2018年03月13日

楊旭文版 射G英雄伝

射G英雄伝
楊旭文版 2017年

 2017年の楊旭文版射G英雄伝である。
 もちろんストーリーは判っているし、迷子さんの評で様子も判っている。それでも見始めた。
   ストーリーはこちら 射G英雄伝の世界2 年表・あらすじ
 李亜鵬版射雕英雄伝と比べてしまう。(雕の字は当時使われていた)
 見始めたばかりだが、完顔洪烈(ワンヤンこうれつ)が、未婚の皇子らしい年齢だ。李亜鵬版の洪烈はかなりの高齢に見えた。18年後も不自然ではない。話の中心はそこからだ。
 郭嘯天の妻李萍(りへい)と楊鉄心の妻包惜弱が、まるでお姫様のようで、貧しい農民の妻には見えないのが異様だった。
 酔仙楼の戦いでは、酒を飲むシーンが見苦しい。水道の蛇口をひねったようにして流れる酒を口に注ぐが、全部口からあふれている。それでもやめない。
 それから武闘シーンに、やたらスローモーションが使われてイライラする。

 第2回でジェベ師匠が加わり、テムジンを大カーンと呼んでいる。お世辞かな。
 第3回ではすでに蒙古が金の使者を迎える場面だ。
 金の使者を迎えるときも、コの字型の机の並びで、オンカーンが中央で、テムジンは脇で客と向かい合う席だ。そしてオンカーンの義子と名乗っている。
 正式にはモンゴル帝国では、
初代 ジンギス・カン
二代 オゴデイ・カーン
三代 グユク・カン
四代 モンケ・カーン
五代 クビライ・カーン(大元の初代皇帝)
と複雑。
 原作小説では「第一巻 砂漠の覇者ジンギスカーン」である。
 登場シーンは、兵士の台詞で
「テムジンさまが来られた、大汗(たいカーン)が来られた」であり(文庫本ではP136)、あちこちで台詞では『大カーン』と言われる。だが地の文ではテムジンである。
のちのジンギスカーンであるが(P137)、と、今はまだジンギスカーンではない。
 蒙古はまだ草原の小部族にすぎない。(P153)。
 つまり草原の小部族であるのに、大カーンと呼ばれていることになる。

 もちろん原作がそうなので、このドラマでは、これでよい。
 ハーンということもあるが(言語の違い)、カンとカーンの両方を指す。区別しない。大ハーンはさて。
 
 ドラマは黄蓉と郭靖が二人して洪七公の弟子となるところまできた。欧陽克に掠われた程瑶迦を助ける。その時、洪七公と再会し、降龍十八掌の残り三手を教わる。特に引っかかるところはなく、順調である。
posted by たくせん(謫仙) at 14:56| Comment(0) | 射G英雄伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月22日

多情江山

2月22日記
3月16日追記

多情江山  日本名 皇貴妃の宮廷
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 清朝の第3代皇帝順治帝(じゅんちてい)(在位1643−1661)名はアイシンギョロ・フリンの宮廷ドラマ。
 清が北京に入城したとき皇帝フリンはまだ数え6歳であった。摂政王ドルゴンが権力を握っていた。フリン13歳のとき、ドルゴンの死後に親政を始める。しかし、数え24歳で没した。(北京入城と没年だけは数え年であることを確認した。他も同じだろう)
 あまりに若い逝去なので、俗伝では五台山清涼寺で出家したという。鹿鼎記はこの説を採用している。鹿鼎記によって、このドラマの顛末はある程度察することができる。
 その第3代皇帝順治帝の22歳から亡くなる24歳までの話。治政は短いものの一応名君と言われている。
 康煕帝は8歳で即位したので、順治帝16歳のころの子で第三子。このドラマの初めのころは康煕帝は6歳くらいだが、城外で育てられた。その他にも大勢の子がいるが、順治帝の子に対する情は薄かったようだ。子ばかりでなく、皇貴妃たちに対する情も、董鄂妃以外は薄かったらしい。
 その董鄂妃とのラブストーリーだ。

 ドラマでは董鄂妃は江南地方(?)の歌姫である。史実は弟の嫁を奪った。
 ドンゴ氏(董鄂氏)は死後に孝献皇后となる。子の第四子栄親王は三ヶ月(?)で夭逝している。
 順治帝は漢文化を尊重した。そして名品の献上をやめさせたり、官職の合理化を図ったり、質の悪い官僚を追放したりした。庶民の負担の軽減をはかっている。それで名君といわれる。
 わたしは鹿鼎記の前章のような感覚で見ている。見始めたばかり、何かあったら加筆訂正をする。

   ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
3月16日追記
 この中で孝庄太后(順治帝の母)役の袁詠儀が名演といえよう。動きはほとんどなく、席に座っての発言ばかりだが、このときの顔の表情が素晴らしいのだ。喜んでいるときや悲しんでいるときは誰でもできる。しかし、心では喜んで表情は厳しくとか、知らぬふりをするとか、建前と本音が違うときの複雑な表情が見事に演じ分けられている。
 董鄂妃を受け入れながら、臣下の前や後宮では厳しいことを言う。そして双方を納得させる。このあたりの複雑な表情を演じながら、威厳を保っている。
 建国の厳しさを知っている故に、特権に溺れる臣下や後宮を常に引き締めているので、董鄂妃に厳しくとも、その行動に頷いてしまう。
posted by たくせん(謫仙) at 08:27| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月15日

開封府

開封府−北宋を包む青い天−
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「包青天」と言われた名裁判官包拯のドラマ。
 日本の「遠山の金さん」や「大岡政談」のモデルと言われている。清廉潔白で公正無私、対象は官界ばかりでなく皇族まで踏み込む。創作された話であるが、その姿勢は庶民に愛されている。
北宋は960−1127
包拯は999−1062
 説明では「北宋時代末期に活躍し、」とあるが中期と言うべきであろう。

 このドラマでは、仁宗が即位(13歳)(在位1022−1063)した頃科挙に合格して、開封で出仕して活躍している。しかし、史実では仁宗の5年に合格し地方官になる。一度致仕しで故郷に帰り、再び仕官したのが1036年。仁宗の27歳ごろ。だから都開封で活躍したのは1036年の後になる。
 ドラマでは開封で重大事件を解決し、皇太后に嫌われ、一度故郷に左遷され県の知となる。そして十年後にまた開封に出てくる。

 仁宗の皇后選びが問題になっている。その中でよく李Uの詞が歌われる。この曲は今に伝わっているのだろうか。それともドラマのために新たに、いやドラマのためででなくてもよいが、新たに作曲されたのだろうか。
 参考 李U
    李後主 −詞帝−
 で紹介した『虞美人』も歌われた。

 有力者ふたりの娘と孫が、美人(後宮の位号)として入宮し、仁宗は母の皇太后にどちらを皇后にするか決めろと迫られる。
 そんなとき、そのふたりが入っているそれぞれの宮殿が同時に火事になる。仁宗もその中にいた。
 その真相を調べるため、皇太后は、故郷に左遷させた包拯を開封に呼ぶことになる。嫌ってはいても、人格と能力は信用しているのだ。

 まだ途中なので、追加があったら書き加える。
posted by たくせん(謫仙) at 10:40| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月06日

錦綉未央

錦綉未央
日本名 (王女未央BIOU)
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 このドラマは武侠ではなく、時代劇である。全54回。
 中国の南北朝時代の北朝の物語である。北涼(439年に亡国)の王女であった馮心児(ふう・しんじ)が、行き倒れていたところ、李未央(り・びおう)に助けられる。
 李未央は同家の李敏峰の放った暗殺者に殺されてしまう。
 馮心児は李未央の仇討ちのため、さらに叱雲南(しつうん・なん)に一族を殺された復讐を果たすため、旧敵国の宮廷へ、有力者の李家へ李未央になりすまして入る。
 李敏峰を除くことに成功。李家の力が弱まったあたりで、叱雲家(李家当主の妻の実家)の南が登場、これこそ目指す北涼の仇だった。だが南の後ろには真の仇がいた。
 第30回あたりで、李未央の正体をかなりの人が知るようになる。
 皇帝家拓跋(たくばつ)氏の次代を巡る争い。さらに未央(馮心児)も含む李家の娘たちを巻き込んだ愛憎劇。それらの問題を克服して、馮心児は皇后の座を勝ち取っていく宮廷歴史ドラマ。
 北魏は拓跋(たくばつ)氏の国である。名から判るように塞外民族である。
 実はわたしは第8回から見始めた。

 未央の読みだが、中国語ではwèi yāng (wei4 yang1)しか出てこない。どうして「BIOUびおう」となったのだろう。
 「びおうさま」もほとんどは「小姐xiao3 jie3」であり、未央殿は「未央姑娘wei4 yang1 gu1 niáng2」であり、biouは出てこない。未を「び」と読む例を探したら未央柳(ビヨウやなぎ)の例があった。美容柳のこと。未央柳は「柳」までそろってはじめてビヨウと読めるのではないか。未央だけでBIOUとするのは強引ではなかろうか。
(このことについて下のコメントを見てください。未をビと読む例が古くからありました。ただし、なぜそう読むのかは判りません。漢和大字典では例外的に「未央」の場合だけ「ビ」と読む例が例が載っています)
 それからいつも桜(のような花)が満開で、銀杏(のような葉が)が紅葉(黄色です)しているのが気に掛かる。

 439年に北涼が滅んで、この頃から南北朝時代(439−589)になる。
 北朝は鮮卑拓跋部の魏(北魏)が386年−534年。
 このドラマの時代は第三代の世祖太武帝(拓跋Z(とう)、在位423−452)の時代である。
 太武帝は華北を統一した。北涼が滅んだのもこのとき。
 初代太祖道武帝、二代太宗明元帝につづき、三代目になる。
 第三代太武帝の孫の拓跋濬(しゅん、第四代文成帝、在位452−465)と未央の出会いから、複雑ないきさつをえて文成帝が即位するまでの物語。(第五代献文帝の即位までもあるが)
 未央が「濬」を筆で書くとき、「浚」と書く。これは代用する習慣があったか。ただし勅令などは「濬」を使っている。

 創作された物語なので、歴史として引用するときは注意が必要。もっとも歴史も「勝者が自分の思うように書く」ので正しいわけではない。
 すでに亡くなっていた濬の父は景穆帝と追号されているが、代数には入らない。
 物語の後、文成帝の没後に第五代献文帝が即位し、未央(馮心児ふう・しんじ)は馮太后と呼ばれることになる。
 献文帝(在位465−471)は幼帝であったので、母の馮太后に実権があった。なお、馮太后が献文帝を毒殺したという。
 いろいろ調べていると、この物語とはかなり様相が異なる。この当時南朝は宋であるが、趙匡胤の宋とは違うので注意。
 撮影場所は横店の秦王宮(撮影所)が使われている。

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 太極殿や、脇の渡り廊下が盛り上がった場所など何度も出てくる。

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 この物見櫓のような建物も特徴がある。

参考 南北朝時代
posted by たくせん(謫仙) at 10:03| Comment(2) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月20日

鹿鼎記 韓棟版

鹿鼎記 韓棟版
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 今年見た武侠ドラマは琅琊榜(ろうやぼう)に、この韓棟版鹿鼎記であった。孫子大伝も見たが、それは武侠ではない。
 この鹿鼎記、これが意外に面白かったんだな。主役の韋小宝は韓棟。少年時代は無理だが、大人になってからははまっている。
 武侠ものは数回分見てがっかりして終わり、ということが多いのだが、これは50回の最終回まで見てしまった。
 もっとも終わる場所は常春の雲南でも揚州でもなく、極寒の鹿鼎山で、この土地で牧歌的に隠棲というのは腑に落ちない。これでは揚州などの後日談が成り立たない。だから後日談がない。母親は揚州に置き去り状態。
 韓棟版の特徴は、台湾編とロシア編と雲南からの往復の旅編がないことか。その辻褄を合わせるため、ストーリーはそれなりにいじっている。
 それから7人の妻や九難や陳円円など女優たちが、みな若く同年配に見えるのが可笑しかった。陳円円と阿珂は賈青の二役なので、どちらが母か娘か判らないほど。そして他の女性たちと比べても特に美人ということはない。
 三藩の乱のころ、九難は45歳ほどだが、年を感じさせないって、まるで弟子たちと同じ年代のようだ。
 偽皇太后も若いとなれば、女性たちの年齢を考慮していないように思える。
 また、康煕帝と韋小宝をはじめ男たちの頭は、ほとんどが、いつでもたった今剃り上げたばかりと言う状態。かすかに黒みが見える程度。康煕帝と韋小宝の顔は、まるで女優のようにつやつや。こんなことは黄暁明版では感じたことがなかった。今回はそれが目立つということかな。
posted by たくせん(謫仙) at 08:04| Comment(0) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

医食同源

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 9

 これで今回の旅は終わる。
 8月21日の夕食は薬膳料理だった。

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 欽善齋はかなり有名らしい。欽善哉の文字の左に乾隆御筆とある。偽筆とは思いませんが…。
 このレストランの二階のかなり奥の部屋だった。

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 中庭である。

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 いつも我々12人で1卓である。
 四川省は薬材の宝庫である。盆地の周辺は高山が連なっている。その高山が緑豊かで、動植物の種類が多い。それで薬材が多い。漢方薬といえば四川省というほど。その中でも青城山は高名だ。

 その薬材探しの人が洞窟に入ったらそこはユートピアであり、出てくると数百年も経っていた。という話が多い。逆に神仙が薬売りになって人間世界に来る話もある。四川は古くから中華薬材の集散地としてしられている。
 ただし、全国的に有名になったのは宋代になってかららしい。
 当然毒薬もある。
(最初の岡崎先生の講義の一部)

 武侠では、どんな重傷も薬を付けると一瞬で治ってしまう。着ていた服の穴まで繕われてしまう(^_^)。
 これは神仙の技が人間界に流出してしまったからなのだ。

 ガイドは、次のようなことを言った。
「昔の人は大変な苦労をしただろう。ある植物のある部分がある病に効く。それを見つけ出すために膨大な実験を繰り返しただろう。毒で死んだ人もいると思う。漢方薬はそんな歴史の積み重ねの上に成り立っている」
 薬膳料理はそんな歴史の裏付けのある料理である。
 中国には薬食同源(医食同源)という思想がある。
 少し違うが、日本のドラマ「みをつくし料理帖」でも医師源斉は「食は人の天なり」と、食事は薬より大事だと言う。「おいしい料理を作れる人はそれだけで貴いのですよ」と。(田郁 原作)
 現在中国では中華料理を世界遺産にしようとする運動があるらしい。
 岡崎先生はガイドに、「医食同源の考え方を入れるべきだ、それが思想的裏付けとなる」と言う意味の事を言っていた。

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 さて、料理の実体はどうか。実はわたしにはいつもの料理と区別できない。だから医食同源か。

 ここでもほとんどの料理が辛くて食べらない。こんなに辛くしたら毒ではないか、は冗談としても、いくら種類を並べても食べられなければ意味が無い。薬は毒を薄めたものというのがわたしの思想である。この辛さは毒に近い。みんな平気で食べているのが不思議で仕方ない。
 まあ、わたしが辛さに対して過剰反応しているンだろうな。
 一見無害そうなスープでも、唐辛子とは違う辛さで、むせて吐き出しそうになった。山椒だったらしい。
 そんな中でも、なんとか食べられるものを見つけて、それなりに食べている。

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 たとえばこの銀杏の実は、わたし1人で半分ほど食べてしまった。これだけははっきり憶えている。

 わたしはカレーが好きである。カレーはおいしさのある辛さ。だが四川料理の辛さはおいしさのない辛さ。しかも辛さのレベルが違う。でも四川省の人はおいしいと思っているのだろう。
 中国に唐辛子か入ったのは17世紀の半ばという。以来400年。これだけ期間があるのだから、薬材との適合性は試されているのだろう。
 なお、唐辛子の辛さは舌には痛みと感じられるという。
 中国でも、現在は西方が中心である。西方とは私たちが普通に使っている西洋医学である。漢方薬も日方(日本の漢方薬、とは矛盾する言葉だが)の方が信用があるらしい。こうなると、ますます薬材としてより薬膳の材としての意味が重くなりそう。

 関西の2人は明日の朝別便で発つ。
 今回が皆の集まる最後になる。それで、今回の感想や次回に行きたいところなど、意見を交換した。
 わたし自身のことをいえば、体力の衰えを実感じた。20年前までの山登りの体力は夢である。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(2) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月17日

青城山

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 8

 午前中に都江堰を見て、午後は、神仙の山青城山に向かう。
 この山は低い山だと思っていたが、意外に高く、青城山の主峰の老霄頂は海抜1,600m。
 ここも広いので、その一部しか見なかった。
 武侠迷には、青城派の本拠地として、おうわさはかねがね……。

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 まずは青城山駐車場で、カートに乗り換える。山門近くまで5分くらい。少し歩いて山門である。

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 山門前

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 道観であろうか。

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 案内図だがかなり見にくい。
 区域が左右に分かれている。右が前山で道観が多い。左は後山で自然が幽玄だという。
 私たちが行ったのは前山である。

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 ここからは有料となる。

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 山門の裏にこんな絵があったが、これではなんだか判らない。
 山門から山登りになる。これは30分もなかった。

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 小さな湖があり、船で対岸へ、5分くらい。

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 湖を渡れば目の前がロープウェイの下駅である。

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 ロープウェイで山頂近くへ、すでに上は雲の中である。

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 またしばらく歩く、雲は薄いとはいえ、遠くは見えない。

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 先の地震で上から転げ落ちた岩。よく見ると本来の道の上にあることが判る。

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 ここまで来れば上清宮は近い。
 道は沖なれどもこれを用うればあるいは盈たず

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 大道無為。道教の祖、老子の言葉の大意だろう。「大道無為」という四文字語は見当たらなかった。

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 最後の登りといえるかな。

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 今回の目的地である上清宮に到着した。標高はこのあたりが一番高いのだろうか。登山用の山岳地図が欲しい。それは峨嵋山でも思った。もっとも日本の登山地図のような丁寧な地図は期待できないか。

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 一番上は目の前だ。

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 一番上の真ん中は、…判らない(^_^)。王重陽かしら。

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 全真七子像
 ン? 6人しか見えないが。

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 堂の前、雲がかかっている。

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 ここを通り下へ。

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 ローブウェイの下の駅はなんとか見えた。
 この山もほとんど雲の中。写真を撮ろうとすると暗いのが判る。
 峨嵋山より楽だったが、展望のきかない道は疲れやすい。久しぶりに疲れるほど歩いた。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(2) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月14日

都江堰

岡崎由美先生と行く中国の旅
四川省名山の旅−道教・仏教聖地と武侠文化を訪ねて 7

 朝食の時、外は雷雨であった。
 七時前、雨の中を出発、2時間ほどで都江堰(とこうえん)につく。曇ってはいたが、雨はやんでいた。

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 薄暗い中で、入場券を買う添乗員とガイド。

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 入る前に、ガイドは入り口の案内図を示して、都江堰のシステムを説明。
 岷江をここで分流し、水不足だった成都周辺を潤した。
 都江堰は秦の始皇帝の時代より少し前に築かれた。始皇帝の巨大建築などは無くなってしまったが、この都江堰は二千三百年後の今でも機能を果たしている。
 この灌漑設備によって、成都平原は「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となった。
 ただし、システムは同じでも始皇帝の時代の都江堰ではない。先端の「魚嘴」が当時はもう2キロほど上流にあったという。

2017.6.3.1.jpg  この図は、入り口にあった案内図ではない。

 中央の中州4が人工の堤防で、先端の魚嘴2で川を左右に分水する。
 左3が岷江本流、右5が灌江。
 図の中で特に重要なのは2の「魚嘴」である。
 灌江を深く、岷江を浅くした。そのため水の少ない時は、灌江6割、岷江4割。
 川幅は、灌江を狭く岷江を広くした。水の多いときは、灌江4割、岷江6割。
 構造によりそのように分かれる。これにより灌江に分流される水量が安定する。それでも多すぎたときは、図の7で本流に戻す。それによって、必要な水量をいつでも灌漑水路に流せる。

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 このように竹籠に石を積めて、堰を作った。

 秦堰楼から、都江堰を眺望する。

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 向こう側が霞んでいるが、上流である。左右中央から右にかけて細長く中州状になっているが、その先端あたりが始皇帝の時代の魚嘴のあったところらしい。

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 この中州が人工の施設。右の先端の低いところが、魚嘴といわれる。
 その向こうの岷江本流側に1974年に閘門が完成した。今はこれで灌江の水量を調節できる。

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 吊り橋である。人が多いとかなり揺れる。

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 下流方向も工夫があって、灌江に取りすぎた水を岷江本流に戻し、水量の調節をしている。

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 二王廟、ここまで下って見学。

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 二王廟
 李冰は秦の昭襄王から銀十万両を与えられ、4年の歳月で完成させた。その後8年で運河を切り開いた。李冰は完成前に亡くなり、息子の李二郎が引き継いで完成させた。
 二王とはこの親子である。

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 2008年の四川大震災の時に一部は壊れたが、3年をかけて復旧した。
 二王廟の本堂。

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 この一階部分が入り口、下から上がってくる。私たちは裏口から入ったようなもの。

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 サルスベリが目を引く。

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 本堂をもう一度見て、階段を下りる。

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 階段の下から見上げる。

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 下まで下りてきた。水の流れはかなり速い。

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「貴君は何本の香を焚くや」
「三本なり」
 この台詞の意味が判る人はお仲間だ。

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 何先徳夫妻
 1804年、何先徳が橋を架ける工事を始めた。事故の責任を取らされ死罪となったが、妻がその意志を継いで吊り橋を完成させた。
吊り橋は夫妻橋ともいわれるとか。

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 安瀾索橋つまり吊り橋の上から。

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 渡り終えて振り返る。

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 魚嘴の上の水が岷江から灌江へ流れ込んでいるのが判る。

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 岷江にはこの水門がある。1974年に完成した。さらに四キロほど上流には大きなダムがある。

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 岷江本流
 先ほどの吊り橋を渡って戻り、出口に向かう。

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 外から。こちらが表門であろう。
posted by たくせん(謫仙) at 06:00| Comment(2) | 武侠世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする