では沙場を砂漠と訳す例が多い。(例をあげれば、大岡信=折々のうた、駒田信二=漢詩百選)それゆえ、沙場に臥すは「砂漠で寝る」と訳されている。この解釈が正しいらしい。
 沙場は戦場と言う意味に使われることが多いが、全てがそうではない。この詩では砂漠の方がよいという説が強い。中国ではどう解釈していたのだろう。
 ただし、文革後の中国は伝統が途切れていることが多く、正しい解釈が伝わっていない可能性もある。

 なお、夜光杯とはガラス製の杯といわれてる。現在、石で作られた夜光杯といわれる杯があるが、はたして唐の時代の夜光杯と同じものなのであろうか。陳舜臣氏は断定をさけている。(登場人物の台詞として「これがあの夜光杯です」といっている)

 行きたいところの三番目は頤和園である。しかしそれ以外にも、北京動物園・北海公園・天壇公園・地壇公園・雍和宮・歴史博物館・民族文化宮・天安門など、行きたいところは多い。
 わたしは旅行をすると、まず書店に入って地図を買い、その地図を頼りに二本の足で歩きまわるのを定石としている。今回はすでに北京市の地図があるが、歩きまわるには広すぎる。
 ツアーとしては、天壇公園・故宮博物院・万里の長城・明の十三陵が入っており、それ以外はわたしたちで考えることになる。特定の曜日が休みであったり、八月いっぱい休館であったりして、計画には気を使う。もっとも二日間の自由時間ではそれほど見物できるわけではなく、結局行ってみてからの話となる。


3 故宮

 八月二十四日。猪瀬(男)会長が教えている太極拳の会の人たち四人とは上野と成田で合流し、一行十名であった。
 十時十五分、出発である‥‥、であるが、ジェット機が空港内を移動し、滑走路まで行くのに、なんと三十分ちかくかかった。
 それでも無事北京の空港に着いたが、そこでまた十分以上待ってようやく降りた。それから荷物が出るまでまた待つ。いつもながら飛行機はアプローチに時間がかかる。
 迎えのマイクロバスで市内に向かう。高速道路から普通の道に下りると、中国へ来たなと思う。ワクワクするのが半分。そしてじつは気が重いのが半分なのだ。これはちょっと説明がないと判らないだろう。
 北京市民の五パーセントの人は年収が日本円で一千万円以上あるという。だが、道の両側の家はとてもそんな雰囲気ではない。以前台湾に行ったときも感じたことなのであるが、メンテナンスがどこかおかしいのだ。はじめ家を建てたときは立派な家だったと思う。しかし、あそこが剥げ、ここが壊れたりしているうちにみすぼらしくなってくる。そしてそれがそのままなのだ。おそらく内部は、わたしのすまいよりきちんとしているのだろう。だが、見たところまるでスラムのようだ。これが故宮まで続いた。

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 この写真集は1996年の「西安満喫夏紀行」の故宮編と、1994年の写真が入っている。
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 城壁内の大きさ  南北960メートル  東西750メートル
 午門の南には端門その南には天安門がある。

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  天安門
 天安門広場をえて前門にいたる。
 さらに南には永定門があるというが、そこには行ったことがない。

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 午門  観光バスはこの門前まで入る。

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 午門を入ると金水橋をえて太和門である。

 そして故宮。
 広い。ただただ広い。
 当然、宮殿も広い。そしてそれが台の上の石畳であるとはいえ土間(?)なのだ。スラム街に囲まれた、豪華な土間。これが北京故宮の第一印象であった。こういう印象を受けるのは、床のないせいらしい。もっとも、彼の地の人は、もしかしたら、日本の家をテントのように頼りないと思っているかも知れない。
 そして入った珍宝館の宝物の少なさ。わたしは十数年前に東京で開かれた北京故宮博物院展を見たことがある。そのときは、この珍宝館よりはるかに素晴らしかった。もし田舎町の博物館なら、目を見張るに違いない。だがここは北京故宮博物院なのだ。(多すぎても、先に述べた台湾の故宮博物院のようになるが)
 第二の印象は樹木の少ないことである。樹木のない広大な石畳、人を拒絶する城壁、床のない巨大な建物。振り返ると、これらが廃墟のイメージとなる。

 さて、ガイドは二十三歳の好青年である。
 故宮の見学中のことであった。処々に巨大な水瓶がある。昔は防火用水をためておいたという。表面には引っ掻き傷が一面についていた。少し金メッキの跡も残っている。
「これは昔、フランスやイギリスなどの侵略軍が、表面の金を削り取っていった跡です。中国にとっては屈辱的なことですが、わたしたちのような若い世代に歴史を教えるために、こうして展示しています」
 このとき岩下さんが訊いた。
「それは、義和団の事件のときですか」
「そうです」
「それでは、日本もいたのではないのですか」
「‥‥、ええ‥‥、いました」
 猪瀬会長がひきとった。
「我々に気を使ってくれたんだよ」

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   太和門より 太和殿を望む
 ここに百官が整列した。映画でお馴染みの場所である。

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   太和殿は故宮の中心の建物である。
 ここで朝廷をひらく。
 
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   玉座

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   太和殿前
 鶴と亀の像がある。

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   太和殿の扉
 
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     中和殿
 一時的な控えの場所である。太和殿と保和殿の間のあずまやのようなイメージ。

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   上の写真の右側

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   保和殿
 ここで科挙の最終試験を行った。
(もっとも形だけである)

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   保和殿
 この屋根の上の動物の像の数が故宮の建物の格式を現す。
 ここより後ろは内廷となる。

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   保和殿の後ろ側
 右の方に珍宝館がある。

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   甍の後ろに見えるのは景山公園
 北京市内で最も高い処である。

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    九龍壁
 足の指が5本あるのが皇帝の象徴。4本ならば皇族である。

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   寧寿門を入って皇極殿
 85歳で引退した乾隆帝の居宮であった。
 この後ろが寧寿宮。

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 寧寿宮 漢字と満州文字が並んでいる。
 皇太后の居室であった。
 この後方に珍宝館がある。

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   ラストエンペラーが自転車に乗る練習をした所。
 ここを通って神武門に向かう。

 この晩、わたしたちは北京ダックを食べた。確かに美味であるが、喧伝されるほどではない。

追記
 調べたところではこの時の略奪に日本軍はいなかった。そのため市民に信用され、身の危険を感じた市民は、日本租界に逃げてきたほどである。
日本軍の対応
 略奪が横行する中で、日本軍は比較的規律正しく行動したとされています。特に、柴五郎中佐率いる日本軍は、清国人の保護に努め、徴発・押買・略奪を許さなかったと伝えられています。そのため、他の外国軍の管区から日本軍の管区へ移住する住民もいたとされます。この日本の態度は、欧米列強からも高く評価され、後の日英同盟締結の一因ともなりました。



4 万里の長城

 二十五日、北京郊外へ向かう。
 明の十三陵はさほどのことはなく、ニュースは、岡本さんが写真を撮って罰金を取られたことくらいか。
 万里の長城に行く前に昼食にしたが、ここでも例のメンテナンスの悪さを思う。
 ガイドは食堂は新しいところだといった。しかし、玄関の柱をうっかり触ると、反り返ったペンキが剥がれ落ちる。よく見ると半分以上は無残にも剥がれていた。いったいどれほどの時の経過があったのだろうか。中の土産物屋が豪華なのが、さらにそれを強調する。

 万里の長城、これは見る者を圧倒する。
 八達嶺は北京北方の天然の城である。その山々の、尾根から尾根へ頂から頂へ、延々と連なっているのだ。材料はその土地で産出される物を用いているという。八達嶺の長城は石の城である。
 ただし、前文と矛盾するようだが、意外に小さい。わたしでもその気になれば越えられそうだ。
 北方中国の戦いは騎馬戦である。長城は馬止めの柵と同じなのだ。戦士はいくら越えても、馬が越えられなければ、もはや戦力とはならないのだ。
 北京側からみたこの地域の入り口に、居庸関があった。昔、元軍が、孤立した金の北京城を睨んでここに入ったという。ここから先、元軍を阻む物は北京城の城壁しかない。北京を攻める格好の基地であることを実感する。
 長城の上は歩くことができる。右が女坂、左が男坂である。わたしは岡本さんと岩下さんの三人で男坂を登る。幅二間ほどの半分階段半分急坂の道を十五分で最初の頂に着く。そこから先は今までの雑踏が嘘のように静かで風が心地よい。むかいの山は女坂である。芋を洗うような人ごみが見えた。
 記念写真を撮る。中国語が必要なときは岡本さんに頼っていたが、このときもシヤッターを押すのを頼んだのは岡本さんである。
「エクスキューズミィ‥‥‥」
 長城は月から見えるただ一つの建造物という。そう思わせる迫力があるが、実際には砂漠に溶け込んで見えないのではないか。現在では三分の一以上が消失している。しかも保存状態は悪い。
 本を一冊買う。


5 老舎茶館

 この晩、わたしたちは五人で老舎茶館に入った。お茶を飲みながら演芸を楽しむところだ。寄席を思えばよい。
 長城の帰りのバスの中でガイドはいった。
「老舎茶館は日本人は行かないところです。知らないので。中国人も行かないところです。入場料が高いので。一流の芸人が義務として出演しています」
 前門付近で老舎茶館を探してうろうろしていたところ、乞食の親子にまとわりつかれた。特に子供が岩下さんの手を握って離さないのだ。ようやくふりほどいたが、子供も必死であろう。
 六時半ごろホテルを出て七時二十分にようやく老舎茶館に着く。ビルの三階である。演芸時間は七時四十分から九時二十分まで、出し物は京劇が目玉らしい。
 テーブルによって料金が異なる。わたしたちは前から二番目の、料金が一人百元(1元=約12円)のテーブルについた。まもなく大勢の客が入ってきて、いっばいになる。わたしたちはちょうどよい時間に来たようだ。
 お茶を飲みお菓子を食べながら芸を見る。
 まず、京劇のおはやしである。そしてそれが定位地に移動すると、本番の京劇が始まった。若い女性の独り舞台である。ほとんどわからない。わたしは「中国おてもやん」と題をつけた。傍らに歌詞が映し出されているが、かなり早い。それをチラチラ見ながらの観劇である。今でも覚えている文がある。毎月のことを歌って、九月のとき「九月里九是重陽」と甲高い声で歌った。中国人も聞いているだけでは意味がわからないらしい。
 歌を忘れて困ったり(もちろん演出である)、コミカルに動いたりして、わからなくても楽しめた。
 この後、三組は「歌う漫談」とでもいおうか。年配の女性が歌い、男性が胡弓らしいもので伴奏する。ときどき男性も歌う。男性が歌ったときドッと笑い声がおこる。こんな感じであろうか。
「♪ あんたの浮気性にはあきれかえってしまうわ。どうしていつもあんなくだらない女に引っ掛かるのかしら。どうせ浮気をするのなら、もう少しましなのを選んだらどうなのよ。まったく。‥‥‥中略‥‥‥‥。こんなにひどい浮気性だとは思わなかったわ。どんな女でもかまわないんだから」
「♪ だからお前と結婚するはめになったんや」
  笑い。
「♪ ゆうべはいったい何を食べたのよ。毎日まいにち宮廷料理だ、日本料理だ、フランス料理だ、お客様の奢りだ、‥‥‥中略‥‥‥。グルメだかなんだか知らないが、ろくな舌も持ってないくせに。すこしは自分の懐具合を考えたらどうなのよ」
「♪ お前の料理を食う者の身にもなってくれ」
  笑い。
 ともかく、中国語が判らないことには話にならないのであった。
 棒をくわえて歌を歌うのは、腹話術の変形か。
 これらの女声はすべて甲高い声である。
 奇術はつまらなかった。わたしはアダチ竜光の奇術を何度も見ている。それに比べるとまるで素人である。
 物まね。これは圧巻である。小鳥の声・馬の走り・自動車の運転・犬のほえ声とその喧嘩。物まねだけで芸になっており、漫談不要であった。
 トリは漫才。ボケがほとんどしゃべり、つっこみはあいのてを入れるだけだ。大夫と才蔵の関係を思わせる。
 ときどき、猪瀬(女)さんらしき笑い声が聞こえる。
 普通語と上海語、それに少し北京語も入れて、お互い通じないための失敗談ないし滑稽談をしゃべっていたが、大変おもしろいらしく、一部の客はわいていた。しかし、これも言葉が判らなくては話にならない。どうやら中国人でも判らない人がいるようだ。わたしたちの斜め前に座った白人男性もつまらなそうな顔をしていた。
 猪瀬(男)「北京語と普通話(プートンホォア)が通じないといっていたな」
 猪瀬(女)「上海語が判らない人にはおもしろくないみたい」
 わたしはガイドの言葉を思い出した。
「老舎茶館は一流の芸人が義務として出演しています」
 どのような義務か判らないが、奇術以外はわたしも一流の芸人だと思う。ただマイクの使い方が下手なのが気になった。スピーカーを通すと声が大きすぎて割れてしまうのだ。本来マイクなどないところでやる芸なので、声が大きいのは必要条件だが、今後はマイク技術をマスターしないと一流の芸人とはいえなくなるのではなかろうか。
 日本の寄席との差。お茶や菓子が出ること、言葉の判らない客人も入ること、前座が出ないこと。
(芸人に上手も下手もなかりけり 行く先々の水に合わねば)

 帰り道、眼鏡を落としてしまった。そろそろ替えどきだったので、粗末に扱っていたためだ。しかし、なければ仕事に困る。
地下道で本を一冊買った。


6 頤和園

 三日目は六人で頤和園に行った。土屋さんは世界公園に行き、猪瀬(女)さんも別行動である。
 この日も相変わらず暑い。頤和園は昆明湖も入れると大変な広さだ。
 入場券売り場で十元を出していう。
「一張」
 しかし、切符売り場のおばさんは隣の窓口に行くよう指示を出す。隣では三十五元だといわれた。外国人専用で、なんと三十五元なのであった。たいした金額ではないが、気分が壊れる。
 まず昆明湖の縁に出た。池はかなり大きい。右に折れ、池に沿った長廊を歩く。この長廊の両側の欄間には絵が画かれている。関羽が碁を打ちながら腕を手術させている図・首枷をはめた囚人の図・四季の草花・小鳥・仙人など題材は多い。色も鮮やかである。長廊の長さは七百二十八メートルもあるため、まともに見ていては首が痛くなってしまう。この長廊半ばの右手の山の上に仏香閣がある。
 長廊をつきあたりまで行き、そこから遊覧船に乗って南湖島まで往復した。船から見ると仏香閣がこの園の中心のようだ。この仏香閣に登るのが一仕事であった。それでも万里の長城に比べれば楽だが‥‥‥。
 わたしたちは長廊を往復したが、山の上や裏側にも見どころはあるようだ。
『天まで届く古木、清流はくねくねと続き、格別な趣がある。諧趣園は園中の園といわれている』
 なお、見なかったが、中国を救った耶律楚材の墓も入口の近くにある。
 耶律楚材は契丹(きったん)族の出身で、中書令(中国では宰相に相当)になった。しかし実際は契丹の中書令は書記官だった。

 さて、一行のなかに一人のうら若き乙女がいた。S小姐と申し上げる。
 このS小姐は些細なことでも感激し、ニコニコして右手でVマークをつくる。わたしが一冊本を買ったところ、ニコニコして「やったわね」と指を二十度くらいに広げてVマークを出した。切符を買うときや、船に乗るときなど、本当にうれしそうだ。
 このS小姐がトイレから出てきて、これ以上はないというニコニコ顔で三十度くらいのVマークをつくった。それほど我慢をしていたのかと思ったが、そうはいえず、お世辞にいった。
「どうした? あなたの中国語が通じた?」
「ううん、料金が二角だったの」
 もう一人、U小姐はS小姐とは対照的にいつも沈着冷静である。ところが思わぬとき、普通の女であることが判ってしまった。
 無料トイレに入ったときである。わたしたちが先に出て表で待っていると、血相を変えて飛び出してきた。強烈なアンモニアの匂いで気持ちが悪くなり、吐きそうになったという。有料トイレまで我慢してもらうことになった。そして他の女性はなにごともなかったように出てきたのである。

 この後、二台のタクシーで北京動物園まで行った。目的はパンダである。ここで食事をする予定であったが、適当なところがなく、動物園に入り、そこでビスケットなどを買い、昼食の代わりとする。
 パンダ舎に入るとパンダは昼寝中である。が、その寝相の悪い(?)こと。わたしにはとても口では説明できない。外にも三頭いた。写真になったのは少し小さめの一頭だけである。
 動物園の外に出てから、金絲猴がここにいるのに気がついた。これは見ておきたかった。


7 景山公園

 岡本さんと岩下さんとわたしの三人で、動物園の前からタクシーに乗り、景山公園に行った。
 タクシーは裏通りを通って公園の門前に着いた。しかし、どこかおかしい。道の左側のはずだが、右側についた。
 また山登りである。頂上の建物につくと風がここちよく吹いている。見下ろせば故宮博物院が‥‥‥、あれ‥‥‥。眼下に大きな門、そして通りの両側に楼閣が並び‥‥‥、通りなんてあったかしら? そして突き当たりにもおおきな楼閣があり、左手には大きな池がある。ここから見えるのは北海公園の池のはずだが。
 建物を半周すると、故宮博物院の広大な屋根の群れが見えた。ようやく裏側から登ったことに気づいた。まだ、日の照っている時間であるが、全体がかすんで見える。腰を下ろしてこの絶景を眺めた。わたしにとって、このときが今回の旅行のハイライトであった。
 故宮の巨大さを実感する。手前の神武門からかすむ天安門まで、左右の角楼、文字どおり数え切れない重なる屋根、そして意外なことにかなりの樹木が見える。故宮は砂漠ではなかったのだ。
 この景山公園は石炭の山だという説があった。いざ、北京が孤立したとき、燃料に困らないように備えたという。しかし、どうも眉唾のようだ。隣に見える巨大な池を作り、そこを掘った土で山を作ったのが真相らしい。
 下山しようとしたところ、そこで写真サービスをやっている人がいた。西遊記の三人の従者がいて、観光客が玄奘三蔵となって記念写真を撮るのである。キャストがピッタリで笑ってしまう。特に猪八戒は腹が膨れてイメージどおりなのだ。
 笑いながら昨日買った本を思い出す。こんな話があった。

待ち合わせをして、先に来た男の子が木の陰に隠れる。女の子が来たとき、男の子は両手で女の子の目を覆った。
「ボクはだーれーだ。三回言っても当たらないと、キスをしてしまうぞ」
そんなことをされてはオヨメに行けなくなる、こともないだろうが、女の子は必死で考えた。
「あなたは姜太公? 猛張飛? では唐三蔵?」

 唐三蔵は一人ではないが、この場合は玄奘三蔵に違いない。孫悟空ではなく唐三蔵、諸葛孔明ではなく張飛、文王でも周公でもなく姜太公。この人選がおかしい。

 ゆっくりと下山した。途中なかなかに枝振りのよい木がある。どうせ首を吊るなら、ここで吊りたいと思う。昔、同じことを考えた皇帝がいた。考えたばかりでなく実行した。そばにそのことを書いた案内板が立っている。
 岩下さんの説明によれば、明朝の最後の皇帝は、敵に攻め込まれて、従者一人を従えてここまで逃げてきたが、その従者が様子をみるため下に行っている間に、ここで首を吊って自殺してしまったらしい。最期の判らない最初にして最後の皇帝であるという。

 一度ホテルに帰り、他の人たちとも顔をあわせた。岡本さんが言った。
「天安門に行きませんか」
「ええ」「行きましょう」
「わたしが天安門の上にいるから、誰か広場から写真を撮ってくれませんか」
 当然ながら、みんな用事を思い出した。


8 晋陽飯荘と経済

 26日の夜は、再度北京ダックを食べた。
 念のため付け加えると、いろいろな料理が出て、最後に北京ダックが出る。ローストチキンのような皮を、小さく切って食べやすくしてある。これを、ネギのようなものを千切りのようにして醤油のようなタレをつけ、ギョウザの皮のようなものでくるみ、小さな手巻き寿司のような形にして、手でつまんで食べるのだ。
 ‥‥ような‥‥ような‥‥が続くが、つまり、わたしのような知識のない者が料理を説明するのが、そもそも無理なようなのである。
 土屋さんの仕事関係の方で北京に駐在している商社マンと、土屋さんの元中国語の先生の両親による接待を受けた。
 ラクダの足やサソリなど、二度と食べることはないかも知れない。
 サソリは、小さな饅頭のようなものの上に‥‥‥。

 商社マンが北京飯店まで迎えに来てくれて、タクシーに分乗して餐庁に向かう。かなり遠かった。
「北京はどうですか」
「ずいぶん、経済発展しているようですね。なんでも北京の五パーセントの人は一千万円以上の収入があると聞きました」
「そうなんですよ。ひとつき百万とか二百万とか、日本人が聞いてもびっくりするような収入の人がいくらでもいます。でも、残りの九十パーセントの人は一万円にもならないのです」
 中国ではそれでも生活できるのだ。家賃は無料に近く、野菜など数十円で山のように買える。ただ、その野菜を供給する農家は、当然、高収入は望めない。高収入の人は結局商人なのである。
「なにしろ、こちらでは倒産がありませんからね」
「公共企業だから?」
「いえいえ、私企業でも。払えなくなると、お金がないから払えない、で終わりです。だから中国で商売をするのは難しいんです」
 倒産とは、振り出した手形を落とせなく(支払えなく)なり、銀行取引を停止されることだから、たしかに倒産はないだろう。そういうことを平気でできる人だから、高収入を得られるのかと、ちょっと複雑な気持ちになる。
「この辺り、古い家が多いですねえ。取り壊して建て替えるようなことはしないのですか」
「とてもそこまで手が回りません。とにかく家が足りないので、新しい家を建てるのでせいいっばいですよ」

 晋陽飯荘は間口が一間半ほどのめだたない構えだ。しかし、入り口にあるその名前をかいた額(というのかな)は郭沫若の筆になる見事なものだ。彼もよく利用した店のようだ。
 鰻の寝床のような家で、奥が広い。北京ビールを飲みながら、見たこともない料理を食べる。メニューを見てなんとか見当をつける。今回の旅行ではよくビールを飲むが、ビールの値段は水と同じくらいである。味道鮮美。

 ホテルに帰ってから、王府井を散歩するが、ただの道であった。眼鏡を買う。百三十元(約千六百円)也。
 夜、土屋さんがいただいたスイカをみんなで食べる。かなり甘い。
 わたしはなんと餐庁の名を忘れてしまった。
「岡本さん、名前なんといったかしら、なんとか飯館」
「晋陽飯荘、飯館ではなく飯荘よ」
「荘だったのか」
「そうだったのよ」


9 雍和宮など

 二十七日、朝食を済ませてから、学習会の六人で前門に行く。地下鉄に乗って雍和宮に行く予定なのである。
 地下鉄の切符売り場は混んでいた。しかし、切符の買い方がそれに輪をかけた。誰も並びはしない。小さな窓口に四五人が五角をもって手をつっこむ。駅員はお金を取って切符を渡す。最初は経験である。しかし、おそらく二三回は我慢できても、その後は耐えられないだろう。できればタクシーで次の駅まで行き、そこから乗りたい。
 通勤ばかりでなく、地下鉄見学のためにお上りさんも乗り込み、一日中混んでいるそうだ。しかも、前門駅は故宮見学の下車駅だ。
 雍和宮の駅はほとんど人がいなかった。地上に出るとそこが雍和宮だが、塀に沿って入り口までかなり歩く。
 門を入ってから建物まで、短いながら両側に木を植えてある。建物はかなり派手な色彩であるが、掃き清められた感じがして、落ち着いた雰囲気でもある。香が焚かれ、僧侶もおり、お賽銭をあげる人も多く、信仰は今も生きている。
 雍和宮はラマ教寺院だ。建物は多い。一番奥の建物は黄金の大仏が立っている。顔は天井より高く外の光が当たる。
 猪瀬(女)さんが言った。
「文革のときよく壊されなかったわね。信者が守ったのかしら」
「ラマ教従は信仰心が強いから、命懸けで守ったのかもしれないな」
 建物は中国的でも、どこか日本的な雰囲気のするところであった。
 ここで猪瀬会長と別れる。

 近くの首都博物館へ行く。道の両側は昔風の家が並ぶ。大きな塀に囲まれ、一族郎党が住む。ちょっと近寄り難い雰囲気である。博物館はもと孔子廟であった。
 入ったとき、古楽器の演奏をしていた。こんな音がしますという程度だ。『へ』の字型をした石板は澄んだ音がする。
 釣り鐘を並べた楽器、琴瑟など、わたしはたいへん興味を持って見た。その他も、もし本物ならかなりのものと思うが、残念ながら、みな埃を被り、近寄って見ることもできず、博物館の名に値しない。
 岩下さんの希望で、わたしたちもその指にとまって、見学に行ったのであるが、本人はあてが外れたようだ。わたしも予想とはだいぶ違った。それでも、はじめての人には見るだけの価値があると思う。

 昼食は北海公園で宮廷料理を食べた。
 服務小姐がメニューを広げて猪瀬(女)さんに渡す。岡本さんも覗く。緊張の色が走る。他のページをめくる。
「一人五百元なのでびっくりした」
 服務小姐は一人五百元のところを広げて渡してくれたが、百元・百五十元・二百元などいろいろあった。
「二百元くらいでどうかしら」
 日本円で二千四百円ならよかろう。
 岩下さんが言った。
「杏仁豆腐があるので百五十元のにしよう」
 またもや、みな岩下さんの指にとまった。
 あまり油を使わず、味は日本料理のようで食べやすい。北京ビールを飲みながら食べる。
 服務小姐は宮廷的服装でかわいい。沓は下がポックリのような形をしている。あたまには冠を戴き、ゆっくり歩く。どのような身分の人をどの程度正確に模しているのだろうか。
 話は飛ぶが、この夜北京飯店で日本料理を食べた。この服務小姐の服装がなぜか違和感があるのだ。左前でもないし‥‥‥。女性陣が解説してくれた。
「あの着物は上下が別々で、帯は子供用だから。五六歳くらいまであのような結び方をするでしょう。それにあの歩き方では」
 それを大人が着たら当然違和感がある。なかにきちんと着物を着ている人がいたが、その人が一言言うと、小姐たちはサッと反応した。

 昼食後、一人でタクシーに乗り、天安門に行く。目的は門前の博物館である。しかしタクシーは午門に着いた。天安門はここからの方が行きやすいという。この日は晴れていたので午門が輝いていた。天安門はすぐ近くだ。
 中国革命歴史博物館は世界自然科学博覧会と称していた。十元で入ってみると子供の遊び場であった。隣の1元の写真展を見た。
 天安門は中国人十元・外国人三十元である。切符売り場で百元を出し、「一個」と声を出すと、九十元のお釣りをくれた。腹の中でVマークを出しながら、門に入る門に行くと、服務員に「荷物だめ」と日本語で言われてしまった。荷物を預け、天安門に上った。
 この後、始皇帝の兵馬俑八体と現地の模型を見る。
 この晩一人で東安夜市を見た。屋台が並び、すさまじい迫力だ。猪瀬(女)さんはここで食べたことがあると言っていたが、わたしにはとても手が出ない。
 かなり前のことだが、台湾で食べて下痢をおこし、ホテルの服務小姐(五十歳くらい)に、日本人は絶対に屋台の料理は食べてはいけませんと、言われたことを思い出した。おおげさであろうが、日本人は必ず下痢になると言う。
 この夜もスイカを食べた。


10 祝福

 帰国の日、マイクロバスに乗って天壇公園に向かう。その後、昼食をとり、空港に向かうことになる。
 ガイドは、日本語を外語学院で学んだだけで、日本に行ったことはないと言うが、たいへんうまい。「お久しぶりです」などと冗談を言う。こちらも負けずに「好久没見」と言った。
 なにしろ、最初に言われたことは「道を横断するとき、何が一番必要か」で、答えは「勇気」である。この冗談が北京の交通事情を何よりも物語っている。
 自動車が多く、特に黄色の車が目につく。黄色の車、すなわちタクシーである。最低料金のミィエンティ(面的=食パンのようなタクシー)は十キロメートル以内は十元(1元=約12円)である。これには1元の表示がある。1.6元なら中級、2元なら高級車だ。
 タクシー以外の庶民の足はトローリーバスである。二台のバスをつなげたようだ。
 さらに自転車も多い。そして大通り以外には専用道路はない。もっとも、日本は大通りにも自転車専用道路はなく、歩道を自転車が通る、とんでもない交通事情の国なのだ。

 天壇公園も広い。もとは皇帝が天を祀るところである。皇帝は天子であり、天を祀るのは最も重要な仕事なのである。公園内の建物のデザインは清朝的であった。円を基調とし、色なら藍、屋根の瓦も放射状である。屋内の天井などに描かれた模様は色鮮やかである。
 この公園を通り抜けるように歩いたが、まわりに樹が多く、精神的には落ち着ける。

 朝早く、会長たち五人は太極拳をやるためにこの公園に来ている。ゆうべスイカを食べながら、S小姐は会長にハッパをかけていた。
「先生、あしたは四時起きよ。中国人に太極拳を教えるのが今回の旅行の目的なんですからね」
「早すぎるよー。六時ごろでいいじゃないか」
「ダメ、絶対に四時起きね」
 四時には起きなかったようだが、それでも朝食までに戻ってきた。例のごとくニコニコしながら、二十六度くらいのVマークを出した。

 空港に向かい、途中で食事をする。このとき隣の部屋で結婚披露宴が行われていた。これも何かの縁であろう。わたしたちも服務小姐に相談し、十元づつ出し合って百元を包んだ。
「百元では少なくないだろうか」
「いいえ、決して少なくありません」
 そう言って袋を持ってきてくれた。日本語がほぼ話せるこの小姐のサービスは満点であった。新郎新婦がわたしたちのテーブルに来て乾杯した。記念写真を撮り、わたしたちは飴玉を貰う。こんなハプニンクがあったことも、今回の旅行をしめくくるよい思い出となることだろう。
posted by たくせん(謫仙) at 16:36| Comment(0) | 北京 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年05月05日

桃花島 1 往路

2006-05-04記
2024追記

 06年3月、武侠迷(ファン)が集まって、射G英雄伝の撮影現場桃花島に行くことになった。男4人女5人の計9人である。 関西の八雲幇主が旅行社と交渉して、航空券やホテル(飯店)を手配してくれた。えまのさんが旅程を試作した。
 わたしはその計画に乗ってついていくだけだが、わたしには初対面の人ばかり。途中で合流した魯達さんが中国語堪能であった。
18日 関西空港から上海まで
19日 桃花島まで
20日 桃花島
21日 桃花島から上海
22日 帰国

 桃花島は人口が2万人ほどだが、いわゆる田舎であり、真っ直ぐには行けない。
行きは
関西空港−上海−寧波    飛行機・タクシー・タクシー・飛行機
寧波−舟山−沈家門−桃花島 タクシー・船・タクシー・船・タクシーを乗り継ぐ
帰りは
桃花島−沈家門−普陀山空港 タクシー・船・タクシー
普陀山−上海−関西空港   飛行機・タクシー・タクシー・飛行機

 同行者は八雲幇主・ユキさん・えまのさん・進歩反刺さん・大兎さん・じぇどさん・シュウジャンさん、途中で合流した魯達さん。
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 黒い点線が往路、赤い点線が復路である。

 上海(浦東)空港はまだ新しい。現地時間の午後3時半ごろに到着した。そこで成田から来るシュウジャンさんを一時間以上待つが会えず、7人でホテルに向かった。タクシー乗り場で並んで、えまのさんが係員に「七個人」と言うと、道を横切り大型タクシーの乗り場に案内された。マイクロバスだが、それに乗り込んで漢口路の揚子飯店に向かう。30分ほどだったか。通常は一時間ほどかかるはず。高速道路を降りてからの渋滞で時間がかかるのだ。
 この時、タクシーの運転手に次の朝の予約をした。その運転手は休みだが代わりをよこすと言っていた。
 ホテルでチェックインをしているとシュウジャンさんが到着した。
 ホテルは新装したらしく、見た目は部屋はピカピカ。水回りも「おおー」と声が出るところ。ところがトイレの蓋や便座が外れていたりする(^_^)。トイレの扉は鍵がない。手を離すと半開き状態。気にするほどではありませんが。
 部屋にはパソコンがあり、中国語・英語・日本語のウインドウズがでる。使おうとしたらネットに繋がらない。受付に申し出なければならないのであった。
 部屋に荷物を置いて、近くの南京東路を散歩。街は観光用にライトアップされていて映える。エネルギー問題を考えると…難しい。道は歩行者天国のようだが、トロッコ状の遊園地を走るようなバスが通る。
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 その日の夕食は南京東路のレストラン。幇主が料理を選んだ。もっとも去年も同じ店で食べたという。そのうちの4品、どれも美味しかったが、右下のが好評だった。東坡肉をおこわでくるんだようだ。三角は炒飯、蒸籠の中は小龍包。
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 しかし、料理が一品出るたびに全員がカメラを向けるとは(^_^)。脇からどう見えるんだろう、なんてことは考えないのが中国流ですヨネ。

 このあとホテルの近くのスーパーで、翌朝の食料を買い込む。朝が早いため、レストランの朝食では間に合わないのだ。
 わたしは食パンと缶コーヒーだけ。わたしは小銭を持っていたが、100元札でおつりをもらう人が続いて、レジの係りに睨まれたとか。なおお金を投げつけるのは相変わらず。
 男三人で一つの部屋に入ったが、わたしは真っ先に寝込んでしまった。

 19日は7時に出発、前日予約しておいたタクシーが時間前に来て待っていてくれた。
 ラッシュになる前に高速に乗ることができたので、15分ほどで虹橋空港に到着できた。これも40分程度を予定していたのだ。
 飛行機で寧波まで。この町は貿易港として、歴史に名高い。港も一カ所ではない。
 ここから桃花島に行く船便もあるのだが、早朝と夕方の2便しかないらしく利用できない。そのためタクシー(一時間ほど)で白峰の港まで行く。そこから舟山に向かう。11.5元。
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 白峰の桟橋

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 景色を楽しみながら食事などをする船内。
 海の色は長江の濁流のような色をしている。長江や銭塘江の土砂がここまで広がっているのではないか。

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 船内で食べた肉団子のスープ。結局この日の昼食はこれだけになってしまった(^_^)。
 ここで舟山を中心とした桃花島の地図を買う、3元。

 舟山は舟山群島の中心地でかなり大きい。隣には有名な普陀山がある。
 舟山からタクシーに乗り別な港の沈家門まで行く。
 タクシーの運転手が隣のタクシーに大声で「タホダ」と叫んでいたが「タオホアダオ(桃花島)」と言っていたらしい。
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 沈家門で魯達さんが待っていた。魯達さんは現在留学中、中国語が流暢で、南方なまりも聞き取れるため、これからはいろいろなことは魯達さんに任せて、というか頼り切りになってしまうm(__)m。

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 桃花島に渡る船は桃花島・金庸・神侶(快速)とあるのだが、神侶は修理中であった。
 我々は13時発の桃花島号に乗り込む。14.5元。
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 船では外が見えない。もっとも二階の船室なら見える。そこは16.5元。
 わずか2元(30円)の差なら二階に乗りそうなものだが、誰も二階に行こうとは言わない(^_^)。
 船室にはテレビがあって、武侠ドラマを映している。カンフーハッスルの小龍女と楊過の二人が出てくるが、同じドラマの別シリーズか。ただし神G侠侶の二人とは名が同じでも似ても似つかぬ(^_^)。
 魯達さんがひまわりの種を配った。蒔くのではない食べるのだ。小さくて、苦労して殻を剥いたにしては食べる量は少ないが、けっこう面白い。
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 そしてついに桃花島に上陸。この港の設備は新しくできたばかり。

♪♪ 思えば遠くへ来たもんだ

桃花島 2 へ続く   続きを読む
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2024年05月04日

桃花島 2 桃花塞

2006-05-04記
2024 追記
 
説明だけでは判りにくいと思うので、桃花島の地図を入れます。
 地図の上の方に上陸した港があります。
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 バスに乗り桃花塞に行く。
 このバスはタクシーとバスを兼ねている。
 停まっているバスに行き先を告げるとそこへ行ってくれる。ところが途中でお客を拾って下ろす。
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 全てのバスにこの絵が描かれている。
 左は射G英雄伝の黄蓉と郭靖、黄蓉は桃花島主黄薬師の一人娘である。この時は16歳くらい。金庸世界の中で最も好まれるカップルであろう。
 右は神G侠侶の小龍女と楊過。神G侠侶は放映が始まったばかり。二人は黄蓉郭靖の子どもの世代である。このカップルは金庸世界では最も壮絶な愛を貫く。
 小龍女に劉亦菲を当てただけでもヒットが約束されたといえよう。劉亦菲は今年(06)20歳になる。世間知らずだが強烈な意志を持つ美人のイメージにぴったり。天龍八部の王語嫣を演じた。

 いよいよ桃花塞に入る。このあたりを桃花峪景区といい、桃花塞休閑村として利用している。入園料35元。
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 門柱には、右に桃花影裏飛神劍、左に碧海潮生吹玉蕭とある。
 桃花影裏飛神劍は桃花島(黄薬師)の剣技の名である。碧海潮生吹玉蕭は碧海潮生での潮の響きをいうのか。これについては碧海潮生のところで詳しくいう。黄薬師は笛の名手でもある。
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 門から入るとこの道を通って、峪に降りて行く。この右側には自動車道があり、帰りはそこを通った。なにしろ荷物が重い。
 受付で部屋割りをもらう。

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 園内にこのような小さな建物が続いている。これは「蓉児苑」であるが、わたしたち男三人は「欧陽府」であった。毒物じじいの部屋だ。
 こうして金庸小説の登場人物の名が使われ、それに苑・府・閣・屋・寓・院・軒・舎・室がつく。その部屋の形を表すらしい。ちなみに閣が一番大きいようだ。
 それぞれ自分の部屋に荷物を置いて、園内の見物である。

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 まず目につくのが小高いところにある「試剣亭」である。これは大河ドラマの撮影に使われた。ここを目指して歩き出す。
 その前に絶景、弾指峰を見る。
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 驚くほどに高い。こここそ、この地域の最高の絶景であろう。黄薬師はここで修行したという。英語の説明文にはMr Wangと書かれていたが、Huang であろう。 uが先頭にくるとWと書く。

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 試剣亭に至る。

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 園内が一望できる。真ん中あたりに見える建物群が「黄薬師山庄」。向こうの丘の上に目立つのが「積翠亭」、見にくいがその左が園の入り口。

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黄薬師山庄のうち蓉児房。房は部屋のこと。

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黄薬師山庄の文字は簡体字で書かれている(^_^)。
これが門になり、奥に見えるのが書斎である。

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 手前に八角のあずまや八卦堂があり、その左後ろが門、その奥が書斎、右に曲がって歩いていくと正面に見えるのが2階建ての黄薬師の住まい、左(写真では右)のここからは横壁が見えるのが黄蓉の住まい蓉児房である。
 設定では大勢の召使いがいるはずだが、その部屋はない。
 次の日に行った射雕英雄伝旅游城にも二人の住まいがあり、撮影にはそちらが使われた。そちらには台所もある。

 ここは欧陽克が求婚に来たとき、黄蓉を求めて郭靖と争ったあと、話し合いの時に使われている。八卦堂で話があり、そのバックにはこの黄薬師山庄の全体が写っている。また反対側から見た海のシーンもある。その前に部屋の中のシーンがあるが、ここの建物を使ったようだ。
 なおその前に黄蓉が郭靖と島に戻ったとき、黄蓉が寝泊まりしたり黄薬師と会ったりするのは射雕英雄伝旅游城の黄薬師山庄を使っている。建物の様子がまるで違う。特にその前の道や植物がことなり、山の中腹であった。こちらは見たとおりの平地である。

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 海岸を歩いているとこんな奇岩があった。
左上「碧海潮生」(へきかいちょうせい)門のところでちょっと触れた。
右上「含羞観音」バンフレットから取ったので色合いがおかしい。
左下「東海神珠」近くに龍女伝説がある。
右下「煉珠洞」 名前負け?

 碧海潮生は潮が引いているが、満ちてくると中の二本の柱のような岩の下の部分が隠れる。このあたりの波の音が、玉蕭を吹いているように聞こえるのであろうか。
 黄薬師は当然だが剣の名手で、その剣技は「桃花影裏飛神剣」という。しかし弟子たちには伝えたものの、自分は剣を持たず、常に長い縦笛を持ち歩く。それを剣の代わりにして適当にあしらうのだが、実は笛そのものが武器。笛の音で相手を倒す。ただし、西毒(は琴の音が武器だが、得意は毒物、故に毒物じじいという)など高手には通じない。
 その笛の曲の中に「碧海潮生曲」というのがあり、これは聞くものに淫欲を起こさせ苦しめる。奇岩「碧海潮生」を見て納得しました(^_^)。わたしのような凡人は曲を聴かずとも淫欲を起こしそう。
 なお郭靖は曲を聞いても苦しまない。子どもだから。しかし間もなく18歳だぞ(^_^)。
 含羞観音は、岩に挟まれた、人一人が入れるくらいの狭いところ。その奥に縦に細長く観音像が見えるというのだが、名前から考えて…、そばに煉珠も有ることだし…。思わず横を向いてしまう(^_^)。

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 積翠亭、ここも撮影に使われている。黄蓉が旅行中の話を黄薬師にしたのはここ。この屋根の上で郭靖と毒物じじいが争い、欧陽克と洪七公が争った。
 この島は黄薬師たちだけが住んでいたのであり、奇門五行の術によって仕掛けが施され、樹木は諸葛孔明の八卦陣に植えられ、余人にはうかがい知れないところである。周伯通(老頑童)が閉じこめられているわけではないのに、洞窟から出られなのはそのためである。老頑童の元恋人が長年高等数学の勉強をしているのも、この島に入って老頑童を助け出すためであった。
 そんな島でいちいち名前など書く必要はないと思うが、中華の習慣に従ったのか、原作ではなかったものを観光客用に書いたものか。
 なお、諸葛孔明は軍事的には無能な人物で、その八卦陣などたいしたことはないと思うが、黄薬師が考えて、孔明の名を付けたのでしょう。
 黄蓉はアイドルにして、主人公ともいえよう。主人公郭靖からは「蓉児」といわれる(翻訳ではお蓉)。洪七公のあとを継いで乞食党の党首となる。この時16歳くらいだった。
 武術をはじめ、戦略・料理・数学・音楽・書・画・詩詞・薬学・語学・物理に秀でる。
 残念ながら碁は出てこないので、打てるのかどうか。黄薬師は碁を打てた(知っている)。お蓉ちゃんも打てたはず。それからお蓉ちゃんは動物の生殖は不知(^_^)。黄薬師は一年中桃花島に桃の花を絶やさないほど生物学に詳しい。
 夕食は蓉児餐庁で食べた。ここの唯一のレストランである。
 黄蓉は特に料理が得意で、この蓉児餐庁の名はそこからきている。
 宮廷料理さえ食べ飽きるほどの洪七公が、黄蓉の料理に誘惑され、郭靖に降龍十八掌を教えるほど。もっとも洪七公は承知の上で騙されても知らぬふりをするのだが。
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 写真の黄薬師は紹興酒の銘柄。料理は海産物が多い。右上は太く腰の強いうどんのようだった。海老は殻を剥いてないので食べにくい。どういうわけか中国では海老は殻ごと料理する。調味料でべとへとになった海老を手を汚して剥かねばならない。この海老はべとべとになっていないのでよかったが、小さくで剥くのがめんどうだ。
 他にも大勢泊まっているはずなのに、わたしたち以外で食事にきたのは二人だけだった。
 魯達さんは、「中国人は、自分で食べ物をもってきてそれで済ますのが普通、カップラーメンで済ますことも…」、と言っていた。
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 翌20日の朝、朝食前にもう一度「試剣亭」まで登ってみた。弾指峰の方角だが、どれかはっきりしない。

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 岩の上に黒い点が見える。じっと動かないので、岩が黒いのかとも思ったが、パソコンに移して見ると鳥だった。
 神Gではなさそう。

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 ここは「危険」なのだが、別に危険ではなさそう。左の岩山には防空壕が掘られている。入り口の壁に「1986年1月11日桃花営」文字があったが、そのころの軍事基地の跡か。

 3日目、朝食後に桃花塞から例のバスに乗って桃花飯店に向かう。
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 休閑村の事務所と桃花潭。ここでチェックアウトをする。
 何人か、竹製の筏舟に乗って内力で動かそうとしたが、修行が足りなかったようだ。

桃花島 3 に続く
posted by たくせん(謫仙) at 09:26| Comment(0) | 江南 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年05月03日

桃花島 3 射雕英雄伝旅游城

2006-06-04 記

 朝のうちに桃花飯店にチェックインし(できなかった部屋もある)、大きな荷物を置いて、バスで射雕英雄伝旅游城まで来る。バスは返した。普通は待っていてくれるらしいが、我々は時間がかかる。待たせるわけにはいかない。
 ここは射G英雄伝の撮影のためにつくられ、そのままテーマパークとなっている。もっとも好きな人でないと面白いところではない。平日でもあり空いていた。
 ここはテーマパークみたいなものだが、僻地とは言わないまでも田舎にあるので、ディズニーランドを思っては困る(^_^)。
 射G英雄伝の撮影所の跡というのが正しい言い方だろう。もちろん桃花島は自然景観は前から観光地であり、金庸さんもそれを利用したわけだな。
 田舎とはいえ、島内にはホテルも多くあり、外国人にも困らない。

 一応入場料は取るが、アトラクションがあるわけではなく、案内人がいるわけでもなく、ファンが勝手に楽しむ。逆に言えば知らないと何も面白くない(だろう)。これらの建物も、あのシーンで使われた、このシーンであちらから撮ったのでは、ここはワイヤーアクション。なんてことをいいながら歩いている。
 射雕英雄伝旅游城では、わたしたちは四時間ほど見学していたが、普通は一時間もあれば一回りするらしい。
 お金を使う所は、弓を射たのと、コスプレ(わたしはしなかったが(^_^))、それから昼時には、軽食くらいはできるようだ(門外)。土産物屋でお蓉ちゃんのキーホルダーを買った。十五元だったか。
 
 金庸作品一作のため、専用の撮影所をつくり、観光地にする。たいしたものだ。

射G英雄伝−桃花島− 射雕英雄伝旅游城や桃花塞 など
天龍八部 −大理市− 大理天龍八部影視城 など
神G侠侶 −浙江省− 浙江象山神雕侠侶影視城(九塞溝は撮影所はない) など
 この中で大理天龍八部影視城と神雕侠侶影視城はアトラクションなども行われているようだ。

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 まず門を入りその二階に上る。写真では判らないが例のごとくGの代わりに雕の字が使われている。
ここは入園料が38元。
 門前の左側にある案内板。ちょっと高低差を強調し過ぎている。
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 左下「コ」の字形をしているのが門である。そこから入って、牛家村の門。そして、曲三酒店や楊鉄心の農家などがある。続いて蒙古パオ。
 池の畔に東邪船埠。池に沿って左に歩くと杭州(臨安)市街、右の方に水sha60.gif(しゃ)、帰雲荘(右の方の中庭のある家)など。
 右山上は黄薬師庄。その右に少し離れて小さいものが、黄蓉のお母さんのお墓、ここも舞台としては重要だ。
 左山上は寺なのだが、撮影用。南帝禅寺といい、南帝といわれた元大理国皇帝一灯大師の寺。ちなみに「天龍八部」の段誉の孫になる。
 山の上を手前に来て、積翠亭。桃花塞の積翠亭と同じつくりである。

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 まずは牛家村の門のようなもの。正しくは門ではなく村の中心らしい。射G英雄伝の物語はここから始まる。
 この右手に的場がある。
 江湖の英雄たちは、ここで弓を引いてみた。10元で12本。
 日本の弓は弓の右に矢を据えて構えるが、ここの弓は左に矢を据える。そのせいか12本のうち10本が的一個分左にずれてしまった。2本あたった(^_^)。

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 牛家村の門を入ると曲三酒店、黄薬師の弟子曲三(曲霊風)が不自由な足で営む。足が不自由でも、皇宮に入って優れた芸術品を見つけると、黙ってここの秘密の部屋に移す。師黄薬師のためだ。その秘密の部屋は確認できなかった。曲三には知恵遅れの娘が一人。

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 続いて、楊鉄心家の作業場。農家なので農作業の道具である。
 楊家といえば槍の名門を思い出す。楊鉄心も槍を得意とする。楊康の両親の家だ。楊鉄心の妻の名は包惜弱といい、趙王完顔洪烈(ワンヤンこうれつ)に掠われ、王妃となって楊康を産み、王子として育てる。農民でありながら、飼っている鶏を潰すことができない。あまりに心の優しいのも罪だという人もいる(えまのさん)。
 郭嘯天(かくしょうてん=郭靖の父)の家はなかった。
 ついでに言うと、郭嘯天の妻は李萍というが、夫の名前も知らず嘯夫と呼んでいる。文字も知らない。ドラマでは位牌に郭嘯天と書いてあったので、一応名前は知っていたことになる。文字も知っていたことになる。烈婦だ。

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 村はずれに蒙古パオ。
 この壁はコンクリートであったが、もちろん本物の蒙古パオは移動可能である。
 下はパオの中。チンギスハーンが座った席か。

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 池の脇の岩に金庸先生の揮毫がある。なおここでは一年中桃の花が咲いている。
岩の色までが桃色(^_^)。
 下の東邪船埠の桟橋は板が新しく情緒がない。ここから帰雲荘まで水上を走っていくのが本来だが(^_^)、できる人は残念ながらいなかった。
 東邪とは黄薬師のこと。

219.jpg
 杭州(臨安)市街とその後ろの小高いところには黄薬師庄。
 市街を池側から見た様子は帰雲荘か。帰雲荘は太湖の畔にたつ。それも当然で帰雲荘は湖賊の屋敷。

220.jpg
 帰雲荘の建物の一部、この右手に母屋がある。なお奥の建物は仏堂で礼拝した人もいる。

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 水sha60.gif、これは天龍八部の「あ碧」の水sha60.gifか。
 「しゃ」の字は地図のところでいったが木偏+射。この文字を入れると、全文文字化けしてしまう。これだけひらがなを使っているのに、その一字で中国語コードになる。(有問題) ここでは作字して入れてある。

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 臨安の街で、貸衣装を着ての太極剣の演武。
 右手は剣。刀より剣が高貴とされた。身分の高い人は剣、兵は刀が普通。日本の刀は細身で剣に近い。
 左手の構えは剣訣という。
 下は勢揃いした江湖の英雄たち。

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 桃花島の名のもとになった(?)桃花石。化石だがあちこちにある。石の階段までこの石が使われていたりする。

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 帰雲荘は黄薬師の弟子陸乗風の屋敷。陸乗風も足が悪い。
 黄薬師には弟子が4人いた。曲霊風(曲三)・陸乗風・陳玄風・梅超風。
 陳玄風と梅超風が駆け落ちし、そのとき九陰真経を持ち出してしまった。二人を心の内では認めていた黄薬師も、それを怒って、曲霊風と陸乗風の足を折って追い出してしまう。
 曲霊風と陸乗風にとってはとんだとばっちりだが、なんとか黄薬師に許してもらおうとしている。そんな理由で足が悪いのだ。
 なお湖賊であるが、なんでも襲うというわけではない。
 射G英雄伝の続編「神G侠侶」では、4人の弟子のほか、馮黙風・武天風という二人もいたことになる。
 馮黙風は鍛冶屋として登場する。江湖の交わりを断って30年、その間の江湖の事情を知らない。

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 馮氏(ふうし)の墓。桃花島の島主黄薬師の妻であり、黄蓉(お蓉ちゃん)の母である。馮氏は暗記能力が優れ、武芸はできないのに「九陰真経(下)」を一読して暗記してしまう。これを筆記したので、桃花島に「九陰真経(下)」があるのだった。
 陳玄風・梅超風が駆け落ちするとき、これを持ち出してしまう。馮氏はもう一度再現しようとするが、時間もたっていて、完全に再現できず、その苦労で体をこわし亡くなることになる。
 なお梅超風は若くはないはずだが、大河ドラマでは若くて(俳優の実年齢は近いようだ)美貌の、目が見えず足が悪い恐ろしい女として登場し、人気が出た? 黄蓉との出会いのシーンでは「桃花島のお嬢様」と低頭。
 この俳優の本職はダンサーで、世界的な有名人。日本でも公演した事があるが、知らず見に行きそびれた。

 黄蓉は幼くして、母とは死に別れ、父と聾唖の召使いによって育てられた。
 この扉は動かすことができ、こうして中に入れる。ここで郭靖の師匠江南七怪のうち5人が死ぬことになる。
 ドラマとはかなりイメージか違う。ドラマでは墓の前は広々としていたし、山の下であった。中ももっと広かった。実際に撮影に使われたのとは違うようだ。

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下 八卦堂であろう。桃花塞の「碧海潮生」が「碧海潮聲」となっている。正面の階段を登ると碧海楼。
上 碧海楼
 ここは黄薬師の住まいになる。
 黄薬師は建築家としても優れているのだが、財力もさりながら、工事する人はどうやって集めたのだろう。家ばかりでなく、島全体を巨大なからくり庭園とするのだが? これは訊かないのが江湖の仁義だろうな。

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 碧海楼の正面。
 黄薬師は古今の名品を集めた。その鑑賞眼も確か。その薫陶を受けた黄蓉も鑑賞眼を持つ。曲三が皇宮の名品を盗み出したのも、黄薬師に献上するため。

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 碧海楼の脇に建つ黄蓉楼、2階建てであった。
 下の写真中の写真はあちこちにあるが、ガラスが反射してなかなかきれいに撮れない。
 わかりにくいが、お蓉ちゃんの筆の持ち方に注意。日本では筆先は指の方向だが、中国では手首の方に向ける。
 左は黄蓉を演じた周迅が黄蓉楼の前で。撮影の合間だろうか。

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上 一階正面。ここは公式な場所であり、多少厳めしさもある。来客は来るはずがないが、建前として来客を予定しているか。
中 黄蓉楼の一階右側。趣味のよい調度が並んでいるではありませんか。
下 これは二階だったかな。こう見てみるとやはり女の子の部屋ですね。

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 ここは台所。がらんとしていて、とても料理できる雰囲気ではない。上の写真はお蓉ちゃんが台所を覗いたところか。
 普通、料理は召使いがやるのだが、黄蓉は自分でもできた。しかも名人。
 中国料理の特徴は鍋一つ器一つでなんでも作れることであろう。
 前に聞いた話だが、中国とソ連の間に国際列車が走っていた。そこの食堂車は中ソ2輛あった。中国車はわずかの料理用具で、狭いところでいろいろつくるが、ソ連車は車輌の半分が食器置き場だった。そのため頼んでから出てくるまでかなり時間がかかったという。今ではどうなったことか。

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 積翠亭への路。こう見ると日本の野原と変わらない。
 
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 積翠亭から見下ろす。
 左の建物は帰雲荘。これは(物語では)焼け落ちる。後に別な場所に再建するが、それは続編の神G侠侶での話。
 池はかなり水が少ない。右が水sha60.gif、左が船着き場。もちろん湖水の上にあるべき。

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 積翠亭から外に目を転じると江南の春。まるで日本を思わす菜の花畑。
 海に面した堤防の内側は養殖場のようだ。

桃花島 4 に続く
posted by たくせん(謫仙) at 09:32| Comment(3) | 江南 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年05月02日

桃花島 4 東海龍苑

2006-06-04記

 射G城の予定していたレストランが休みだったので、一度ホテルに戻った。チェックインが済んでいない部屋も済ませ、敷地内の隣の建物のレストランに向かうと、時間が遅く食べられない。街中のレストランに行った。
 一度部屋に入ったが、食材を選ぶためまた外に出て、わいわいがやがや。
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左上 ムール貝?  汚れも落とさずに煮たような印象。
中 泥鰌      何十年ぶりだろう。
左下 蛸      ワサビを初めて見た。
右下 太刀魚    こう見ると全体的に日本料理のよう。

 昼食後、ラブラブ海岸を目指す。地図では「塔湾金沙」で案内には「碧海金沙」ともありどちらでもいいのか。桃花塞の近くである。
 郭靖たちが船出して、波乱があって孤島に流れ着く。そこで郭靖(靖さん)と黄蓉(お蓉)が海岸をラブラブ状態でブラブラする。その撮影の海岸である。ゆえにラブラブ海岸と(我々は)名付ける。
 その海岸に入ろうとしたらなんと有料、ただの海岸でありお金を払ってまで入るところでもないので、写真を撮ってバスに戻る。そして少し戻って東海龍苑に入る。

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 ここはなんであろうか。かなり観光のための施設を作ってあり入場料(35元)もいる。しかし純粋の観光施設とも思えない。

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 門を入って庭を横切ると、正面に池がある。その奥にこんな景色がある。
 山羊に見えたのは模型で、その顔は牛のようだった。その奥の岩は手前の岩とは表情が違う。
 ここから左手の歩道を進むが、そこでは道を覆う巨大な石組みをくぐる。奥の岩と同じ表情。叩いてみると軽いうつろな響きがする。よく見ると園内にあるあちこちの石にも同じ表情の石があるのだ。
 この右奥にも工事中の大きな家があるが、同じような石組みがある。内力のある人が叩くと、穴が開きそう(^_^)。
 右の方の高い所に大きな塔がある。
 右上に見える赤い建物は龍凰宮、といってもそれがなんなのかわたしには不明。

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 建築途中の建物のあたりから。
 この左の石も…。
 この塔の上まで階段を登った。一気に登り切れず、二三度途中で休むことになった。
壁には、この龍苑の縁起が数十枚に書かれている。ちらっと読んだだけだが、日照りの時に雨を降らせてくれて、村人が協力して塔を建てた。というようなことらしい。

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 塔の一番上から見下ろすとラブラブ海岸が一望。
 ここから自由に入れそうな気がするがどうだろう。この右の方に海岸に入る料金所がある。
 中央下の方がこの園の門。

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 塔の近くにある龍女閣と中の龍女。
 比較的新しい。文字は繁体字ながら左から書いている。
 この龍女の像から金庸先生は、小龍女のヒントを得たのかも知れない。(逆のことも考えられる。誰かが龍女伝説を訳してくれたら判るかもしれない)

桃花島 5 帰路に続く
posted by たくせん(謫仙) at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 江南 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年05月01日

桃花島 5 帰路

2006-06-04 記 

この夜はホテルの敷地内のレストランで夕食。いつもながら紹介するのは半分以下。写真はかなりピントがずれているものばかりだった。
 ここでも台所の隣で食材選びをする。

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 左上はタケノコ。その下は包子と饅頭、包子(パオズ)は中にあんこが入っている。饅頭(マントウ)は何も入っていない。その下は清粥(チンジョウ)なにも別なものを入れてない味の付いていないお粥。
 こうして、全体的に見てみると、わたしにも安心して食べられるものが多い。
 大陸での旅行は油漬けの料理がほとんどで、御飯さえチャーハンにされると油である。なにもかも油がべとべとだと、とても食べられない。間違いなくアウトになる。
 おそらく今回は海の近くだからではないか。大陸の奥地にはいるとなんでも高温の火を通さないと安心できないのだ。新鮮な海産はそうしなくても食べられる。水も使える。
 中国人は生卵を食べない。理由は簡単で、卵生産の衛生状態だ。そのため一部で衛生状態がよくなっても安心できない。それが海産では油で高温にする必要性がなくなるのではないか。

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 桃花賓館 左隣は桃花苑飯店(地図に載っている)がある。右の方の建物がレストラン。
 翌日は朝早く発つ予定だったので朝食用の買い物に近くのスーパーへ行った。
 夕食時に話があって、翌日朝早くから開くからと、朝食はレストランで食べることになった。予定は朝6時に朝食、6時半に出発、7時頃の船に乗る。
 ところが女性係員が約束の時間に出勤せず、レストランの扉が開かない。ホテルから電話して、6時20分ごろようやく係員がバイクで到着。扉を開いた。食べずに出ようかというぎりぎりの時間。中ではすでに料理ができていた。急いで食べる。
 もう料理の写真など撮る気になれない。

 船で沈家門に到着すると、魯達さんと別れ、わたしたちはタクシー2台に分乗して普陀山空港に向かう。そこは舟山の隣の島だが、橋で結ばれている。
魯達さんは寧波に行き、そこから列車で上海に行く予定。うまく宿が取れれば、夕食は揚子飯店で一緒に夕食を食べることになった。

 上海で再び揚子飯店にチェックインし、昼食に出かけたのは11時ころだった。
 洒落たビルの二階の喫茶店でランチを頼んだ。これがファミレスなみのシステムで、主菜+スープ+ドリンク+デザートを組み合わせて48元(?)など三種。
 ウェートレスが来たときに、各人各様に注文する。それを頷きながら聞いていたウェートレスは、あらためて数を確認した。
「メモをとらないで、これを覚えているとはたいしたものだ」と感心したが、とんだ買いかぶり。あれが足りないこれがまちがい。極めつけはデザートで、いつまでも来ないので催促したら、プリンが4個しかないので、他の品物にして欲しいという。やっとのことでそのプリン4個を出してもらって、食べたい人が食べ、店を出たのは2時。

 それから、豫園に行くことになったが、途中でビデオDVDやCDを買ってから、30分ほど歩いて、豫園の近くについた。
 そのまわりは老街で、いわゆる古い街並み。建物自体は新しいが、古い街並みを保つ。

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 上の門をくぐると浅草を思わせる街並みがあった。
 ここで自由行動とし、5時に近くのマグドナルドで集合することになった。

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 少し歩いていると、道が狭くなり、建物は大きくなる。この一画はこのような建物がぎっしり。
 この左の方には池や豫園がある。

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 池のまわりもこのような建物で埋め尽くされている。ほとんどが料理店のようだ。
 この池から離れると、普通の百貨が並んでいる。
 向こうに見える緑が豫園であるが、もう時間もなく入らなかった。

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 九曲橋。
 中国では「悪魔は真っすぐにしか進めない」といわれ、このように曲がった橋は悪魔は通れないという。そのためあちこちに九曲橋がある。

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狭い路地に入ると仲見世なみ。カタカナの商品名も並んでいる。
 五時の集合に間に合わなかったので一人で歩いて帰ることにした。他の英雄たちはタクシーで帰った。

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 上は道の途中の新しいホテル、新進の息吹が感じられるデザイン。上海は古都でありながら新しい街である。
 下はCDを買った上海文化商厦、であるが写っているのはビルの壁に反射した反対側のビル。縦横の線があってビルの壁であることが判る。看板の文字と一階の店と右上の窓が上海文化商厦。
 この日の夕食は揚子飯店の2回のレストラン。一時間ほどロビーで魯達さんを待った。宿を取れなかったのかなと、レストランに入ると間もなく到着。
 その後わたしは部屋に戻り、他の人はあしたのための買い物に出かけた。朝は6時に出発のため、レストランで朝食をとる時間がないのだ。

 最後に進歩反刺さんの作ってくれた、今回の旅行案内をお見せしよう。
 写真やデータは他の人が提供したのだが、この表紙といい、中のデザインといい、似顔絵といい、まさにプロの手作り作品である。
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 友人たちに見せたが、みな旅行社が作ったと思った。参加者が作ったと知って感嘆の声が出る。
 わずか八人の参加者のためにこれだけの作品。わたしも関連する仕事をしていたので、この素晴らしさがよく判る。永久保存である。
 師妹、お見事!!
posted by たくせん(謫仙) at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 江南 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月24日

楊過についてのあらすじ

2006.11.16 記
2023.1.24 加筆

 神G侠侶(神雕侠侶)は長大な物語だが、その中で主人公の楊過についてのあらすじをまとめてみた。
 楊康と穆念慈(射G英雄伝)の間に生まれる。当時すでに父の楊康は死去。母の穆念滋も楊過が11歳の時に病死。以後、江湖をさまよう。
 欧陽鋒の養子となり蝦蟇功を教わるが、すぐに離別する。ここで、郭靖と黄蓉の夫婦に拾われ、桃花島で過ごす。郭靖・黄蓉の子どもの郭芙と武修文・武敦儒の兄弟も同じ年代で、同時に育てられるが、3人にいじめられる。黄蓉も楊過を疎んじていたため、桃花島の生活はうまくいかず、見かねた郭靖が、終南山の全真教に預けた。この時は13歳か14歳。
 ところが預けた時の経緯があって誤解も生じ、全真教でもいじめられる。たまりかねて逃げ出す。追われているうちに、隣の活死人墓(古墓)にいきつく。
 古墓には小龍女と孫ばあやのふたりが生活していた。孫ばあやが命を捨てて楊過を守ったため、小龍女の弟子となる。小龍女は18歳。
 2年後楊過と小龍女は姉弟子の李莫愁に襲われ、結局古墓を放棄する。この時16歳。小龍女は20歳。古墓の近くで古墓派の武芸を完成する。
 そこで、義父の欧陽鋒に出会うが、欧陽鋒が小龍女を点穴(ツボを突く)して身動きできないようにして、楊過に技を教えているうちに、小龍女は汚される。小龍女は相手を楊過だと思って受け入れた。その後ふたりの話は当然かみ合わず、小龍女は楊過の下を去ってしまう。

 以後、楊過は小龍女を探し求める。この間に華山で洪七公と欧陽鋒の最後の対決に立ち会う。両者は亡くなるが、洪七公の技を知る。また途中で耶律楚材の親子と会うがその時18歳。
 一時は離れた小龍女も思い直して楊過を探す。
 陸家荘の英雄大会で再会し婚約するが、それを宣言するとまわりは非難する。師と弟子の関係は親子の関係とみなされたのだ。
 ふたりは江湖の交わりを断って古墓で暮らそうとするが、黄蓉が小龍女に楊過の将来を予想して話し、小龍女は楊過の将来のために再び楊過の下を去る。

 小龍女は死のうとするが、川を流れて、絶情谷の公孫止に助けられる。説得されて公孫止に嫁ぐことになったが、そこへ楊過たちが入ってくる。公孫止はとんでもない悪党で、楊過と娘の公孫緑萼を殺そうと巨大な穴(天坑)へ落とす。そこで公孫止の妻つまり亡くなったと思っていた緑萼の母と会う。その穴を脱出して、結婚式場へ行く。そこで結婚式の途中で公孫止の正体を知った小龍女と協力して公孫止と戦う。
 こうしてふたりの仲は戻ったものの、楊過は情花の毒に侵されていて余命幾ばくもない。公孫止の妻は谷の主となるが、楊過と小龍女に郭靖と黄蓉の首を持ってきたら毒消しを与えると約束する。郭靖と黄蓉を父の仇と誤解している楊過は、それを承知した。この時余命18日。
 襄陽に行くが、そこは蒙古軍に攻められていた。郭靖たちの態度に敵討ちができず、戦火のなかで、その時生まれた赤ん坊の郭襄を託される。郭襄は姉弟子の李莫愁に掠われる。この後小龍女は、楊過は郭芙を娶ると誤解して楊過から去ってしまう。
 楊過は郭芙に右腕を切り落とされる。

 小龍女は、自分を汚した者(全真教の道士)を知り、思わず後をつけてしまう。そして終南山で討つ。この時、致命的なほどの大怪我をする。
 楊過は神Gに助けられ、傷が治ると終南山に行き、小龍女と再会する。そこで全真教の教祖の図に三拝する。つまり結婚する。
 ふたりは古墓に戻りそこで小龍女の療養をするが、完治直前に小龍女は郭芙に毒針(暗器)で刺される。
 ふたりは短い命と覚悟して、小龍女が命がけで手に入れた情花の毒消しも、楊過は飲まず捨ててしまう。
 黄蓉の協力者が楊過の毒を消す草を見つける。楊過にこの毒消しを食べさせるため、小龍女は16年後の再会を書き置きしたて、谷に身を投じてしまう。小龍女が死ぬと楊過は後を追うため、生きているふりをしたのだ。

 楊過は16年後の再会を信じて(簡単に信じた訳ではないが)、毒消しで毒を消して、神Gの下で修行をする。そして神G侠として名を上げて16年経ち、郭襄と再会する。襄陽が再び蒙古に攻められ、郭襄の誕生祝いに駆けつけるため大活躍をする。そして小龍女との約束の日を迎える。
 だが小龍女は現れず、絶望して谷に身を投じる。郭襄は楊過の身を案じて駆けつれるが、間に合わず、続けて身を投じる。底は水が深く、ふたりとも死ななかった。郭襄は鷲に助け出されるが、楊過は水中トンネルを通り別な場所に行くと、そこで16年ぶりに小龍女に再会する。
 ふたりは地上に出て襄陽に行き、襄陽を救う。

 この物語のラストは襄陽城の戦いである。蒙古軍は大ハーンモンケが弓矢をもって戦場にある。宋軍は、皇帝は都にいて援軍もよこさず、襄陽の兵と庶民が団結して戦い、守りぬく。楊過がモンケを仕留めて、戦いが終わる。
 史実ではモンケは流行した病にたおれたといわれている。

 長々と書いたが、これでも端折りすぎていて、意味が通じないかも知れない。ふたりが様々な苦難を乗り越えて来たことが伝わればよい。
     
 撮影は2004年、小龍女役の劉亦菲は当時17歳か18歳であった。解説では、中国では13億人もいるので、一人くらいはこのような美人がいてもおかしくないだろうというような美人だ、そうだ。
posted by たくせん(謫仙) at 07:32| Comment(0) | 神G侠侶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年09月26日

大宋宮詞 〜愛と策謀の宮廷絵巻〜

大宋宮詞

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 チャンネル銀河で「大宋宮詞」が始まった。
 主演は劉涛(劉娥の役)だ。わたしには天龍八部の阿朱で記憶している。その他の役でも何作か。
 −劉娥は後の章献明粛皇后(しょうけんめいしゅくこうごう)真宗の2人目の皇后−
 大宋宮詞の第一回を見た。太宗の三人の皇子から皇太子を選ぶ話から始まる。
 このとき、秦王趙廷美(太宗の弟)の他、
   第一皇子 楚王趙元佐、
   第二皇子 許王趙元僖、
   第三皇子 襄王趙元侃、
 が候補であるが、太宗は皇太后とは秦王趙廷美を候補とすることを約束していた。その約束を破ることになる。
 第三皇子襄王(後の真宗)がふさわしいとなる。北の遼との戦場に行き、現地で地震により亡くなったと連絡が入る。しかし生還した。そのとき劉娥を伴って戻る。そして正妃に男の子が生まれる。
 男の子は暗殺され、劉娥が犯人と思われる。
 なかなかに展開が早く、この後が期待できそう。

第二回
「先帝の嫡子とはいえ徳昭には荷が重いかと…」という台詞がある。
 太宗の在位976−997で趙徳昭の死は979年
 趙元侃は986年に改名した。
で、時は、986年以後と言うことになるが、このときは、すでに趙徳昭はいない。
 趙元侃(後の真宗)の誕生は968年、趙徳昭の死は11年後である。ここでは死ななかったという設定か。
 第三皇子襄王趙元侃の妃に「守宮砂」が出てきた。処女の印だ。してみるとこの物語は武侠か。

 先帝の死後十年目という。そうなると舞台は986年でこの年に趙徳昭が死ぬという設定である。 

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 なお、先に見た「燕雲台」はこの時代の遼の五代景宗の皇后蕭燕燕の物語。紹介しなかったが、これはおもしろかった。

976 開宝9 太平興国1 ★太宗(在位976−997) 10月に即位。
979 太平興国4 ★宋によって中国統一  北漢が滅び十国終わる。
          ★太祖の子 趙徳昭(951−979)自殺。
980 太平興国5
981 太平興国6 ★太祖の子 趙徳芳(959−981)没す。ここに太祖の子は二人とも死んだことになる。かなり問題のある死に方であった。
997 至道3   ★真宗(在位997−1022)即位 太宗の子。

 さらに開封府も少し時代がずれるが、真宗と劉娥の時代から始まる。劉娥の扱いがかなり異なる。
posted by たくせん(謫仙) at 14:52| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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