2017年11月20日

追加加筆

峨嵋山武術学校も画像を追加し加筆しました。
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2017年11月16日

追加訂正

11月12日、四川省名山の旅の参加者が集まった。
旅のおもいでを語り、次回旅行の希望などの話をした。
このとき旅の写真を頂いたので、使わして貰った。
旅行記のあちこちに写真を追加したり、文を書き換えたりしたが、大筋には変わりない。

なお、峨嵋山武術学校は未訂正で、おりを見て追加訂正する予定。
posted by たくせん(謫仙) at 12:07| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

医食同源

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 9

 これで今回の旅は終わる。
 8月21日の夕食は薬膳料理だった。

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 欽善齋はかなり有名らしい。欽善哉の文字の左に乾隆御筆とある。偽筆とは思いませんが…。
 このレストランの二階のかなり奥の部屋だった。

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 中庭である。

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 いつも我々12人で1卓である。
 四川省は薬材の宝庫である。盆地の周辺は高山が連なっている。その高山が緑豊かで、動植物の種類が多い。それで薬材が多い。漢方薬といえば四川省というほど。その中でも青城山は高名だ。

 その薬材探しの人が洞窟に入ったらそこはユートピアであり、出てくると数百年も経っていた。という話が多い。逆に神仙が薬売りになって人間世界に来る話もある。四川は古くから中華薬材の集散地としてしられている。
 ただし、全国的に有名になったのは宋代になってかららしい。
 当然毒薬もある。
(最初の岡崎先生の講義の一部)

 武侠では、どんな重傷も薬を付けると一瞬で治ってしまう。着ていた服の穴まで繕われてしまう(^_^)。
 これは神仙の技が人間界に流出してしまったからなのだ。

 ガイドは、次のようなことを言った。
「昔の人は大変な苦労をしただろう。ある植物のある部分がある病に効く。それを見つけ出すために膨大な実験を繰り返しただろう。毒で死んだ人もいると思う。漢方薬はそんな歴史の積み重ねの上に成り立っている」
 薬膳料理はそんな歴史の裏付けのある料理である。
 中国には薬食同源(医食同源)という思想がある。
 少し違うが、日本のドラマ「みをつくし料理帖」でも医師源斉は「食は人の天なり」と、食事は薬より大事だと言う。「おいしい料理を作れる人はそれだけで貴いのですよ」と。(田郁 原作)
 現在中国では中華料理を世界遺産にしようとする運動があるらしい。
 岡崎先生はガイドに、「医食同源の考え方を入れるべきだ、それが思想的裏付けとなる」と言う意味の事を言っていた。

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 さて、料理の実体はどうか。実はわたしにはいつもの料理と区別できない。だから医食同源か。

 ここでもほとんどの料理が辛くて食べらない。こんなに辛くしたら毒ではないか、は冗談としても、いくら種類を並べても食べられなければ意味が無い。薬は毒を薄めたものというのがわたしの思想である。この辛さは毒に近い。みんな平気で食べているのが不思議で仕方ない。
 まあ、わたしが辛さに対して過剰反応しているンだろうな。
 一見無害そうなスープでも、唐辛子とは違う辛さで、むせて吐き出しそうになった。山椒だったらしい。
 そんな中でも、なんとか食べられるものを見つけて、それなりに食べている。

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 たとえばこの銀杏の実は、わたし1人で半分ほど食べてしまった。これだけははっきり憶えている。

 わたしはカレーが好きである。カレーはおいしさのある辛さ。だが四川料理の辛さはおいしさのない辛さ。しかも辛さのレベルが違う。でも四川省の人はおいしいと思っているのだろう。
 中国に唐辛子か入ったのは17世紀の半ばという。以来400年。これだけ期間があるのだから、薬材との適合性は試されているのだろう。
 なお、唐辛子の辛さは舌には痛みと感じられるという。
 中国でも、現在は西方が中心である。西方とは私たちが普通に使っている西洋医学である。漢方薬も日方(日本の漢方薬、とは矛盾する言葉だが)の方が信用があるらしい。こうなると、ますます薬材としてより薬膳の材としての意味が重くなりそう。

 関西の2人は明日の朝別便で発つ。
 今回が皆の集まる最後になる。それで、今回の感想や次回に行きたいところなど、意見を交換した。
 わたし自身のことをいえば、体力の衰えを実感じた。20年前までの山登りの体力は夢である。
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2017年09月17日

青城山

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 8

 午前中に都江堰を見て、午後は、神仙の山青城山に向かう。
 この山は低い山だと思っていたが、意外に高く、青城山の主峰の老霄頂は海抜1,600m。
 ここも広いので、その一部しか見なかった。
 武侠迷には、青城派の本拠地として、おうわさはかねがね……。

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 まずは青城山駐車場で、カートに乗り換える。山門近くまで5分くらい。少し歩いて山門である。

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 山門前

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 道観であろうか。

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 案内図だがかなり見にくい。
 区域が左右に分かれている。右が前山で道観が多い。左は後山で自然が幽玄だという。
 私たちが行ったのは前山である。

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 ここからは有料となる。

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 山門の裏にこんな絵があったが、これではなんだか判らない。
 山門から山登りになる。これは30分もなかった。

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 小さな湖があり、船で対岸へ、5分くらい。

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 湖を渡れば目の前がロープウェイの下駅である。

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 ロープウェイで山頂近くへ、すでに上は雲の中である。

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 またしばらく歩く、雲は薄いとはいえ、遠くは見えない。

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 先の地震で上から転げ落ちた岩。よく見ると本来の道の上にあることが判る。

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 ここまで来れば上清宮は近い。
 道は沖なれどもこれを用うればあるいは盈たず

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 大道無為。道教の祖、老子の言葉の大意だろう。「大道無為」という四文字語は見当たらなかった。

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 最後の登りといえるかな。

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 今回の目的地である上清宮に到着した。標高はこのあたりが一番高いのだろうか。登山用の山岳地図が欲しい。それは峨嵋山でも思った。もっとも日本の登山地図のような丁寧な地図は期待できないか。

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 一番上は目の前だ。

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 一番上の真ん中は、…判らない(^_^)。王重陽かしら。

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 全真七子像
 ン? 6人しか見えないが。

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 堂の前、雲がかかっている。

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 ここを通り下へ。

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 ローブウェイの下の駅はなんとか見えた。
 この山もほとんど雲の中。写真を撮ろうとすると暗いのが判る。
 峨嵋山より楽だったが、展望のきかない道は疲れやすい。久しぶりに疲れるほど歩いた。
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2017年09月14日

都江堰

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 7

 朝食の時、外は雷雨であった。
 七時前、雨の中を出発、2時間ほどで都江堰(とこうえん)につく。曇ってはいたが、雨はやんでいた。

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 薄暗い中で、入場券を買う添乗員とガイド。

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 入る前に、ガイドは入り口の案内図を示して、都江堰のシステムを説明。
 岷江をここで分流し、水不足だった成都周辺を潤した。
 都江堰は秦の始皇帝の時代より少し前に築かれた。始皇帝の巨大建築などは無くなってしまったが、この都江堰は二千三百年後の今でも機能を果たしている。
 この灌漑設備によって、成都平原は「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となった。
 ただし、システムは同じでも始皇帝の時代の都江堰ではない。先端の「魚嘴」が当時はもう2キロほど上流にあったという。

2017.6.3.1.jpg  この図は、入り口にあった案内図ではない。

 中央の中州4が人工の堤防で、先端の魚嘴2で川を左右に分水する。
 左3が岷江本流、右5が灌江。
 図の中で特に重要なのは2の「魚嘴」である。
 灌江を深く、岷江を浅くした。そのため水の少ない時は、灌江6割、岷江4割。
 川幅は、灌江を狭く岷江を広くした。水の多いときは、灌江4割、岷江6割。
 構造によりそのように分かれる。これにより灌江に分流される水量が安定する。それでも多すぎたときは、図の7で本流に戻す。それによって、必要な水量をいつでも灌漑水路に流せる。

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 このように竹籠に石を積めて、堰を作った。

 秦堰楼から、都江堰を眺望する。

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 向こう側が霞んでいるが、上流である。左右中央から右にかけて細長く中州状になっているが、その先端あたりが始皇帝の時代の魚嘴のあったところらしい。

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 この中州が人工の施設。右の先端の低いところが、魚嘴といわれる。
 その向こうの岷江本流側に1974年に閘門が完成した。今はこれで灌江の水量を調節できる。

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 吊り橋である。人が多いとかなり揺れる。

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 下流方向も工夫があって、灌江に取りすぎた水を岷江本流に戻し、水量の調節をしている。

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 二王廟、ここまで下って見学。

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 二王廟
 李冰は秦の昭襄王から銀十万両を与えられ、4年の歳月で完成させた。その後8年で運河を切り開いた。李冰は完成前に亡くなり、息子の李二郎が引き継いで完成させた。
 二王とはこの親子である。

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 2008年の四川大震災の時に一部は壊れたが、3年をかけて復旧した。
 二王廟の本堂。

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 この一階部分が入り口、下から上がってくる。私たちは裏口から入ったようなもの。

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 サルスベリが目を引く。

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 本堂をもう一度見て、階段を下りる。

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 階段の下から見上げる。

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 下まで下りてきた。水の流れはかなり速い。

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「貴君は何本の香を焚くや」
「三本なり」
 この台詞の意味が判る人はお仲間だ。

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 何先徳夫妻
 1804年、何先徳が橋を架ける工事を始めた。事故の責任を取らされ死罪となったが、妻がその意志を継いで吊り橋を完成させた。
吊り橋は夫妻橋ともいわれるとか。

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 安瀾索橋つまり吊り橋の上から。

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 渡り終えて振り返る。

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 魚嘴の上の水が岷江から灌江へ流れ込んでいるのが判る。

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 岷江にはこの水門がある。1974年に完成した。さらに四キロほど上流には大きなダムがある。

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 岷江本流
 先ほどの吊り橋を渡って戻り、出口に向かう。

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 外から。こちらが表門であろう。
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2017年09月11日

武侯祠

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 6

 武侯祠(ぶこうし)は、三国志演義の主役諸葛亮を祀る霊廟であるが、武侯祠と称する地域には、武侯祠の他に主君劉備を祀る漢昭烈廟もある。
 わたしは諸葛亮といえば、文官のイメージが強く、武官としては無能力だったと思っているので、はじめて諡号が忠武侯と知ったときは意外に思った。
 223年つまり劉備の亡くなった年に、劉備の陵墓である恵陵が造営され、劉備の霊廟も造営された。現在のような諸葛亮と劉備を祀る霊廟に整備されたのは明朝の頃であるという。いわゆる完成は清代。

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 駐車場から、武侯祠の前を入り口まで歩く。

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 見にくいが、案内図。

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 入り口は漢昭烈廟の文字がある。劉備は一応漢の皇帝としていたので、国号は漢となる。

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 漢昭烈廟 劉備像、案内図ではオレンジ色の線に囲まれた右端上下中央あたり。

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 漢昭烈廟のすぐ後ろに武侯祠がある。

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 武侯祠 諸葛亮像
 霊廟内には関羽・張飛などの蜀漢の武将の塑像が並ぶ。写真はない。
 諸葛亮や劉備の塑像と同じで、いずれもが後世の製作。『三国志演義』によって形成されたイメージに基づくもの。

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 ここはどこだったか。

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 案内図の武侯祠の左に桂荷楼がある。荷とは蓮のことなのでこの建物と思われる。


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 ここから劉備の墓の方へ行く。

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 武侯祠を代表するような道である。この右側が恵陵で丸い。

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 恵陵つまり劉備の墓の入り口。右側になる。

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 恵陵は案内図では武侯祠左側、円形をしている。

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 恵陵の大きさを感じられるであろう。小さいが、皇帝とはいえ地方政権の長に過ぎないので、相当なものか。
 未発掘であるという。

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 頭でっかちな獅子(?)

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 夕食後に錦江劇場で川劇を見た。

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 なんと一番前の席の真ん中あたり。左右には字幕など出るが、わたしの席からは無理。
 三英戦呂布・梅花奨・変面。以下説明ぬき。

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 注目するのは変面である。武侠ファンには張紀中版「笑傲江湖」でおなじみだが、遙かに鮮やかであった。

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 古い舞台もある。
 好(ハオ)、好(ハオ)、と声が飛び交いそうだが、現在は使われていない。

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 武侠ファンにとって忘れがたいのは、諸葛孔明の八卦陣である。桃花島は八卦陣で作られているため、老頑童は15年も出ることができなかった。
 陸家荘では、穆念慈が楊康を助けようとするが、どうしても近づけない。
 黄蓉も赤ん坊の郭襄を八卦陣の囲いで守ろうとした。李莫愁はその囲いが解けない。
 などあちこちで諸葛孔明の八卦陣が使われている。
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2017年09月08日

杜甫草堂博物館

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 5

 8月20日、峨眉山市から成都に戻る。午後から杜甫草堂の見学である。
 あらためていうと、
 杜甫は、中国盛唐の詩人。字は子美。号は少陵野老、別号は杜陵野老、または杜陵布衣。「杜少陵」「杜工部」とも呼ばれる。「詩聖」と評された。
 杜甫は乾元2年(759年)、安史の乱のせいで、成都への流亡を余儀なくされた。そこで親友である厳武の援助を得て、浣花渓の近くに茅葺の小屋を建てた。杜甫はそこで4年間の生活を送った。

 つまりこの草堂には4年間しかいなかった。もちろん当時の建物は残っていない。
 
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 この杜甫草堂は博物館で、これはその博物館の入り口である。

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 照壁
 門の前の目隠し壁であるが、もちろん草堂にはない。博物館の壁である。

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 博物館の説明地図である。
 正門を入って、詩史堂・柴門・工部祠・少陵草堂・茅屋故居と続く。

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 この地図と上の説明図を合わせて見当をつけたが、はっきりしない。
 細かい説明は間違いそうなので省く。

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 見にくいが橋を渡るところ。

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 大廨、廨は初めて見る字だ。役所のこと。

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 入り口から見て建物の左側、両側にこのような回廊がある。

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 詩史堂

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 柴門
 当時この名前の門があったので、柴門としたが、おそらく、名前ばかりの門であっただろう。この門は清の時代の建築。向こうの建物は工部祠。

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 柴門の手前にこの水路(池?)がある。

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 工部祠
 工部は杜甫のこと。「検校工部員外郎」を勤めたゆえ、こう言われたとか。

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 少陵草堂の碑亭
 杜甫草堂のシンボル的存在。清代康煕帝の子、雍正帝の弟果親王である、愛新覚羅允礼の書いたもの。

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 茅屋故居。当時の杜甫の記述に合わせて再現した。庭には松が四本などの記述があって、四本植えたとか。日本人好みの庭である。

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 上の柴門とは、本来こんな門ではなかったか。

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 室内の様子。

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 土間が一列に並んでいた。
 なお、本当の草堂跡はこの裏の方にあたる。

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 見学を終えて門を出る。門前は道の向こうが浣花渓、その向こうは高級住宅地。
posted by たくせん(謫仙) at 07:00| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月04日

四川峨眉山文武学校

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 4

 峨嵋派武術は少林寺武術や武当山武術と並び三大武術といわれるが、峨嵋派としてまとまっているわけではない。
 春秋時代に司徒玄空という最初の武術家が現れた。猿の動きから、「峨嵋通臂拳」を編み出したと伝わる。その後も多くの武術家が独自の武術を編み出した。その中には女性もいる。それが金庸小説で郭襄(小東邪)を峨嵋派の開祖扱いしたもとらしい。四姉妹が蛾眉の四山に姿を変えたという伝説もある。
 現在四川には、67派あり、四川省由来が28派である。(以上、八雲さんの解説による)

 ガイドの李さんが言った。
「20年ガイドをしてきて、多くのツアーを案内してきましたが、武侠のツアーは初めてです」
 そこで、岡崎先生の事を調べたら、大変なひとで驚いたとか。
 四川峨眉山文武学校の見学を申し込んだとき、団体名を聞かれたという。
 岡崎先生は、「授業の邪魔にならないよう、授業の様子など見学させて頂きたいと思っていたのですが」
 この学校では武術ばかりでなく、ふつうに学問も学ぶ。現在は武術だけで生活するのは難しい。現代の学問も修得せねばならない。そんなわけで、文武両道の学校となった。
 峨嵋山を下りて、4時ころに四川峨眉山文武学校に着いた。

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 門には大きな横断幕。これには驚いた。
 門柱には峨嵋派とある。一門派にとらわれず、広く峨嵋山地域の武術を学ぶとみた。

  歓迎、日本の中国武術ファンの友人たち

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 そして生徒たちが整列して出迎え。左でカメラを構えている人は学校の職員である。
 案内してくれたのは校長先生。向こうの低く横に長い建物が校舎である。体育館は左奥になる。
 わずか12人の武侠迷は恐縮してしまうではないか。

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 武術ばかりでなく普通のスポーツもする。

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 体育館に行く途中にあった武術家の像、背中の槍は短くしたが、峨嵋槍は長槍である。

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 体育館に案内される。


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 体育館で演武を見せてくれた。
 私たちの両側には生徒の父母らしい人たちがいた。

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 演武の後ろには、門で見たと同じ横断幕。

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 刀術
 中国では剣術と刀術は異なる。動きは円を描き、休み無く動く。わたしには相手に背中を見せるのが気になる。その一瞬に勝負が決しないか。
 日本では刀を使いながら、剣道・剣術という。細身なので中国の剣に近い。

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 武術の中心となる張氏、峨嵋派僧門第十四代傳人。教師ではなく仏教僧侶。
 手足以外はぴくりとも動かない。その後の目にも留まらぬ早業。動画を数回見て、動きを確認した。

 八卦掌、八卦刀、虎拳法、猴棍、羅漢拳、峨嵋刺など30分ほど演武を見せていただいた。

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 変面も披露。

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 記念撮影

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 初歩の構えを指導。

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 こうして構えを教えながら、その意味も説明する。

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 校舎

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 南宋建炎年間に白雲禅師が、峨嵋十二〔木+庄〕功という練功法を創作する。という話もある。

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 門脇に四川峨眉山文武学校とある。猿の絵は司徒玄空の故事由来であろう。
 四川省の山々は神仙伝説が多く、司徒玄空や白雲禅師をはじめ武侠の先達たちも神仙伝説に彩られている。四川省は中原とは違った古い文明の発祥した地域なのであった。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする